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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 03月 19日

十八、他国侵逼難の的中 蒙古の国書到着

              英語版


十七歳の時宗がひとり、父時頼の位牌に手をあわせ祈っていた。侍所の静かな一室である。

時頼は五年前に亡くなっていた。三十七歳の若さだった。

その子時宗は文永五年(一二六八)三月五日、若干十八歳で第八代執権となった。父時頼は二十歳で第五代執権となったが、時宗はさらに二歳早く執権職に就任したことになる。
 時宗は北条家の総領、ひいては日本の支配者として君臨しなければならない。彼はここから逃げるわけにはいかなかった。この運命とも宿命ともいうべき試練に耐えていかねばならない。

時宗はだれもいない部屋で、せつない思いを誰はばかるところなくみせた。

「父上、なにとぞわが北条をお守りください。日本は今までは父上のおかげで安泰でありました。さりながら武士の世の習い、戦乱は必ずやってくるでありましょう。わが一族の中にさえ、反逆をたくらむ者がおります。まして御家人においてはなおさらのこと。主従はもとより父母・兄弟・夫婦にいたるまで争う世です。これを避けるためには、父上のお力にすがるしかありませぬ」

平頼綱が戸の向こうでかしずいていた。

「殿、時刻にございます」

 

は口元を引き締め、広間に通じる長い廊下を一直線にすすむ。頼綱があわてて後に従った。

広間では武士がぎっしりと整列していた。みな鎧甲を身にまとい、この日の晴れ舞台にふさわしい最高の出で立ちで時宗を待っていた。

上座には腹違いの兄時輔がすでに坐っている。

下座には御家人の代表格がすわり、その背後に配下の武士がひかえる。

彼らの思いは一つではない。北条に心服随従する御家人もいれば、北条一門でも傍系の兄時輔と同じく現状に憤懣やるかたない者もいた。

またここに日蓮門下の信徒もいた。北条の分家、北条(名越)光時には四条金吾。また千葉下総介には富木常忍。また評定所の高官、太田乗明もひかえた。

さらに広間につづく広大な庭には雑人や薙刀持ちなど、所従の部隊が所せましとひかえている。

時宗が登場した。

部隊から歓声があがった。

御家人がいっせいに起立して頭をさげた。しかし兄の時輔だけは起立せず、傲然としたままである。

時宗が床几に座り、おくれて平頼綱がそばに座る。

最有力の御家人、安達泰盛が立ち上がり、時宗の一歩前に進み出た。

「これより相模(さがみ)(かみ)、北条時宗様の執権就任の儀を行う。みなのもの静粛に」

小声で泰盛を侮蔑する者がいる。
時宗様の義理の兄であるだけで、大きな顔をしおって)
 この発言が耳に届かない泰盛は新しい執権時宗を盛り立てる大演説をつづけた。

「亡き時頼様のあとをうけ、このたび幼きより武運の誉れ高い時宗殿が執権に就任した。おのおのがた、この若き鎌倉の頭領をもりたてるのだ」

武士団がいっせいに応じた。

「おなじくご子息であらせられる時輔殿は、京都六波羅にご着任される」

一同がどよめいた。

この時、当の時輔が立ちあがった。
「なぜわしが京都にいって公家の機嫌を取らねばならぬ。わしこそが鎌倉の頭領のはずだ。兄のわしがなぜ執権とならんのだ」
 泰盛が困った顔でなだめる。
「時輔様、なんども申しあげたとおり、第五代執権、時頼様の遺言でござる」

時輔の興奮はさめない。

「ええい、聞きとうないわ」

時輔がざわめく武士団の中央を通りすぎ去っていった。時宗の執権就任にあからさまに反旗を翻す態度であった。

場内がざわついた。予想外の展開である。一枚岩と思われた北条の思わぬほころびに笑みを浮かべる御家人もいた

泰盛が半ばあきれ顔で時宗のそばに控えた。

つぎに平頼綱がせきばらいをして立ち、武士団の前にでた。

「拙者、時宗様の執事をつとめる平頼綱、人呼んで(へい)の左衛門尉と申す」

御家人の一人がつぶやく。

(ふん、北条の番犬めが)

「執事とは時宗様の家事をとりしきり、場合によっては身を盾にしてお守り申しあげる者。このなかには今日の晴れ舞台を快く思わぬ者がいるとは思えないが、例えいたとしても、それはそれでよい。この頼綱、そのような者どもが仮に盾つくことあれば、草の根をわけても首かき斬ってくれよう」

