2017年 04月 06日
日蓮の故郷、安房の砂浜に波が寄せては返し、幾万年も変わらぬ自然の営みが繰り返される。 しかしここ清澄寺では普段と違う慌ただしさに包まれていた。 道善房・浄顕房・義浄房らの僧侶、また古くからの檀家たちが円智房の床のそばに集まっていた。 幼い所化の中にはすでに涙ぐむ者がいた。 円智房はすでに身を起すこともできず、床に伏したまま静かに語り始めた。 「わたしはこの数十年、法華経を書写しながら一字ずつ三度、礼をしてまいりました。この功徳は来世でも輝くでありましょう。愚僧はこれから浄土へ行きまする。それにひきかえ日蓮は法華経をあやまって解釈した。強引な折伏はいずれ身をほろぼすことになるでしょう。皆々様はくれぐれも心するよう」 円智房は死の間際まで日蓮を蔑視していた。 声を殺して泣く者、手をあわせる者がいる。 円智房はついに息をひきとった。顔色は桃のように赤みを帯びていた。 清澄寺古参の老僧が讃歎した。 「成仏の相じゃ」 円智房の身は翌日の夜半に入棺、子の刻になり道善房の導師で葬儀が執り行われた。 葬儀が終わると彼の棺はひらかれ、顔に白布があてられた。 道善房と弟子の義浄房、浄顕房がすわる。 道善房は役目を終え、すっかり放心したかのような表情をうかがわせていたが、葬儀の準備に奔走していた二人の弟子をねぎらった。 「これで円智房も無事冥途に旅だったことであろう。やれやれであるな。ところで今あらためて振り返って思えば、円智房殿は清澄寺の歴代の僧侶を代表する名僧であったな。信徒の尊敬を一身に集めた逸材であったな」 義浄房が不満げである。 「しかし、あやまちも多かったのではないでしょうか」 道善房が目をむいた。 「これ、葬儀が終わったばかりでなにをいう」 義浄房が棺に収まっている円智房の顔をじっとながめる。 「この方はお師匠をいじめぬいたお人です。日蓮上人のことも非難ばかりされておりました」 道善房がなだめた。 「よいよい、だがもう終わった。わしの気が弱いばかりに、おまえたちにも苦労をかけるな」 浄顕房がにじりよった。 「お師匠。お師匠様も法華経に帰依すれば日蓮上人もきっと喜ぶでしょう。僧侶が宗旨を変えるのはいくらでもあること。けっして恥ずかしいことではありませぬ。一刻も早いご決断を」 道善房はいつものように煮えきらない。 浄顕房と義浄房があきらめて顔を見あわせ、一礼をして去った。 道善房がひとり本堂にのこっていたが、ふと思いついた。 彼は棺にむかった。なにかいやな予感がする。 道善房は円地房の顔にあてられた布を恐る恐るはずした。そして半分ほどあけたとき、円智房の顔面が墨で染めたように真っ黒になっているのを見た。 円智房の片目が道善房をにらみつけるように開いている。 道善房がこの死相に仰天し、わななきながらあとずさりした。 円智房の顔色は最初桃色に輝いていたが、時間の経過とともに黒く変色していた。 その夜、浄顕房と義浄房が月にむかって南無妙法蓮華経と題目を唱えた。数人の信徒がうしろで唱和する。清澄寺では南無阿弥陀仏ではなく、日蓮が説く南無妙法蓮華経を唱える信徒が増えはじめていた。 ここに道善房がやってきた。 信徒たちが道善房に気づき、おどろいて席をあけた。 道善房は二人の弟子の背後にすわり、題目を唱えはじめた。 「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・」 浄顕房と義浄房が聞きなれた師、道善房の声に気づいた。 唱題の声が一段と大きくなっていった。 道善房の法華経帰依の知らせは鎌倉の日蓮にもとどいた。日蓮の喜びはひとかたでない。十二の歳から親代わりになってくれた。その師匠に恩をかえすことができたのだ。 この時の思いを義浄房・浄顕房に宛てて翌年の文永七年、四十九歳の時著した『善無畏三蔵抄』で次のように記す。 忠言耳に逆らひ良薬口に苦しと申すは是なり。