人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2017年 04月 06日

二十三、強敵の胎動

                     英語版


日蓮の故郷、安房の砂浜に波が寄せては返し、幾万年も変わらぬ自然の営みが繰り返される。

しかしここ清澄寺では普段と違う慌ただしさに包まれていた。
 高僧の円智房が、今まさに臨終をむかえようとしていた。

道善房・浄顕房・義浄房らの僧侶、また古くからの檀家たちが円智房の床のそばに集まっていた。

幼い所化の中にはすでに涙ぐむ者がいた。

円智房はすでに身を起すこともできず、床に伏したまま静かに語り始めた。

「わたしはこの数十年、法華経を書写しながら一字ずつ三度、礼をしてまいりました。この功徳は来世でも輝くでありましょう。愚僧はこれから浄土へ行きまする。それにひきかえ日蓮は法華経をあやまって解釈した。強引な折伏はいずれ身をほろぼすことになるでしょう。皆々様はくれぐれも心するよう」

円智房は死の間際まで日蓮を蔑視していた。

声を殺して泣く者、手をあわせる者がいる。

円智房はついに息をひきとった。顔色は桃のように赤みを帯びていた。

清澄寺古参の老僧が讃歎した。

「成仏の相じゃ」

円智房の身は翌日の夜半に入棺、子の刻になり道善房の導師で葬儀が執り行われた。

葬儀が終わると彼の棺はひらかれ、顔に白布があてられた。

道善房と弟子の義浄房、浄顕房がすわる

道善房は役目を終え、すっかり放心したかのような表情をうかがわせていたが、葬儀の準備に奔走していた二人の弟子をねぎらった

これで円智房も無事冥途に旅だったことであろう。やれやれであるな。ところで今あらためて振り返って思えば、円智房殿は清澄寺の歴代の僧侶を代表する名僧であったな。信徒の尊敬を一身に集めた逸材であったな」

義浄房が不満げである。

「しかし、あやまちも多かったのではないでしょうか」

道善房が目をむいた。

「これ、葬儀が終わったばかりでなにをいう」

義浄房が棺に収まっている円智房の顔をじっとながめる。

「この方はお師匠をいじめぬいたお人です。日蓮上人のことも非難ばかりされておりました」

道善房がなだめた。

「よいよい、だがもう終わった。わしの気が弱いばかりに、おまえたちにも苦労をかけるな」

浄顕房がにじりよった。

「お師匠。お師匠様も法華経に帰依すれば日蓮上人もきっと喜ぶでしょう。僧侶が宗旨を変えるのはいくらでもあること。けっして恥ずかしいことではありませぬ。一刻も早いご決断を」

道善房はいつものように煮えきらない。
 やはり臆病なのか。

浄顕房と義浄房があきらめて顔を見あわせ、一礼をして去った。

道善房がひとり本堂にのこっていたが、ふと思いついた。

彼は棺にむかった。なにかいやな予感がする。

道善房は円地房の顔にあてられた布を恐る恐るはずした。そして半分ほどあけたとき、円智房の顔面が墨で染めたように真っ黒になっているのを見た。

円智房の片目が道善房をにらみつけるように開いている。

道善房がこの死相に仰天し、わななきながらあとずさりした。

円智房の顔色は最初桃色に輝いていたが、時間の経過とともに黒く変色していた。

その夜、浄顕房と義浄房が月にむかって南無妙法蓮華経と題目を唱えた。数人の信徒がうしろで唱和する。清澄寺では南無阿弥陀仏ではなく、日蓮が説く南無妙法蓮華経を唱える信徒が増えはじめていた。

ここに道善房がやってきた。

信徒たちが道善房に気づき、おどろいて席をあけた。

道善房は二人の弟子の背後にすわり、題目を唱えはじめた。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・」

浄顕房と義浄房が聞きなれた師、道善房の声に気づいた。
 二人は思わず顔を見合せるが、二人とも自然に涙があふれ出し、互いの顔がおぼろげにしか見えない。かろうじて前をむき今度は師道善房の声に合わせ、夜が更けるまで唱題が続けられた。

