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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 12月 18日

八、日蓮を生涯支えた弟子・信徒の誕生

                               英語版

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     御家人の屋敷   Wikipedia より


日蓮のもとに弟子となる若い僧がしだいに増えてきた。

日昭もその一人だった。

彼は日蓮が立宗宣言した建長五年四月二十八日から約半年後の十一月に弟子となった。生まれは下総国海上郡能手郷。日蓮より一歳年上である。十五歳のころ天台(てんだい)()(注)の寺で出家し、比叡山に登って天台の法門を習得したが、日蓮の立宗を聞いて鎌倉に下り弟子となり、松葉ヶ谷の草庵で修業することになった。

この日、日昭が草庵の入り口に人の気配を感じ、日蓮に声をかけた。

「上人、お客様のようですが」

日昭が戸を開けた。

四条金吾が立っている。

日蓮が笑顔で立ちあがった。

「おお、これはこれは、いつぞやの剛毅なお武家殿」

金吾がかしこまって、ぎこちなく頭を下げた。

日蓮が快く招き入れる。

ふだんは人一倍居丈高な四条金吾が小さくなっている。

「あの節は無礼の段、面目なき次第でござった」

日蓮が首をふった。

「なんでもないことです。それよりも、このような粗末な草庵にわざわざおこしくだされ、うれしく思いますぞ」

金吾が袂をかいつくろう。

「先だってのお話、始めて聞くものでござった。ほかの寺院では聞いたことがありませぬ。わたしのような者でも、上人のおおせのように成仏することができましょうや」

 日蓮はおだやかに話しだした。

「いまこの国は天変・飢謹・疫病が蔓延しています。仏法ではこの苦しみの世界を穢土(えど)という。けがれた世界です。しかし衆生の心濁ればまわりもけがれ、心清ければ清浄となるのです。浄土(じょうど)といい穢土というのも、ふたつのへだてはありませぬ。ただわが心の善悪によるのです。

衆生というも、仏というもまた同じです。迷うときは衆生と名づけ、悟るときは仏と名づける。たとえば汚れた鏡も磨けば、万物を映し出すように。ただいまも迷う心は磨かざる鏡です。これを磨けば必ず成仏の明鏡となります。深く信心をおこして日夜に、またおこたらず磨くことです。ではどのように磨けばよいのでしょうか。末法においては、ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを磨くとはいうのです。

あなたは武門の家に生まれました。今はいくさがないとはいえ、他の人を殺し、はたまたいつご自身の命を落とすかもわからぬ宿命です。また主君に仕える身であるからには手柄を立て、一所を懸命に守らねばならない。しかしいくら名聞名利を得たとしても夢の中の栄え、珍しからぬ楽しみです。すべからく心を一にして、南無妙法蓮華経と我も唱え、他をも勧めんことこそ、今生の思い出となるのです」

金吾の心は日蓮の一言一言に突き動かされた。

「名聞名利でござるか。たしかに上人のおおせの通りです」

日蓮は金吾の表情に、なにか陰があるのを見てとった。

「金吾殿、なにか心配事でもあるようにみうけられるが」

 金吾ははっとした。この人は自分の心が読みとれるのだろうか。

「いいえ。今の教えを聞き、心が晴れた思いがいたしまする。ただ・・」

日蓮が身をのりだした。

 金吾が下をむく。

「じつは娘が一人おりますが生まれていらい病弱で、長く床に伏せっております。わたしも少々薬草の心得があり、調合し使ってはいるのですが、はかばかしくなく・・。いろいろな神仏に祈りましたが、いっこうに良くなりません」

 日蓮がうなずいた。

「承知しました。日蓮も及ばずながら、金吾殿の大事なお子のため祈念いたしましょう無妙法蓮華経は師子がほえるのとおなじです。いかなる病が(さわ)りをなすことができましょうか。諸天善神は法華経の題目をたもつ者を守護します。ただし御信心によります。(つるぎ)なども勇気のない者には無用です。法華経の剣は信心のけなげな人が用いるもの。お子は必ず災い転じて幸いとなります。心を定め、御信心を奮い起こして祈念してくだされ」

 金吾は思わず手をついた。

しかとわかり申した。今から四条金吾頼基(よりもと)日蓮上人の信徒となり、南無妙法蓮華経と唱えていきます

金吾が返事するのと同時に、うしろから一斉に声があがった。

「入信おめでとうございます」

 驚いてふり向くと、大勢の町衆がいる。その中に富木常忍と安房天津の領主・工藤吉隆、幕府作事奉行を父に持つ池上宗仲、宗長の兄弟、さらに幕府儒官の比企(ひき)大学三郎がいた

 かれらは金吾のうしろで日蓮の話を聞いていたのである。

 金吾が顔を赤らめ、皆に頭を下げた。

 この時日蓮は三十五歳、四条金吾は九歳下の二十六歳、工藤吉隆は二十三歳、比企大学三郎は五十五歳だった。

 以後、四条金吾、池上宗仲、比企大学三郎は鎌倉の、また富木常忍、工藤吉隆は下総の有力な日蓮の檀越となった。彼らは信徒の中核として数々の法難に遭いながらも、生涯を妙法流布に捧げていくことになる。

 日蓮の布教はさらにつづく。

 幕府の御家人の中にも法華経に目覚める者がでてきた。四条金吾や木常忍など、御家人に仕える者もいたが、幕府の中枢にも法華経の理解者がでてきた。

 宿屋光則はその一人である。彼は俗の身分で出家し宿屋入道ともいったが、宿屋は北条時頼の側近中の側近として知られる。吾妻(あづま)(かがみ)()によると、後の時頼の臨終にして、看病のために出入りを許された七人の中に宿屋光則の名がある。

 日蓮は宿屋に会って意見交換をしている。宿屋は、いまだ無名に等しく決して高僧といえないが仏法の見識あふれる日蓮に好意をもった。


 

               九 女性信徒の出現 につづく


上巻目次


 天台宗

 中国隋代の天台大師智顗が開いた宗派。法華経を依経とするため、法華宗・天台法華宗という。法華経の教旨に基づき、釈迦の一代聖教を五時八教に分類して、諸経それぞれの意義と位置づけをし、仏教の真義は円教(法華経)に説かれる円融三諦であるとする。修行の段階に六即・五十二位を立て、一念に三千の法数を立てる。そして四種三昧・二十五方便・十境十乗観法(円頓止観)などの観法によって、すみやかに悟りを得、仏果を成ずることができると説く。

 日本へは鑑真が天台の典籍を伝えていたが、最澄が入唐中に道邃・行満から相承を受け、延暦二十四年(八〇五)に帰国後、比叡山で弘教に励んだ。そして最澄の没後七日目の弘仁十三年(八二二)六月十一日に大乗戒壇建立の勅許が下り、天長四年(八二七)五月に円頓戒壇が建立された。さらに貞観八年(八六六))、清和天皇より伝教大師諡号(しごう)が贈られた。日本史上初の大師号である。その後、慈覚(円仁)・智証(円珍)が入唐求法したが、智証が別派を立てたため、山門・寺門の分流が生じた。慈覚・智証はともに、天台宗の宗義に真言密教の教義を取り入れたため、日本の天台宗は急速に密教化していった。日蓮大聖人は伝教の弘教の結果設けられた大乗戒壇設立は、天台の弘教を超過したと評価している。


吾妻鏡

鎌倉時代に成立した日本の歴史書。治承四年(一一八○年)から文永三年(一二六六年)までの幕府の事績を編年体で記す。





by johsei1129 | 2019-12-18 06:53 | 小説 日蓮の生涯 上 | Trackback | Comments(0)


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