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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 14日

法を壊る者を見て責めざる者は仏法の中の怨なりと説いた書【滝泉寺申状】

【滝泉寺申状】
■出筆時期:弘安二年十月(西暦1279年) 五十八歳 御作(代作)。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書の題号である滝泉寺は駿河国富士郡の天台宗寺院で、この寺院の僧、日秀・日弁らは日興上人の教化により大聖人に帰依した。これに怒りをなした院主代の行智は彼等を寺から追放するために幕府に訴えにでる。本書は日興上人の反訴状の草案に大聖人が添削加筆し、最終的に日興上人が取りまとめ問註所に訴状として提出している。本草案は全11紙からなり、前半の8紙は大聖人が書き記し、残りは主に日興上人が書き記していると思われる。
■ご真筆: 中山法華経寺所蔵(重要文化財)。
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[滝泉寺申状 ご真筆 中山法華経寺所蔵]

[滝泉寺申状 本文]

 駿河の国・富士下方(しもかた)滝泉寺の大衆・越後房日弁・下野房(しもずけぼう)日秀等謹んで弁言す。当寺院主代・平左近入道行智・条条の自科を塞(ふさ)ぎ・遮(さえぎ)らんが為に不実の濫訴(らんそ)を致す謂れ無き事。
 訴状に云く、日秀・日弁・日蓮房の弟子と号し、法華経より外の余経或は真言の行人は皆以て今世・後世叶う可からざるの由・之を申す云云 取意

 此の条は日弁等の本師日蓮聖人・去(いぬ)る正嘉以来の大彗星・大地動等を観見し一切経を勘えて云く、当時日本国の体(てい)たらく、権小に執著し実経を失没せるの故に当に前代未有の二難を起すべし所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり。仍(よっ)て治国の故を思い、兼日(かねて)彼の大災難を対治せらる可きの由、去る文応年中・一巻の書を上表す。立正安国論と号す 勘え申す所・皆以て符合す。既に金口(きんく)の未来記に同じ、宛(あたか)も声と響(ひびき)との如し。
 外書に云く「未萠(みぼう)を知るは聖人なり」内典に云く「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を知る」云云。之を以て之を思うに本師は豈聖人なるかな。巧匠(こうしょう)内に在り、国宝外に求む可からず。
 外書に云く「隣国に聖人有るは敵国の憂(うれい)なり」云云。内経に云く「国に聖人有れば天・必ず守護す」云云。外書に云く「世必ず聖智の君有り、而して復賢明の臣有り」云云。
 此の本文を見るに聖人・国に在るは日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり。諸竜を駆り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし。君既に賢人に在(ましま)さば、豈(あに)聖人を用いずして徒(いたずら)に他国の逼(せめ)を憂えん。

 抑(そもそも)大覚世尊・遥(はるか)に末法・闘諍堅固の時を鑒(かんが)み、此くの如きの大難を対治す可きの秘術を説き置かせらるるの経文明明たり。然りと雖も如来の滅後二千二百二十余年の間・身毒(しんどく)・尸那・扶桑等・一閻浮提の内に未だ流布せず。随つて四依の大士内に鑒(かんが)みて説かず、天台・伝教而も演べず、時未だ至らざるの故なり。法華経に云く「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布す」云云。天台大師云く「後五百歳」妙楽云く「五五百歳」伝教大師云く「代を語れば則ち像の終り末の初め、地を尋ぬれば唐の東・羯(かつ)の西、人を原(たず)ぬれば則(すなわち)五濁の生・闘諍の時」云云。東勝西負の明文なり。

 法主聖人・時を知り・国を知り・法を知り・機を知り、君の為・臣の為・神の為・仏の為、災難を対治せらる可きの由・勘え申すと雖も御信用無きの上、剰(あまつ)さえ謗法人等の讒言に依つて聖人・頭(こうべ)に疵(きず)を負い、左手を打ち折らるる上、両度まで遠流の責を蒙むり、門弟等・所所に射殺され・切り殺され・毒害・刃傷・禁獄・流罪・打擲(ちょうちゃく)・擯出(ひんずい)・罵詈(めり)等の大難勝(あ)げて計(かぞ)う可からず。
 茲(ここ)に因つて大日本国・皆法華経の大怨敵と成り、万民悉く一闡提の人と為るの故に天神・国を捨て、地神・所を辞し、天下静かならざるの由・粗伝承するの間、其の仁に非ずと雖も愚案を顧みず言上せしむる所なり。外経に云く「奸人朝に在れば賢者進まず」云云。内経に云く「法を壊(やぶ)る者を見て責めざる者は、仏法の中の怨なり」云云。