唱題の声が一段と大きくなっていった。


道善房の法華経帰依の知らせは鎌倉の日蓮にもとどいた。日蓮の喜びはひとかたでない。十二の歳から親代わりになってくれた。その師匠に恩をかえすことができたのだ。
 日蓮は思う。
 かつて師道善房を強い調子で破折したが、あの時の強言が道善房を正信に目覚めさせたのだと。

この時の思いを義浄房・浄顕房に宛てて翌年の文永七年、四十九歳の時(あらわ)した『善無畏三蔵抄』で次のように記す。

忠言耳に逆らひ良薬口に(にが)しと申すは是なり。今既に日蓮師の恩を報ず。定んで仏神納受し給はんか。

いっぽう鎌倉では日蓮の弘通が一段と熱を帯びていった。十一通の書状は幕府側に完全に無視されたかに見えたが、法華経の折伏の勢いはさらにつづいた。

日蓮門下の猛烈な弘教で念仏宗の勢いは止まった。これもまた強言のなせる業だった。

十一通の書状を献じてから、はや二年、文永七年ごろになると日蓮は法華経がこの日本国に確実に弘まっていることを実感、おなじ『善無畏三蔵抄』に次のように記している。

然るに日蓮は安房国東条(とうじょう)(かた)(うみ)石中(いそなか)の賤民が子なり。威徳なく、有徳の者にあらず。なにゝつけてか、南都(なんと)北嶺(ほくれい)(注)のとゞめがたき天子(てんし)()()(注)の制止に叶はざる念仏をふせぐべきとは思へども、経文を亀鏡と定め、天台伝教の指南を手ににぎ()りて、建長五年より今年文永七年に至るまで、十七年が間是を責めたるに、日本国の念仏大体(とど)まり(おわ)んぬ。眼前に是見えたり。又口に()てぬ人々はあれども、心計りは念仏は生死をはな()るゝ道にはあらざりけると思ふ。

禅宗以て()くの如し。一を以て万を知れ。真言等の諸宗の誤りをだに留めん事、手ににぎりておぼゆるなり。(中略)

当世此の十余年已前は一向念仏者にて候ひしが、十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ、二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑ひをなす故に心中に法華経を信じ、又釈迦仏を造り(たてまつ)る。是亦日蓮が強言より起こる。譬へば栴檀(せんだん)()(らん)より生じ、蓮華は泥より出でたり。而るに念仏は無間地獄に()つると申せば、当世、牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染(かりそめ)にも(そし)るは、(やせ)(いぬ)が師子王をほへ、()(ざる)帝釈(たいしゃく)を笑ふに似たり。 

日蓮が聴衆でうまった鎌倉の館で説法をはじめた。

「国に災難がおきようとしているのに鎌倉殿からなんの返事もないのは、ひとえに鎌倉殿をとりまく邪宗の僧侶たちの讒言(ざんげん)によるものです。余は時宗殿に言おう。建長寺・極楽寺への布施を止めよと。

仏の滅後二千二百二十余年の間、だれも弘めなかった法華経の肝心、諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法のはじめに弘まる瑞相(ずいそう)に日蓮は先がけした。皆様がたも二陣三陣と続いて釈尊の弟子、迦葉(かしょう)阿難(あなん)(注)にもすぐれ、天台・伝教さえも超えてくだされ。鎌倉殿といえど、唐土、天竺に比べれぱわずかの小島の主にすぎません。その主が脅そうとするのを、おじけづいては閻魔(えんま)王の責めをどう逃れるのか。仏の使いと名のりながら、臆病になる者は無下(むげ)の人です」

このとき日蓮にむかって石が投げられた。

矢継ぎ早の石つぶてが日蓮の肩にあたった。

日蓮がたもとをあげてふせぐ。

四条金吾が矢面に立ち、富木常忍・太田乗明が立ちあがった。

「なにをする」

投石した者が出口へと逃げていく。

金吾があとを追おうとしたが止まった。

そこに役人とおぼしき数人の武士が立っている。

 金吾が問い詰める。

「どなたかな」

「問注所の者である」

「問注所。おぬしら場所をまちがえておる。ここは日蓮上人のお館である」

役人は言った。

「いや日蓮殿ではなく、信徒の方々に御用があり参った次第です」

役人が日蓮の前に進み、立ちながら書状を読みあげた。

「そのほうの信徒、富木常忍・四条頼基・太田乗明の三名にお尋ねあり。明後日、三名は鎌倉問注所に出頭せよ。そのほうらの法華経の信仰について訴えあり。明後日、問注所において弁明せよ。三名の意向いかん」