頼綱が座を見わたす。

「おのおの、そのつもりでいられよ」

ここで名越光時が我慢できずに声をはりあげた。

「左衛門尉、場所をわきまえぬか。執事の分際で口がすぎるぞ」

名越光時は北条の分家筆頭である。ここで一言いわなければ一門に対し、示しがつかない。

みなざわめきだした。
 しかし時宗が扇子をさっと頭上にあげると、座がいっせいに静まった。このあたり若干十八歳とはとても思えない。時宗は執権就任という一大事に、父時頼の背中を見て育った賜物ともいえる振舞を見せつけた。

時宗が檄を飛ばす。彼の口調はいたずらに絶叫するわけではないが、頭領にふさわしく力強い。

「われわれ武士は世の乱れから誕生した。公家が政治を壟断(ろうだん)し、民の苦しみを見すごした。このためわれら武家が世を治めることとなった。源頼朝様いらい、その精神はかわっていない。たまたま北条がこの天下の政事をうけもったが、このわしもおぬしら武士の身分を安堵するであろう。この二十年、いくさはなく平穏ながら、こまかな争いは絶えない。多くの武士に少ない土地。水少なければ魚さわぎ、木ひくければ鳥がざわめく。おのおの不満はあろう。だがこれからも武断の世はつづく。頼朝様の精神をつぐ者は誇りをもて。この幕府に刃向かう者あれば八幡大菩薩になりかわり、撃退するまで」

時宗の檄に答え、武士団が雄叫びをあげてこたえる。雑兵も持っている薙刀を天に届けとばかり高く突き出した。

鎌倉に(とき)の声がいくどもこだました。

このいっぽう、この年の正月、鎌倉のはるか西の九州博多湾で大事件がおきていた。

中国大陸から蒙古の大船が来航したのである。

船にはいかめしい蒙古の武将につづいて高麗の役人が乗っていた。物々しい出で立ちだった。

博多湾は朝鮮半島をひかえ、南宋との貿易もあって多数の商船が行きかっていた。高麗や中国の船がまざり、にぎやかな湾にひときわ大きな蒙古船が到着した。

民百姓は集まり、船からおりる一行を見てささやきあった。

蒙古の使者は上陸して太宰府へむかった。

広々とした太宰府の建物に蒙古の一行が入っていく。

かれらは床にしつらえた椅子にすわり、日本の役人と対面した。

蒙古人がおもむろに言上した。

「われらは大蒙古国、フビライ皇帝の使者としてまいった。日本国王に告げる」

一行が書を読みあげた。

上天(けん)(めい)、大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る、(ちん)(おも)ふに(いにしえ)より小国の君は、境土相接すれば(なお)(こう)(しん)(しゅう)(ぼく)(つと)む、(いわん)んや我が祖宗は天の明命を受けて()()(えん)(ゆう)す、遐方(かほう)異域()(おそ)(とく)(おも)ふ者(ことごと)く数ふべからず、朕即位の(はじめ)、高麗の無辜(むこ)の民、久しく(ほう)(てき)(つか)るを以って即ち(へい)()めしめ、其の彊域(きょういき)(かえ)し其の旄倪(ぼうげい)()へす、高麗の君臣感戴(かんたい)して来朝す、義は君臣と(いえど)も而して歓は父子の若し、王の君臣を計るに亦已に之を知る、高麗は朕の東藩なり、日本は高麗に密邇(みつじ)し開国以来、亦時に中国に通ず、朕の()に至っ一乗(いちじょう)使(つかい)の以て和好を通ずるなし、尚恐る、王国之を知ること末だ(つまびら)かならざることを、故に特に使を遣はして書を持して朕が志を布告す、(こいねがわ)くは自今以往、間を通じ好を結び、以て相親睦せん、且つ聖人は四海を以て家となす、相通好せざる、(あに)一家の理ならんや、兵を用ひるに至っては、()(いず)れが好む所ならん、王其れ之を図れ、不宣
(


ふせん
)