 又風聞の如くんば高僧等を崛請(くっせい)して蒙古国を調伏(じょうぶく)す云云。其の状を見聞するに、去ぬる元暦・承久の両帝、叡山の座主・東寺・御室・七大寺・園城寺等・検校(けんぎょう)長吏等の諸の真言師を請い向け、内裏の紫宸殿にして咒咀(じゅそ)し奉る。故源右将軍(げんうしょうぐん)並に故平右虎牙(へいうこが)の日記なり。此の法を修するの仁(ひと)は敬つて之を行えば必ず身を滅し、強いて之を持てば定めて主を失うなり。
 然れば則ち安徳天皇は西海に沈没し、叡山の明雲は流矢(ながれや)に当り、後鳥羽法皇は夷島(えびすのしま)に放ち捨てられ、東寺御室は自ら高山に死し、北嶺の座主は改易の恥辱に値う。現罰・眼に遮(さえぎ)り、後賢之を畏る。聖人・山中の御悲みは是なり。

 次ぎに阿弥陀経を以て例時の勤(つとめ)と為す可きの由の事。
 夫れ以(おもん)みれば花と月と、水と火と、時に依つて之を用ゆ。必ずしも先例を追う可からず。仏法又是くの如し。時に随つて用捨す。其の上・汝等の執する所の四枚の阿弥陀経は四十余年・未顕真実の小経なり。一閻浮提第一の智者たる舎利弗尊者は多年の間・此の経を読誦するも終に成仏を遂げず。然る後・彼の経を抛(なげう)ち法華経に来至して華光如来と為る。況んや末代悪世の愚人・南無阿弥陀仏の題目計りを唱えて順次往生を遂ぐ可しや。故に仏・之を誡(いさ)めて言く、法華経に云く「正直に方便を捨て但無上道を説く」と云云。教主釈尊正しく阿弥陀経を抛ちたまう云云。又涅槃経に云く「如来は虚妄(こもう)の言無しと雖も・若し衆生の虚妄の説に因るを知れば」と云云。正しく弥陀念仏を以て虚妄と称する文なり。法華経に云く「但楽(ねがっ)て大乗経典を受持し乃至余経の一偈をも受けざれ」云云。妙楽大師云く「況んや彼の華厳・但以て称比(しょうひ)せん。此の経の法を以て之を化するに同じからず。故に乃至不受余経一偈と云う」云云。
 彼の華厳経は寂滅道場の説・法界唯心の法門なり。上本は十三世界微塵品・中品は四十九万八千偈・下本は十万偈四十八品・今現に一切経蔵を観るに唯八十・六十・四十等の経なり。其の外の方等・般若・大日経・金剛頂経等の諸の顕密・大乗経等を尚・法華経に対当し奉りて仏自ら或は未顕真実と云い、或は留難多きが故に、或は門を閉じよ、或は抛(なげう)て等云云。何に況んや阿弥陀経をや。唯大山と蟻岳(ぎがく)との高下、師子王と狐兎(こと)との捔力(すもう)なり。
 今日秀等・専ら彼等小経を抛(なげう)ち、専ら法華経を読誦し法界に勧進して南無妙法蓮華経と唱え奉る、豈殊忠に非ずや。此等の子細・御不審を相貽(のこ)さば高僧等を召され是非を決せらる可きか。仏法の優劣を糺明致す事は月氏・漢土・日本の先例なり。今・明時に当つて何ぞ三国の旧規に背かんや。

 訴状に云く、今月二十一日・数多(あまた)の人勢を催し、弓箭(きゅうせん)を帯し院主分の御坊内に打ち入り、下野坊は乗馬相具(じょうめ・あいぐ)し、熱原の百姓・紀次郎男・点札(たてふだ)を立て・作毛を苅り取り・日秀の住房に取り入れ畢んぬ云云取意