常忍が正座して目を輝かせた。

「ぜひまいります」

金吾もつづいた。

「よろこんで出頭いたす」

太田がにこやかに答える。

「お役目ご苦労にございます。かならずうかがいますぞ」

「では明後日」

役人が去ったあと、三人が日蓮の前にすすみでた。

日蓮はこの急な事態に驚いたが、眼差しは明らかに輝いていた。来るべきものがようやくやってきたという思いだった。

 

文永六年五月九日、その日の朝のことだった。四条金吾は支度に忙しかった。

妻の日眼女が夫に帷子(かたびら)を着せる。

金吾は三十九になった。この十数年、日蓮を師として弘教にあけくれた。今日は彼にとって決戦の日である。

だが日眼女は心配な顔をあらわにした。

金吾が妻の顔をのぞく。

「どうした」

 日眼女はとりつくろった。

「いえ、なんでもありませぬ」

 金吾はおちついていた。

「案ずることはない。今日の評定はきっとうまくゆく。たとえわしが感情に走っても、富木殿や太田殿がかばってくれよう。心配いたすな」

日眼女はなおも憂い顔だった。

「いえ今日のことではありませぬ。これからのことです」

「これからのこと・・」

日眼女が金吾を見つめた。

「あなたは上人とお会いしてから見ちがえるようになりました。いつも怒ってばかりいたあなたが、ご自分を自制できる人になろうとは思いませんでしたわ。それだけでも法華経がすばらしいことはわかるのです。でも・・」

「でも、なんだ」

日眼女が背中をむいた。

「このままあなたがわたしたちをおいて、どこか別な世界に行ってしまうような気がしてなりませぬ。わたしはそれが不安で・・」

金吾が妻の肩に手をおいた。

「案ずるな。わしが妻と子をさしおいて、どこにいこうぞ。われら親子はいつも一緒じゃ。上人が申しておられたではないか。われら凡夫は(はえ)のようにはかない。だが千里を走る馬の背につけば、自由自在な世界に行けると。われら親子も、一緒に上人の背中についていくだけだ」

日眼女はふりむいて金吾の目を見た。

「いまの言葉、お忘れなきよう・・」


金吾が勇壮に館からでた。従者がつづく。

そして若宮大路を勇ましくすすんだ。
 富木常忍・太田乗明・四条金吾の三人は、問注所に出むく前にそろって日蓮の館に立ち寄った。その時日蓮はあらかじめ問注所で訴える際の細々した注意事項を書き記した書状を用意していた。

今日召し合はせ御問注の由承り候。各々御所念の如くならば、三千年に一度花さき(このみ)なる優曇華(うどんげ)に値へるの身か。西王母(せいおうぼ)(その)の桃、九千年に三度之を得るは東方朔(とうほうさく)が心か。一期(いちご)の幸ひ、何事か之に()かん。御成敗の甲乙は(しばら)く之を置く。(さき)立ちて(うつ)(ねん)を開発せんか。
 但し(けん)(じつ)御存知有りと雖も、駿馬(しゅんめ)にも(むち)うつの理之有り。今日の御出仕公庭に望みての後は、設ひ知音(ちいん)たりと雖も、(ほう)(ばい)に向かひて雑言(ぞうごん)を止めらるべし。両方召し合はせの時、御奉行人、訴陳の状之を読むの(きざ)み、何事に付けても御奉行人御尋ね無からんの外は一言をも出だすべからざるか。設ひ敵人等悪口を吐くと雖も、各々当身の事一・二度までは聞かざるが如くすべし。三度に及ぶの時、顔貌(げんみょう)を変ぜず、()(げん)を出ださず、(なん)()以て申すべし。
 各々は一処の同輩なり。私に於ては全く違恨(いこん)無きの由之を申さるべきか。又御供の雑人(ぞうにん)等に()く能く禁止を加へ、喧嘩(けんか)を出だすべからざるか。是くの如きの事、(しょ)(さつ)に尽くし難し、心を以て御斟酌(ごしんしゃく)有るべきか。
 此等の(きょう)(げん)を出だす事、恐れを存ずと雖も、仏経と行者と檀那と三事相応して一事を成ぜんが為に愚言を出だす処なり。恐々謹言。
 五月九日         日 蓮 花押
 三人御中                 『問注得意抄』