  大意は以下のとおりである。

天の慈しみを受けて最高の位についた大蒙古国の皇帝が、書を日本の国王に送る。
 朕思うに、昔から小国の王は国境が接する国とは修好につとめるものである。ましてや、朕の先祖は、天の命によって世界を支配している。遠方の異国でも朕の威力を畏れ、徳を慕うものは数え切れない。
 朕が即位したばかりのころ、高麗の民が戦乱に疲れていたので戦争をやめて講和し、老人子供を故郷に帰らせた。高麗は感謝して朝貢に来た。朕と高麗とは君と臣の関係だが、喜びあうことは父子のような間柄である。
 貴国や貴国の重臣、その家臣たちも、この事は知っていよう。高麗は朕の東方の属国である。
 日本は高麗に接した国で建国以来、しばしば中国に通交に来た。ところが朕の代になってからは、ただの一度も来ておらず誼は通じていない。なぜか。おそらく貴国は世界の情勢を知らないのであろう。

したがって使いを派遣し、国書を持たせて朕の意思を知らせる。いまから親交を結ぼうではないか。聖人は世界を一家と考える。親交を結ばないのは一家とはいえない。
 日本がこのことを理解できないとき、武力を用いることになるが、それは皇帝の望むところではない。日本の国王よ、よく理解せよ。


日本側の役人が驚愕した。「至用兵夫孰所好」とある。明らかな恫喝である。

上天(けん)(めい)とは蒙古の文章に使われている決まり文句である。意味は「長生なる天の力において」という。蒙古は自分たちが天の力によって世を支配していると考えていた。日本も天の定めに従い、蒙古に仕えよという。

当時、ユーラシア大陸の情勢は日本でも知られていた。チンギスハンから始まる子孫が大陸を席巻(せっけん)して大帝国を築いたことも、隣の高麗が奮戦むなしく敗れて属国となったことも周知だった。世祖フビライが中国に侵入し、宋帝国を破って漢民族を南に追いつめていることも。

鎌倉は南宋の船がゆきかう。情報の伝達は早い。蒙古兵の強さも知っていた。日本人は当初、蒙古の災禍は必ず日本におよぶと予想していた。海をはさむとはいえ、大陸とは目と鼻の先である。身の危険を感じないではいられない。根底に不安感があった。

しかし蒙古の台頭は、しょせん対岸の火事だった。人間は不安がつのると始めは忘れないように緊張をたもつが、時がたつにつれ不安の元から回避するようになる。緊張感が無意識に麻痺(まひ)してしまう。「蒙古は来るかもしれない」から「来ないだろう」という世情にかわっていった。

たとえば第二次世界大戦の時、アメリカは日本軍部の暗号を解読し、日本が米国との戦争に踏み切ることはわかっていた。しかし、まさかはるか海を隔てたハワイを攻撃するとは予想だにしなかった。

また現代でもアメリカはタリバンが米国内でテロを引き起こすことを十二分に予想し対策を講じていたが、民間航空機をハイジャックしてニューヨークの世界貿易センタービル、ペンタゴン等に激突させるとは想像さえしていなかった。

日蓮は「立正安国論」でただ一人、他国侵逼を予言したが、だれも信じなかった。信じないどころか鎌倉幕府は伊豆流罪に処した。

そこに国書が到来した。

寝耳に水である。国中に来るべきものが来たという不安が一気に蔓延した。


夜の鎌倉は寝静まっていたが、幕府侍所だけは丑三つ時になっても松明が消えることはなかった。衛兵が微動だにせず立ち続けている

館の執権の部屋にいくつか置かれた秉燭(ひょうそく)(注)の灯芯が明るく灯っていた。まわりに幕府の中枢が集まる。執権時宗、評定衆(注)の安達泰盛、執事(注)の平頼綱、御内人(みうちびと)(注)の宿屋入道らである

時宗の前にはフビライの書状がおかれている。蒙古の国書は文永五年の一月十八日、鎌倉に到着した。

「ただならぬ書状がきた。そこでみなの意見を聞こう。忌憚(きたん)なくのべよ」

時宗は会議の冒頭にこう述べた後、目をとじ腕を組み、じっと黙考している。

 安達泰盛がきりだす。

「まことに青天の霹靂(へきれき)でござる。わが日本と通商をせよと。さもなくば攻撃するとのこと。ゆゆしき事態でござる。このうえは蒙古の要求どおり通商するのがよいかと思われます。いまのわれらに防衛の準備は整っておりませぬ」

