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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 04月 06日

二十七、大難への予兆

    英語版


 日が暮れて鎌倉中が暗くなってきた。

 極楽寺では人々が雨のおちる門前にあつまり、平形の数珠を投げすてた。日蓮の法華宗への転教である。

 寺の中では周防房と入沢入道が良観をさがしていた。

 行方不明になったのである。

 やがて良観は邸内の庭にいることがわかった。

 彼は草かげにうずくまり、湿った地面を凝視していた。

 雷光が良観のすさまじい怒りの顔面をてらした。

 良観は釈尊の仏敵、提婆(だいば)(だっ)()になることをきめた。いや、なるべくしてなった。

 なんとしてでも日蓮を葬り去ることをきめたのである。

 提婆達多は釈迦の命をねらいつづけ、最後は自らの親指に毒を仕込み、釈迦を毒殺しようとしたが、自分自身に毒が回り、大地が割れ現身のまま無間地獄におちたという。

 その提婆逹多が釈迦を憎んだ直接の理由は、公衆の面前で罵倒されたからである。

 世尊提婆(だいば)(だつ)()を汝愚人・人の(つばき)を食らふと罵詈(めり)せさせ給ひしかば毒箭(どくせん)の胸に入るがごとくをもひて、うらみて云はく「()(どん)仏陀(ぶつだ)にはあらず。我は(こく)(ぼん)(のう)(注)の嫡子、阿難尊者が兄、瞿曇が一類なり。いかにあしき事ありとも、内々教訓すべし。(これ)()(ほど)の人天大会に、此程の大禍を現に向かって申すもの大人仏陀の中にあるべしや。されば先々(さきざき)妻のかたき、今は一座のかたき、今日よりは生々世々に大怨敵(おんてき)となるべし」と誓ひしぞかし。『開目抄上

 瞿曇とは釈迦のことである。

 釈迦は悪意があって提婆を叱責したわけではない。

 提婆はもともと釈迦の弟子だった。彼は釈迦とおなじ印度の王族であり、いとこ同士だった。それだけに智慧もあり衆望もあつかったが反面、功名心が異常に強く、釈迦のあとは自分が引きつぐと慢心していた。

 釈迦はそのような提婆をいくども教訓したが提婆は聞かない。釈迦は彼のどす黒い心性を見抜き、未来を思って叱責したのだった。

 人の唾を食うとは痛烈である。

 それほど提婆の暗い本性は底知れなかった。名聞名利で生きる提婆にとって大衆の面前で罵倒されることは死ぬことよりもつらい。提婆の心中に毒の矢が刺さった。立身にはやる提婆にとって、公衆の面前で面罵されたことは抜きがたい恨みとなった。印度第一の美女、耶輸(やしゅ)多羅(たら)(にょ)を妻にしようとして釈迦に敗れた遺恨もあった。

 提婆は思った。釈迦を亡きものにすることが自分を救うことだ。いらい彼は終生、釈迦の命をねらった。

 男は恥に命を捨てるという。提婆は公衆の面前で恥をかかされて、その本性をあらわにした。

 ちなみに提婆逹多はこのあと三逆罪を犯す。()阿羅漢、破和合僧、出仏(すいぶつ)(しん)(けつ)である。まず釈迦の弟子であり養母だった摩訶波闍(まかはじゃ)波提(はだい)を殺害した。つぎに釈迦の教団から弟子を連れ出して分裂させ、存亡の際まで追いつめた。最後は岩石を落として釈迦の足の小指をつぶしている。いかに悪人といえど、仏の身を傷つけたのは、あとにも先にも提婆達多と小松原の法難で日蓮の額を刀で切りつけた東条景信だけである


 良観は祈雨の勝負で立ち直れないまでの敗北を味わった。この恨みを晴らすためには、日蓮を抹殺する以外にない。いまの良観にとって日蓮の門下にくだるどころか、懺悔など露ほども考えられないことである。そのためにあらゆる手段を使わねばならない。僭聖(せんしょう)増上慢の本性をむき出しにしたのである。

 日蓮は釈迦と提婆逹多の二人の出会いが宿命であり、おなじく聖徳太子と物部守(もののべのもりや)の関係と同様であるという。法華経の行者の前に怨敵がいるのは必然であるといいきっている。

