問う、文底独一本門を以て事の一念三千の本尊と名くる意如何。
答う、云云。
重ねて問う、云云。
問う、修禅寺決に曰わく、南岳大師、一念三千の本尊を以て智者大師に付す、所謂絵像の十一面観音なり。頭上の面に十界の形像を図し、一念三千の体性を顕わす、乃至一面は一心の体性を顕わす等云云。既に十界の形像を図し顕わす、応に是れ事の一念三千なるべきや。
答う、之を図し顕わすと雖も猶是れ理なり、何んとなれば三千の体性、一心の体性を図し顕わす故なり。応に知るべし、体性は即ち是れ理なり。故に知んぬ、理を事に顕わすことを。是の故に法体猶是れ理なり、故に理の一念三千と名づくるなり。例せば大師の口唱を仍お理行の題目と名づくるが如し。若し当流の意は事を事に顕わす、是の故に法体本是れ事なり、故に事の一念三千の本尊と名づくるなり。
問う、若し爾らば其の法体の事とは何。
答う、未だ曾て人に向かって此くの如き事を説かじ云云。
人の本尊を解き明かす一 につづく
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