 いつもは傲岸な平頼綱だが、国難ともいえる事態に慎重だった。

「敵は蒙古。チンギスハンの流れをくむ騎馬軍団と聞いております。海際ではおさえることができても、陸上となればほぼ互角。日本の国土が戦乱にまみえるのは目に見えておる。となりの高麗は二十年の戦いで敗れ去った。降伏のしるしに皇太子を人質にとられ、国土には骸骨があふれているとか」

御内人(みうちびと)の宿屋光則がつづいた。彼は九年前、日蓮の立正安国論を時宗の父時頼に取りついだ人物である。時頼が病床に伏したとき、そばに侍っていた数少ない幕府要人の一人でもあった。

「この国書はただの挨拶と思われます。太宰府に来ている使者も好意的とのこと。蒙古と国交をひらき、貿易の利益を幕府にもたらすことが肝要かと」

 三人が時宗を見た。

 時宗はしばらくの沈黙のあと、目をむいて怒りだした。

「おぬしら臆したか。この国書は無礼千万である。わが日本が蒙古の属国となっていかがする。脅しに屈して、どこにわれらの安泰がある。断じて無視せよ。でなければ一戦あるのみ」

 国書は主である時宗にとって、挑戦状をたたきつけられたにもひとしい。激怒するのは当然である。

 泰盛が時宗の気迫にたじろいだ。

 頼綱がいよいよ俺の出番かといわんばかりに不敵にほほえむ。

 宿屋光則は(これで日蓮上人の予言が的中することは必定)と思わざるを得なかった。

 安達泰盛は執権の腹が決まった以上、やむなしとばかり渋々配下に指示した。

まず指揮官を九州に送れ。全国の神社仏閣に蒙古退治の祈祷をさせよ」

 頼綱も、抜け目なく即座に配下に伝達した

「日本国の意思を統一しなければならぬ。幕府の方針にさからう者は厳罰に処する。いまこそ北条が日本国の主として全国を指揮するのだ」

 宿屋入道も他の身内人および所従に指示を出した

「使者は丁重に扱え。高麗に偵察隊を潜入させよ。蒙古の動静をつぶさに報告せよ」

 ちなみに幕府は翌月の二月七日に京の朝廷にこの件を奏したが、天皇に当事者能力はない。すべては時宗ひきいる鎌倉幕府にゆだねられた。

 皮肉なことだった。

 北条氏は他氏排斥を企て、有力御家人の三浦氏や和田氏を滅ぼし、国内に敵はいなくなっていた。独裁体制を築くために、満を侍して青年時宗が登場したが、そこに立ちはだかったのが蒙古だった。蒙古民族のすさまじい勢いは、武士ならばだれもが知っている。今後、蒙古の対応をめぐって論議がおこるのは明らかである。

 朝廷は承久の変いらい、鳴りをひそめているが水面下で幕府を批判してくるだろう。幕府内でも黙っていない者がでてくる。一番の危険人物は時宗の腹違いの兄、北条時輔であり彼を支える御家人である。その中でもとりわけ勢力をもつのが北条の分家、名越一族だった。


 侍所が九州に向かう軍馬で混雑した。

 御家人と所従が整然と列をなし、門をでる。

 八幡宮では武将が手をあわせて祈った。兵士もいっせいに手をあわせた。

 彼らの妻子眷属も涙ながらに祈った。

 四月、幕府は全国の社寺に蒙古調伏の祈祷を命じた。朝廷も七月十七日に異国降伏を祈願している。こうして日本はいっせいに危機の中にいる実感をいだいたのである。

 このふってわいたような不安は、時代こそちがうが、七百年後に大国アメリカに宣戦布告し、太平洋戦争に突入した世情と同じだったかもしれない。

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        宗性筆『蒙古國牒状』「調伏異朝怨敵抄」所収 東大寺尊勝院所蔵

    

             十九、日蓮、国家諌暁を決断 につづく


上巻目次



評定衆

幕府の最高政務機関。行政・司法・立法のすべてを司っていた。


執事

御内人の筆頭格。


御内人

執権北条氏の家督・得宗に仕えた、武士、被官、従者。


秉燭(ひょうそく)

室内の灯火器具。菜種油等を入れる油皿と、その中央に油を吸い上げる灯心を置く。



by johsei1129 | 2017-03-19 17:44 | 小説 日蓮の生涯 上 | Trackback | Comments(0)


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