仏と提婆とは身と影のごとし、生々にはなれず。聖徳太子と守屋(注)とは蓮華の花果(けか)、同時なるがごとし。法華経の行者あれば必ず三類の怨敵(おんてき)あるべし。三類はすでにあり、法華経の行者は誰なるらむ。求めて師とすべし。一眼の眼の亀の(ふぼ)((注)に()ふなるべし。 『開目抄下

 降雨の祈りを終えた日蓮の一行がしとしと降る雨の中、若宮大路を進んだ。

 勝者の行進だった。

 沿道の衆が大歓声でむかえた。

 無理もない。

 関東の一円はこの雨で蘇生した。飢饉は間一髪でまぬかれたのである。


 祈雨の勝利によって日蓮に帰依する人々が熱狂的にひろまった。

 晴れた日の広場に人々があつまった。

 木々の緑はあざやかによみがえっていた。

 伯耆房が館で法華経の説法をした。

 また念仏の寺院では日朗が黒衣の僧と対面した。念仏僧が手をあわせて日朗に深々と頭をさげ、帰順の態度をしめした。

 武家屋敷では三位房がいならぶ武士の前で説法した。武士の一人が手をあわせるのにつづき、ぞくぞくと三位房に合掌した。

 三位房は得意そうな顔でうなずいた。

 いつものように日蓮は弟子たちを前に法華経の講義をした。座は熱気にあふれ、広宣(こうせん)流布(るふ)(注)への機運がいやがうえにも高まってきていた。

一念三千と申す事は迹門(しゃくもん)にすらなを()許されず(いか)(いわん)()(ぜん)(ぶん)()へたる事なり。一念三千の出処は(りゃっ)(かい)(さん)の十如実相なれども、義分は本門に限る。爾前は迹門の()()(はん)(もん)、迹門は本門の依義判文なり。(ただ)真実の()(もん)(はん)()は本門に限るべし。されば円の行まち()まち()なり(いさご)かず()へ大海を()なを()円の行なり。何に況や爾前の経をよみ弥陀等の諸仏の名号を唱うるをや。但これらは時時(よりより)の行なるべし。真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存すべき事は一念三千の観法なり。これは智者の(ぎょう)()なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととな()へさすべし。名は必ず体にいたる徳あり。法華経に十七種の名ありこれ通名なり。別名は三世の諸仏(みな)南無妙法蓮華経とつけさせ給いしなり。十章抄

 講義のあと、伯耆房がうれしさをこらえきれず話しだした。

「法華経の説法をぜひ聞きたいと懇願される御家人が多数でてまいりました」

日朗もつづいた。

「上人の祈雨が叶ったとの噂が広がり、鎌倉以外の地からも説法を請う者が数えきれないほどです。この十余年、日本国はみな念仏者でございましたが、上人のお力で十人に一人二人が南無妙法蓮華経と唱え、二三人は南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏の両方を唱え、また未だ念仏を申す者も、心は法華経を信じているように見受けられます」

 つづいて三位房も鼻高々だった。

「わたくしめも幕府をつかさどる武家の面々の前で説法することができました」

ここで彼は急に京都なまりになった。

「さきごろは京都でお公家様がたに召され、お話をいたして面目をほどこしました。そこでわたしは名を変えてみようかと思っております」
 三位房は公家なまりで滔々と語りだした。

 日蓮が話をさえぎった。

「まて、三位房。そなたの話はいかにも気がかりに思われる」

 三位房が意外な顔をした。法華経がいま勢いよく流布しているというのに日蓮の表情はけわしい。

「たもつ法はこの世にまたとない法門である。たとえ大菩薩であろうとなんであろう。まして日本の天皇はただ小島の(おさ)である。長なんどに仕える者どもに召されたとか、面目なんど申すのは、(せん)ずるところは日蓮を卑しんで申すようなものだ。総じて日蓮の弟子は京にのぼれば、はじめは忘れぬようにて、のちには天魔がついてものに狂う少輔房のようだ。おまえも少輔房のようになって天の怒りを招くことになる。わずかのあいだに名を変えるとは正気の沙汰とは思えない。言葉つきも声も京なまりになった。(ねずみ)がこうもりになったようだ。鳥にもあらず鼠にもあらず、田舎坊主にもあらず京法師にも似ず、すっかり少輔房になったようだ。言葉は田舎なまりで通せ。その浮かれた振る舞いは、なかなか悪い前兆であるぞ」