 ()今日召し合わせて、訴えの問注があると聞きました。三人が念願されたとおりであれば、三千年に一度花が咲き、菓がなるという優曇華に値える機会を得た身となりましょう。
 また九千年に三度しか実がならない西王母の園の桃を、東方朔が九千年に三度得たのと同じ気持ちでもありましょう。
 一生のうちで、これほどの幸いは、またとない機会です。
 御成敗の是非についてはともかく、あなた方はまずもって日頃の鬱念を訴えるべきです。ただし、すでにご存じのことでありますが、駿馬にも鞭うつということもありますから、本日出仕し、公の場所に出られたからには、たとえ知り合いの者であっても雑言を言ってはなりません。両者が呼び出され、御奉行人が訴えの文を読む間は、何事があっても奉行人から尋ねられない限り、一言でも口を出してはいけません。
 たとえ敵方が悪口を吐いたとしても、一度や二度までは聞いていないふりをすべきす。
 それが三度におよぶようであったら、顔色を変えず、無礼なことを言わず、やわらかな言葉で反論すべきです。
 相手方とは同じ部署の同輩であります。それ故、私事においては全く遺恨などありませんと言っておくべきです。また、御供の人はくれぐれも、喧嘩などしないよう注意しておくべきです。
 このような事は、書面ではすべてを書き尽くせないので、その他のことは私の意図を思って斟酌してください。

 これらのことを思いついたまま言っているようで恐れ入りますが、仏経と行者と檀那の三つが相応して、一事を成就することを願って愚言を述べたわけです。恐々謹言


 三人は日蓮のしたためた書状を読むと、信徒を思う師の心に触れ、思わず床に手をつけ感謝した。さらに常忍は日蓮から渡された書状に「問注時可存知由事(問注の時、存知すべき由の事)」とわざわざ書き込みをしている。この時の日蓮の真筆は常忍と乗明が開基した中山法華経時に現存する。
 だれが訴えたのかは定かではない。だが日蓮は問注では百戦錬磨である。げんに清澄寺と地頭の東条景信との領地をめぐる争いでは、日蓮は先頭になって訴え続け、すべて勝利している。法華宗が対論におよべば必ず勝つ。三人はそのために日々日蓮から薫陶を受けていたのだ。問注の勝利によって、法華経の正しさが鎌倉の人々に伝われば広宣流布がまた一歩近づく。



二十四、広宣流布の壁 につづく


上巻目次

南都北嶺

南都は奈良。北嶺は比叡山のこと。伝教が比叡山延暦寺に天台宗を開いて以来、南都に対してこう呼んだ。のち特に南都の興福寺と比叡山延暦寺をさした。


天子虎牙

虎牙とは虎の牙から転じて権力のこと。天皇の権力の意。


阿難

梵名アーナンダ。阿難陀・阿難尊者ともいう。釈迦の従弟(いとこ)で提婆逹多の弟にあたるとされる。釈迦の声聞十大弟子の一人で多聞第一と呼ばれた。出家後、二十七歳で釈迦に常随給仕する役目となり、それ以後、釈迦の説法にはすべて立ち会ったとされる。釈迦入滅後、仏典の第一回結集の際には(じゅ)(しゅつ)者として中心的役割を果たした。そのため釈迦が説いた仏典の書き出しは全て「如是(にょぜ)我聞(がもん)(この様に私阿難は釈尊から聞きました)」の四文字で始まっている。また迦葉に次いで法灯伝持の第二祖(付法蔵第二)となった。




by johsei1129 | 2017-04-06 20:17 | 小説 日蓮の生涯 上 | Trackback | Comments(0)


<< 二十五、極楽寺良観と日蓮、降雨の対決      二十二、 三類の怨敵 >>