 此の条・跡形も無き虚誕(こたん)なり。日秀等は損亡せられし行者なり。不安堵の上は誰の人か日秀等の点札を叙用せしむ可き。将た又尫弱(おうにゃく)なる土民の族(やから)・日秀等に雇い越されんや。如(も)し然らば弓箭を帯し、悪行を企つるに於ては行智と云い・近隣の人人と云い、争でか弓箭を奪い取り、其の身を召し取りて子細を申さざるや。矯飾(きょうじき)の至り、宜しく賢察に足るべし。
 日秀・日弁等は当寺代代の住侶として行法(ぎょうぼう)の薫修(くんじゅう)を積み、天長地久の御祈祷を致すの処に、行智は当寺霊地の院主代に補し乍(なが)ら、寺家・三河房頼円並に少輔房(しょううぼう)日禅・日秀・日弁等に仰せて、行智・法華経に於ては不信用の法なり、速(すみやか)に法華経の読誦を停止(ちょうじ)し、一向に阿弥陀経を読み、念仏を申す可きの由の起請文を書けば安堵す可きの旨下知せしむるの間、頼円は下知に随つて起請を書いて安堵せしむと雖も、日禅等は起請を書かざるに依つて所職の住坊を奪い取るの時、日禅は即ち離散せしめ畢んぬ。日秀・日弁は無頼(むらい)の身たるに依つて所縁を相憑(あい・たの)み、猶寺中に寄宿せしむるの間、此の四箇年の程・日秀等の所職の住坊を奪い取り、厳重の御祈祷を打ち止むるの余り、悪行猶以て飽き足らずして法華経の行者の跡を削らんが為に、謀案を構えて種種の不実を申し付くるの条・豈在世の調達(ちょうだつ)に非ずや。

 凡そ行智の所行は、法華三昧の供僧(くそう)・和泉房蓮海を以て法華経を柿紙(しぶかみ)に作り、紺形(こんがた)に彫るは重科の上謗法なり。仙予国王は閻浮第一の持戒の仁、慈悲喜捨を具足する菩薩の位なり・而も又師範なり。然りと雖も法華経を誹謗するばら(婆羅)門五百人が頭を刎ね、其の功徳に依って妙覚の位に登る。歓喜仏の末、諸の小乗・権大乗の者、法華経の行者・覚徳比丘を殺害せんとす。有徳国王は諸の小権法師等を、或は射殺し、或は切り殺し、或は打ち殺して迦葉仏等と為る。戒日大王・宣宗皇帝・聖徳太子等は此の先証を追って仏法の怨敵を討罰す。此等の大王は皆持戒の仁にして善政未来に流る。今行智の重科は□□べからざるか。然りと雖も日本一同に誹謗を為すの上は、其の子細・御尋ねに随って之を申すべし。

 堂舎修治の為に、日弁に御書を給ひ下して構え置く所の上葺榑(うわぶきくれ)一万二千寸の内八千寸・之を私用(しゆう)せしめ、下方の政所代(まんどころだい)に勧めて去(いぬ)る四月御神事の最中に法華経信心の行人・四郎男を刄傷せしめ、去る八月弥四郎男の頚(くび)を切らしむ。 日秀等に頚を刎ぬる事を擬(ぎ)して此の中に書き入れよ 無智無才の盗人・兵部房静印(じょういん)を以て過料を取り、器量の仁と称して当寺の供僧に補せしめ、或は寺内の百姓等を催し、鶉(うずら)を取り、狸(たぬき)を殺し、狼落としの鹿を取りて別当の坊に於て之を食らい、或は毒物を仏前の池に入れ若干(そこばく)の魚類を殺し・村里に出でて之を売る。見聞の人・耳目を驚かさざるは莫し。仏法破滅の基(もとい)悲しみても余り有り。
 此(か)くの如き不善の悪行・日日に相積るの間、日秀等愁歎(しゅうたん)の余り・依つて上聞を驚かさんと欲す。行智・条条の自科を塞(ふさ)がんが為に種種の秘計を廻らし、近隣の輩を相語らい、遮(さえぎ)つて跡形も無き不実を申し付け、日秀等を損亡(そんもう)せしめんと擬するの条・言語道断の次第なり。冥に付け顕に付け、戒めの御沙汰無からんや。所詮仏法の権実と云ひ、沙汰の真偽と云ひ、淵底を究めて御尋ね有り、且は誠諦(じょうたい)の金言に任せ、且は式条の明文に准じて禁遏(きんあつ)を加えらるれば、守護の善神は変を消し、擁護(おうご)の諸天は咲(えみ)を含まん。
 然れば則ち不善悪行の院主代・行智を改易せられ、将た又本主・此の重科を脱れ難からん。何ぞ実相寺に例如せん。不誤の道理に任せて日秀・日弁等安堵の御成敗を蒙むり、堂舎を修理せしめ、天長地久・御祈祷の忠勤を抽(ぬき)んでんと欲す。仍て状を勒し披陳(ひちん)す。言上件(くだん)の如し。

 弘安二年十月 日   沙門 日秀 日弁等上(たてまつ)る

 大体此の状の様有るべきか。但し熱原の沙汰の趣に其の子細出来せるか。




by johsei1129 | 2019-11-14 21:27 | 日興上人 | Trackback | Comments(0)


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