 少輔房とはかつて退転した弟子の名である。座が緊張した。

 今や高弟となった三位房が信徒の面前で叱責された。しかし三位房の顔は納得していない。

 日蓮がつづける。

「一切衆生の尊敬すべきものに三つあり。いわゆる主と師と親である。また習学すべきもの三つあり。儒教・外道・仏法である。この中に過去、現在、未来を見とおしてすぐれた教えは仏法である。その仏法の中でただ一つの正しい教えは法華経である。あらゆる虚飾をとりはらい、永劫の命を説いた法華経こそ真実の教えである。しかしだれもが法華経を見たが、読んだ者はいない」

 弟子はいぶかしがった。

 日蓮が法華経をひらく。

「『諸の無智の人有って悪口(あっく)罵詈(めり)等し及び(とう)(じょう)を加ふる者あらん』と。この一節は日蓮がこの世に生まれなければ、釈尊はほとんど妄語の人となったであろう。釈尊滅後、いったいだれが法華経のために悪口罵詈せられ、刀杖の難をうけた者がいたであろうか。日蓮がいなければ、法華経のこの偈は虚妄となってしまう」

 日蓮の真意とは反対に、弟子の中で日蓮を疑う者がいた。

 三位房はその筆頭で、内心ではこうつぶやいていた。

 (師匠の思いあがりだ)

 日蓮は淡々と説いていく。

「『この悪僧、常に大衆の中にあって国王、大臣、()羅門(らもん)に向かって我等の悪を説く』と。今、世の僧らが日蓮を誹謗し流罪にしなければこの経文はむなしい。この釈尊の予言が適うゆえに、ただ日蓮一人がこれを身で読んだのである。いまもまた三類の強敵(ごうてき)がうごめいている。すでに()()良観らが訴状をしるして将軍家に献上しようとしているのだ。これが三類の強敵でなくして、なんであろうか」

 祈雨の勝利によって鎌倉での日蓮の評判は劇的に好転したが、同時に日蓮を亡き者にしようとする勢力はその本来の力をむきだしにして策謀しはじめた。

 良観は念仏僧の然阿とともに、訴状を将軍家にさしだして日蓮を訴え、建長寺道隆は自ら奉行所に出むいて讒言した。

 日蓮はこの動きを察知していた。それはきたるべき大難の予兆だった。

 弟子たちは法華経の流布が進展していることに浮かれていたが、一人さめていたのである。


 ここで疑問が残る。日蓮はなぜ良観に降雨の対決を迫ったのかという疑問が。

 疑問の一つは、宗教の正邪は経による法論で決すべきと主張してきた日蓮が、なぜ降雨の対決で正邪を決しようと良観に迫ったのか。

 もう一つは、日蓮はこの時代では確実な予測が極めて困難な、しかも七日先までの天候について如何(いか)にして予知できたのであろうか、かりに予知測ができたとしたら、その根拠はいったい何だったのか。一説には日蓮は安房・()(みなと)の漁師の家で生まれたので、父親から天候の予測を聞いて育ったから雨が降らないことをあらかじめ予測ができたのだろう、と言う主張がある。しかし天候は変動する。しかも七日先までに雨が降らないという確実な予測は困難だ。

 生涯、法華経の弘通(ぐつう)に身を投じた日蓮が、宗教の正邪ではなく、雨が降らすことができるかどうかで宗教の勝劣を決するというのは、ある意味、博打(ばくち)同然であるとさえ思えてくる。そうなれば行き着く結論は、日蓮は自らが天候を自在に左右するだけの力用(りきゆう)を有していて、その絶対的確信をもって良観との降雨の対決に持ち込んだとしか考えられない。

