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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 11月 29日

三十四、弟子への遺言

 英語版


日蓮は相模の依智にいたひと月のあいだ、弟子・信徒へ矢つぎ早に消息(手紙)を送っている。

 まず富木常忍には竜の口法難の三日後、九月十五日に届けている。

御嘆きはさることに候へどもこれには一定(いちじょう)と本より()して候へばなげ()かず候。いまゝで(くび)の切れぬこそ本意なく候へ。法華経の御ゆへに過去に頸をうし()なひたらば、かゝる少身の()にて候べきか。又「数々(さくさく)(けん)(ひん)(ずい)」と()かれて、度々(たびたび)(とが)にあたりて重罪を()してこそ仏にもなり候はんずれば、我と苦行をいたす事は心ゆへなり。『土木殿御返事

大難はもとより覚悟の上といっている。首を斬られなかったのが不本意だという。
 もちろん日蓮は自ら進んで死ぬつもりはない。
 日蓮は弘安元年五十七歳の時に著した神国王御書で「聖人横死せずと申す」と記している。自分が聖人なら横死などするはずがないと確信していた。単に法華経の行者なら修行の過程で難に遭い死し、その善業により来世で成仏することもあろう。しかし修行を極め、覚知した聖人()なら横死するわけがない。釈尊も提婆達多に再三狙われ、崖から岩を落とされて指から血を出している。また毒殺されそうにもなった。さらに酔った象により信徒が踏み潰され殺される難を受けている。しかし自身が横死することはなかった。
 いっぽう釈尊の二大弟子は法華経で将来仏になると宣言されながらも、ともに釈尊滅後の前に横死している。声聞の舎利弗は重病で死去、縁覚の目犍連はバラモンに殺されている。極楽寺良観にもし敗れたら法華経を捨て念仏を唱えると約束して挑戦した雨乞いの祈祷も、一見博打のような行動に思えるが、日蓮は釈尊の究極の教え法華経のとおり行じて、もし敗れることがあるならば、釈尊は大妄語の仏となる。しかしそうはならないという絶対の確信のもとで挑戦している。

さらに日蓮は文応九年三十九歳の時に著した『唱法華題目抄』で末法に出現する本尊の相貌を示している。

問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀、並に常の所行は何にてか候べき。
 答えて云く、第一に本尊は法華経八巻一巻一品(あるい)は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても、法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし

そして文永九年六月十六日、佐渡で図現した御本尊には中央に南妙法蓮華経、その両脇に南無釈迦牟尼仏・南無多宝如来と認められている。

本尊を表すためには日蓮自身が末法の本仏であることを明白に末法の衆生に示さなければならい。そのためには釈尊と同じく死を被る難に遭い、それを乗り越えて見せなければならない。四条金吾に竜の口の場に証人として立ち合わせたのはその意味があったからである。

日蓮は法華経の行者としての身を竜の口で捨て去り、末法の本仏としての本地を示した。したがって最初から法華経の行者としての命を捨てるつもりだったのだ。日蓮は弟子檀那とちがって、まったく動じていない。

 つぎは太田乗明、曽谷教信、金原法橋への消息である。

 譬()喩品(ゆぼん)に云はく「経を読誦し書持(しょじ)すること有らん者を見て軽賎憎嫉(きょうせんぞうしつ)して結恨(けっこん)(いだ)かん」と。法師品に云はく「如来の現在すら(なお)(おん)(しつ)多し、(いわん)や滅度の後をや」と。勧持品に云はく「刀杖を加へ乃至数々擯(しばしばひん)(ずい)せられん」と。安楽行品に云はく「一切世間、(あだ)多くして信じ難し」と。此等は経文には候へども、(いつ)の世にかゝるべしともしられず。過去の不軽菩薩・覚徳比丘なんどこそ、身に()たりて()みまいらせ候ひけるとみへ()んべれ。現在には正像二千年はさて()きぬ。末法に入っては、此の日本国には当時は日蓮一人()へ候か。昔の悪王の御時、多くの聖僧の難に値ひ候ひけるには、又所従眷属(けんぞく)等・弟子檀那等()くそばくかなげき()候ひけんと、今をもちておし()()かり候。今日蓮法華経一部()みて候。一句・一()(なお)記(注)をか()れり。(いか)に況や一部をやと、いよいよた()もし。(ただ)をほけなく国土までとこそ、を()ひて候へども、我と用ひられぬ世なれば力及ばず。しげき()ゆへにとゞめ()候ひ(おわ)んぬ。  『転重軽受法門

 法華経勧持品に説かれた『刀杖を加へ乃至数々擯出せられん』はじめ、数々の経文に明らかのように、末法に入っては日蓮ただ一人が身読したと伝えている。

                 三五、真冬の佐渡へ につづく
上巻目次

 


受記

求道者(菩薩)が仏から未来世に仏になるという記別を受けること。逆に仏が衆生に仏記を授けることを授記という。仏は求道者が未来世で成仏する時の仏の名号、出現する仏国土の名前、その仏が存在する時代((こう))の名前を明らかにして比丘()らに宣言する。例えば法華経譬喩品第三で舎利弗は釈尊から、法号を華光如来、仏国土を離垢(りく)、劫を大宝荘厳という記別を与えられる。さらに華光如来が十二劫すぎて滅度する際、堅満菩薩に華足安行多陀阿伽度となるという記別を与えると宣言している。()法華経では、提婆逹多・竜女・舎利(しゃり)(ほつ)迦葉(かしょう)等はおのおの天王如来、無垢証(むくしょう)如来、華光(けこう)如来、光明如来等の名号を与えられ、仏記を受けている。
 末法では妙法の授受を記という。

「御義口伝に云はく、記とは南無妙法蓮華経なり。授とは日本国の一切衆生なり。不信の者には授けざるなり、又(これ)を受けざるなり。今日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経の記を受くるなり」  『授記品四箇の大事




by johsei1129 | 2014-11-29 16:46 | 小説 日蓮の生涯 上 | Trackback | Comments(0)


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