今既に日蓮師の恩を報ず。定んで仏神納受し給はんか。 いっぽう鎌倉では日蓮の弘通が一段と熱を帯びていった。十一通の書状は幕府側に完全に無視されたかに見えたが、法華経の折伏の勢いはさらにつづいた。 日蓮門下の猛烈な弘教で念仏宗の勢いは止まった。これもまた強言のなせる業だった。 十一通の書状を献じてから、はや二年、文永七年ごろになると日蓮は法華経がこの日本国に確実に弘まっていることを実感、おなじ『善無畏三蔵抄』に次のように記している。 然るに日蓮は安房国東条片海の石中の賤民が子なり。威徳なく、有徳の者にあらず。なにゝつけてか、南都北嶺(注)のとゞめがたき天子虎牙(注)の制止に叶はざる念仏をふせぐべきとは思へども、経文を亀鏡と定め、天台伝教の指南を手ににぎりて、建長五年より今年文永七年に至るまで、十七年が間是を責めたるに、日本国の念仏大体留まり了んぬ。眼前に是見えたり。又口にすてぬ人々はあれども、心計りは念仏は生死をはなるゝ道にはあらざりけると思ふ。 禅宗以て是くの如し。一を以て万を知れ。真言等の諸宗の誤りをだに留めん事、手ににぎりておぼゆるなり。(中略) 当世此の十余年已前は一向念仏者にて候ひしが、十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ、二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑ひをなす故に心中に法華経を信じ、又釈迦仏を造り奉る。是亦日蓮が強言より起こる。譬へば栴檀は伊蘭より生じ、蓮華は泥より出でたり。而るに念仏は無間地獄に墮つると申せば、当世、牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染にも毀るは、糞犬が師子王をほへ、癡猿が帝釈を笑ふに似たり。 日蓮が聴衆でうまった鎌倉の館で説法をはじめた。 「国に災難がおきようとしているのに鎌倉殿からなんの返事もないのは、ひとえに鎌倉殿をとりまく邪宗の僧侶たちの讒言によるものです。余は時宗殿に言おう。建長寺・極楽寺への布施を止めよと。 仏の滅後二千二百二十余年の間、だれも弘めなかった法華経の肝心、諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法のはじめに弘まる瑞相に日蓮は先がけした。皆様がたも二陣三陣と続いて釈尊の弟子、迦葉・阿難(注)にもすぐれ、天台・伝教さえも超えてくだされ。鎌倉殿といえど、唐土、天竺に比べれぱわずかの小島の主にすぎません。その主が脅そうとするのを、おじけづいては閻魔王の責めをどう逃れるのか。仏の使いと名のりながら、臆病になる者は無下の人です」 このとき日蓮にむかって石が投げられた。 矢継ぎ早の石つぶてが日蓮の肩にあたった。 日蓮がたもとをあげてふせぐ。 四条金吾が矢面に立ち、富木常忍・太田乗明が立ちあがった。 「なにをする」 投石した者が出口へと逃げていく。 金吾があとを追おうとしたが止まった。 そこに役人とおぼしき数人の武士が立っている。 金吾が問い詰める。 「どなたかな」 「問注所の者である」 「問注所。おぬしら場所をまちがえておる。ここは日蓮上人のお館である」 役人は言った。 「いや日蓮殿ではなく、信徒の方々に御用があり参った次第です」 役人が日蓮の前に進み、立ちながら書状を読みあげた。 「そのほうの信徒、富木常忍・四条頼基・太田乗明の三名にお尋ねあり。明後日、三名は鎌倉問注所に出頭せよ。そのほうらの法華経の信仰について訴えあり。明後日、問注所において弁明せよ。三名の意向いかん」 常忍が正座して目を輝かせた。 「ぜひまいります」 金吾もつづいた。 「よろこんで出頭いたす」 太田がにこやかに答える。 「お役目ご苦労にございます。かならずうかがいますぞ」 「では明後日」 役人が去ったあと、三人が日蓮の前にすすみでた。 日蓮はこの急な事態に驚いたが、眼差しは明らかに輝いていた。来るべきものがようやくやってきたという思いだった。