 その意味で、日蓮大聖人は、良観に降雨の対決を迫った時点で、すでに末法の本仏としての確信を得ていたのでは、と強く推察される。

 
          二八、極楽寺良観の策謀 につづく


上巻目次

 斛飯王   

釈迦の父()()()()(じょう)(ぼん)(おう)の弟で、釈迦の叔父。竜樹の大智度論によると提婆(だいば)(だっ)()・阿難兄弟の父となっている。

 守屋

物部守屋(もののべのもりや)のこと。?~五八七年。大和時代の中央貴族。()()()()敏達・用明朝に大連となり、父・尾輿の排仏論を受けて崇仏派の蘇我馬子と対立した。日本書紀によると、敏達天皇十四年、馬子が大野岡に塔を起こして仏会を行ったのに対し、その頃、起こった疫病は崇仏が原因であるとして中臣(なかとみ)勝海(のかつみ)と共に排仏を上奏した。そして勅によって寺を焼き、仏像を焼いて難波の堀江に流した。その時、疱瘡が流行し、天皇・守屋・馬子共に患い、ついに天皇は逝去した。次いで用明天皇二年、勅によって崇仏が行われたが、守屋はこれに反対して軍勢をおこした。天皇の没後、(あな)穂部(ほべの)(おうじ)を擁立しようとして更に馬子と対立し、数度の戦いの後、(うまや)(どの)皇子(おうじ)(聖徳太子)が四天王に祈願した矢にあたって敗死した。以後、物部氏は衰退した。

一眼の亀の浮き木

 大海にすむ一眼の亀が、広大な海の中で我が身を癒す栴檀の浮き木にあいがたいこと。人間に生まれて正法にあうことの難しさをたとえたもの。

「仏には()いたてまつること得難し。()曇波(どんば)()()の如く、又、一眼の亀の浮き木の(あな)に値えるが如し」 「妙荘厳王本事品」

 広宣流布

 仏法を広く()べ流布すること。法華経薬王菩薩本事品第二十三に「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提(えんぶだい)に広宣流布して、断絶して悪魔、魔民、諸天、竜、夜叉(やしゃ)鳩槃(くはん)()等に、()便(たより)を得せしむること無けん」とある。仏法を広く世界に弘め伝えることによって平和な社会を築くことをいう。歴史上では、紀元前三世紀ごろ、インドの()(そか)王時代の小乗教流布、六世紀、中国・天台の法華経迹門(しゃくもん)の流布などがあり、日本では平安初期に伝教大師が法華経迹門の戒壇を比叡山に建立している。

 日蓮大聖人は末法に広宣流布すべき法門として三大秘法を打ち立て、在世中に本門の本尊を顕し、滅後に本門の戒壇の建立を遺命した。

「御義口伝に云はく、畢竟(ひっきょう)とは広宣流布なり、住一乗とは南無妙法蓮華経の一法に住すべき者なり、是人とは名字即の凡夫なり、仏道とは究竟(くきょう)(そく)是なり、疑とは根本疑惑の無明を指すなり。末法当今は此の経を受持する一行計りにして成仏すべきこと決定(けつじょう)なり云云。」 『神力品八箇の大事 畢竟(ひっきょう)(じゅう)一乗(いちじょう)○是人於仏道 決定(けつじょう)()有疑(うぎ)の事』

 地涌の菩薩

 釈迦の説法を助け、滅後の弘教を誓った本化の菩薩のこと。法華経従地涌出品第十五に説かれている。地涌の大士・地涌千界の大菩薩・本化の菩薩ともいい、末法に妙法を弘通するために出現する菩薩をいう。滅後の弘通を勧める釈迦の呼びかけに応えて大地の底から()き出てきたゆえに「地涌の菩薩」といい、上行・無辺(むへん)(ぎょう)・浄行・安立(あんりゅう)(ぎょう)の四菩薩を上首とする。釈迦は他方および迹化の菩薩を退(しりぞ)けて、如来神力品第二十一で上行等の四菩薩を上首とする地涌の菩薩に妙法を結要付嘱し、末法の弘通を託している。末法に三大秘法の南無妙法蓮華経を唱える者が地涌の菩薩となる。

「今日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は従地涌出の菩薩なり。外に求むる事無かれ云云。」『御義口伝 二十八品は悉く南無妙法蓮華経の事』



by johsei1129 | 2017-04-06 22:08 | 小説 日蓮の生涯 上 | Trackback | Comments(0)


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