人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2019年 10月 26日

法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり、と説いた【曾谷殿御返事】

【曾谷殿御返事(成仏用心抄)】
■出筆時期:建治2年(西暦1276年)8月2日 五十五歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は鎌倉武士・曾谷教信入道に送られた御消息文となっている。曾谷教信は下総国八幡荘曾谷郷の領主で、父親は大聖人の母方の伯父とも言われている。大聖人に帰依した後には出家し、大聖人より日礼の法名を授けられ「法蓮日礼」と名乗った程の強信徒であった。
本書では「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」と戒めるとともに、「若し法師に親近せば速かに菩薩の道を得ん。是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」と説いて、日蓮に随順し仏道を全うするよう諭している。英語版
■ご真筆: 現存していない。

[曾谷殿御返事 本文]

 夫れ法華経第一方便品に云く「諸仏の智慧は甚深無量なり」云云。釈に云く「境淵(きょうえん)無辺なる故に甚深と云い、智水測り難き故に無量と云う」と。
 抑(そもそも)此の経釈の心は仏になる道は豈境智の二法にあらずや。されば境と云うは万法の体を云い、智と云うは自体顕照の姿を云うなり。而るに境の淵ほとりなく、ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし。此の境智合しぬれば即身成仏するなり。法華以前の経は境智・各別にして而も権教方便なるが故に成仏せず。今法華経にして境智一如なる間、開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり。此の内証に声聞・辟支仏・更に及ばざるところを次下(つぎしも)に「一切声聞・辟支仏・所不能知」と説かるるなり。此の境智の二法は何物ぞ、但南無妙法蓮華経の五字なり。此の五字を地涌の大士を召し出して結要(けっちょう)付属せしめ給う。是を本化(ほんげ)付属の法門とは云うなり。

 然るに上行菩薩等・末法の始めの五百年に出生して此の境智の二法たる五字を弘めさせ給うべしと見えたり。経文赫赫たり・明明たり、誰か是を論ぜん。日蓮は其の人にも非ず、又御使ひにもあらざれども先(まず)序分にあらあら弘め候なり。既に上行菩薩・釈迦如来より妙法の智水を受けて末代悪世の枯槁(ここう)の衆生に流れ・かよはし給う。是れ智慧の義なり。釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給う。然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。
 又是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず、輪廻生死のもといたらん。例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は全く弥陀・薬師に遇ひて成仏せず。譬えば大海の水を家内へくみ来たらんには家内の者・皆縁をふるべきなり。然れども汲み来るところの大海の一滴を閣(さしお)きて又他方の大海の水を求めん事は大僻案(だいびゃくあん)なり、大愚癡なり。法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余(よそ)へ心をうつさば、必ず輪廻生死のわざはいなるべし。
 但し師なりとも誤りある者をば捨つべし、又捨てざる義も有るべし。世間・仏法の道理によるべきなり。末世の僧等は仏法の道理をば・しらずして我慢に著(じゃく)して師をいやしみ、檀那をへつらふなり。但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ。文句の一に云く「既に未だ真を発さざれば第一義天に慙(は)じ、諸の聖人に愧(は)ず。即ち是れ有羞(うしゅう)の僧なり。観慧(かんね)若し発するは即真実の僧なり」云云。

 涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊る者を見て・置いて・呵責し・駈遣し・挙処せずんば・当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し・呵責し・挙処せんは是れ我が弟子、真の声聞なり」云云。此の文の中に見壊法者(けんねほうしゃ)の見と置不呵責(ち・ふかしゃく)の置とを能く能く心腑に染む可きなり。法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし。南岳大師の云く「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云。謗法を責めずして成仏を願はば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなし・はかなし。何(いか)に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一(ひと)つ入れたらんが如し。「毒気深入、失本心故」は是なり。

 経に云く「在在諸の仏土に常に師と倶に生ぜん」。又云く「若し法師に親近せば速かに菩薩の道を得ん。是の師に随順して学せば恒沙(ごうじゃ)の仏を見たてまつることを得ん」
 
 釈に云く「本(もと)此の仏に従つて初めて道心を発し、亦此の仏に従つて不退地に住す」又云く「初め此の仏菩薩に従つて結縁し、還(また)此の仏菩薩に於て成就す」云云。返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給うべし。釈尊は一切衆生の本従の師にて而も主親の徳を備へ給う。此の法門を日蓮申す故に・忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ・命にも及びしなり。然(しかれ)どもいまだこりず候
 法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり
。若し此等の義をたがへさせ給はば、日蓮も後生は助け申すまじく候。恐恐謹言。

 建治二年丙子八月三日      日  蓮 花 押

 曾谷殿




by johsei1129 | 2019-10-26 21:44 | 曾谷入道 | Trackback | Comments(0)


<< 顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・...      末法において報恩とは「妙法蓮華... >>