文永六年五月九日、その日の朝のことだった。四条金吾は支度に忙しかった。 妻の日眼女が夫に帷子を着せる。 金吾は三十九になった。この十数年、日蓮を師として弘教にあけくれた。今日は彼にとって決戦の日である。 だが日眼女は心配な顔をあらわにした。 金吾が妻の顔をのぞく。 「どうした」 日眼女はとりつくろった。 「いえ、なんでもありませぬ」 金吾はおちついていた。 「案ずることはない。今日の評定はきっとうまくゆく。たとえわしが感情に走っても、富木殿や太田殿がかばってくれよう。心配いたすな」 日眼女はなおも憂い顔だった。 「いえ今日のことではありませぬ。これからのことです」 「これからのこと・・」 日眼女が金吾を見つめた。 「あなたは上人とお会いしてから見ちがえるようになりました。いつも怒ってばかりいたあなたが、ご自分を自制できる人になろうとは思いませんでしたわ。それだけでも法華経がすばらしいことはわかるのです。でも・・」 「でも、なんだ」 日眼女が背中をむいた。 「このままあなたがわたしたちをおいて、どこか別な世界に行ってしまうような気がしてなりませぬ。わたしはそれが不安で・・」 金吾が妻の肩に手をおいた。 「案ずるな。わしが妻と子をさしおいて、どこにいこうぞ。われら親子はいつも一緒じゃ。上人が申しておられたではないか。われら凡夫は蠅のようにはかない。だが千里を走る馬の背につけば、自由自在な世界に行けると。われら親子も、一緒に上人の背中についていくだけだ」 日眼女はふりむいて金吾の目を見た。 「いまの言葉、お忘れなきよう・・」 金吾が勇壮に館からでた。従者がつづく。 そして若宮大路を勇ましくすすんだ。 今日召し合はせ御問注の由承り候。各々御所念の如くならば、三千年に一度花さき菓なる優曇華に値へるの身か。西王母の薗の桃、九千年に三度之を得るは東方朔が心か。一期の幸ひ、何事か之に如かん。御成敗の甲乙は且く之を置く。前立ちて欝念を開発せんか。 (訳)「今日召し合わせて、訴えの問注があると聞きました。三人が念願されたとおりであれば、三千年に一度花が咲き、菓がなるという優曇華に値える機会を得た身となりましょう。 これらのことを思いついたまま言っているようで恐れ入りますが、仏経と行者と檀那の三つが相応して、一事を成就することを願って愚言を述べたわけです。恐々謹言」 三人は日蓮のしたためた書状を読むと、信徒を思う師の心に触れ、思わず床に手をつけ感謝した。さらに常忍は日蓮から渡された書状に「問注時可存知由事(問注の時、存知すべき由の事)」とわざわざ書き込みをしている。この時の日蓮の真筆は常忍と乗明が開基した中山法華経時に現存する。
二十四、広宣流布の壁 につづく 南都北嶺 南都は奈良。北嶺は比叡山のこと。伝教が比叡山延暦寺に天台宗を開いて以来、南都に対してこう呼んだ。のち特に南都の興福寺と比叡山延暦寺をさした。 天子虎牙 虎牙とは虎の牙から転じて権力のこと。天皇の権力の意。 阿難 梵名アーナンダ。阿難陀・阿難尊者ともいう。釈迦の従弟で提婆逹多の弟にあたるとされる。釈迦の声聞十大弟子の一人で多聞第一と呼ばれた。出家後、二十七歳で釈迦に常随給仕する役目となり、それ以後、釈迦の説法にはすべて立ち会ったとされる。釈迦入滅後、仏典の第一回結集の際には誦出者として中心的役割を果たした。そのため釈迦が説いた仏典の書き出しは全て「如是我聞(この様に私阿難は釈尊から聞きました)」の四文字で始まっている。また迦葉に次いで法灯伝持の第二祖(付法蔵第二)となった。
by johsei1129
| 2017-04-06 20:17
| 小説 日蓮の生涯 上
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