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日蓮大聖人『御書』解説

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2024年 09月 18日

一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人、但日蓮一人なりと説いた書【聖人御難事】

【聖人御難事】
■出筆時期:弘安二年十月一日(西暦1279年) 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:この書を認める前の九月二十一日、熱原の法難が発生。駿河熱原の農民・神四郎等20人が鎌倉に送られ牢に入れられる。これは駿河国方面で日興上人が中心となり天台宗の僧侶・信徒が数多く大聖人へ帰依するようになると、天台宗寺院からの弾圧が始まる。特に熱原郷・滝泉寺院の行智(院主代)は策謀し、院主の田の稲を刈り取ったという無実の罪で、大聖人信徒の農民を訴えた。
これまで自身、直弟子、また武家信徒への難は度々受けてきた大聖人門下だったが、一農民にまで及ぶという日蓮門下の信徒として最大の難を受けるという事態を受け、大聖人は一閻浮提総与(全世界の民衆に授与)する大御本尊の建立を決意、十月十二日に建立している。これは大聖人にとって出世本懐を遂げる重要な出来事となった。尚、捕らえられた20人の農民は、侍所・平左衛門尉の私邸で取り調べられ、大聖人への信仰を捨てるよう強く迫られたが、全員がそれに最後まで屈せず、神四郎・弥五郎・弥六郎の3兄弟は十月十五日刑死し、残りの17人は追放される。それらの農民は強信徒の南条時光が引き取ったと伝えられている。

本書で大聖人は、弟子一同に向け「仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし。先先に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各各かつしろしめせり」と説いて、末法の本仏としての内証を示されている。
また本書の宛先は人人御中(弟子・信徒一同)となっているが、書そのものは「さぶらうざへもん殿のもとにとどめらるべし」と記され、信徒として最も信頼の厚かった四条金吾の元に留めて置くよう指示されている。
■ご真筆: 中山法華経寺所蔵。
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[聖人御難事 ご真筆:中山法華経寺所蔵]

[聖人御難事 本文]

 去(い)ぬる建長五年 太歳癸丑 四月二十八日に安房の国・長狭郡(ながさごおり)の内・東条の郷、今は郡(こおり)なり。天照太神の御くりや(厨)・右大将(うたいしょうけ)家の立て始め給いし日本第二のみくりや・今は日本第一なり。
 此の郡(こおり)の内・清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして・午(うま)の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年 太歳己卯 なり。仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う。其の中の大難申す計りなし。先先に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各各かつ(且)しろしめせり。

 法華経に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉(なおおんしつ)多し。況んや滅度の後をや」云云。釈迦如来の大難はかずをしらず。其の中に馬の麦をもつて九十日、小指の出仏身血(すいぶつしんけつ)、大石の頂(いただき)にかかりし、善生比丘(ぜんしょうびく)等の八人が身は仏の御弟子(みでし)・心は外道にともないて昼夜十二時に仏の短(ひま)をねらいし。無量の釈子の波瑠璃(はるり)王に殺されし、無量の弟子等が悪象にふまれし、阿闍世(あじゃせ)王の大難をなせし等、此等は如来現在の小難なり。況滅度後(きょうめつどご)の大難は竜樹・天親・天台・伝教、いまだ値い給はず。法華経の行者ならずといわば・いかでか行者にて・をはせざるべき。又行者といはんとすれば仏のごとく身より血をあや(滴)されず。何(いか)に況んや仏に過ぎたる大難なし。経文むなしきがごとし。仏説すでに大虚妄(こもう)となりぬ。

 而るに日蓮・二十七年が間、弘長元年 辛酉 五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年 甲子 十一月十一日、頭(こうべ)にきず(疵)をかほり・左の手を打ちをらる。同文永八年 辛未 九月十二日佐渡の国へ配流(はいる)、又頭(くび)の座に望む。其の外に弟子を殺され、切られ、追ひ出され、くわれう(過料)等かずをしらず。仏の大難には及ぶか勝れたるか其れは知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし。日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提(いちえんぶだい)の内に仏の御言を助けたる人、但日蓮一人なり。
 過去現在の末法の法華経の行者を軽賤(きょうせん)する王臣万民、始めは事なきやうにて・終(つい)にほろびざるは候はず。日蓮又かくのごとし。始めはしるし(験)なきやうなれども今二十七年が間、法華経守護の梵釈・日月・四天等、さのみ守護せずば・仏前の御誓ひ・むなしくて無間大城に堕(お)つべしと・おそろしく想う間・今は各各はげむらむ。
 大田の親昌(ちかまさ)・長崎次郎兵衛の尉時綱(ときつな)・大進房が落馬等は法華経の罰(ばち)のあらわるるか。罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰(みょうばち)・四つ候。日本国の大疫病と大けかち(飢渇)と・どしうち(同士討)と他国よりせめらるるは総ばちなり。やくびやう(疫病)は冥罰なり。大田等は現罰なり・別ばちなり。
 各各師子王の心を取り出して・いかに人・をどすともをづる事なかれ。師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし。彼等は野干のほ(吼)うるなり、日蓮が一門は師子の吼(ほう)るなり。故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは・禍(とが)なかりけるを人のざんげん(讒言)と知りて許ししなり。今はいかに人申すとも、聞きほどかずしては人のざんげんは用い給うべからず。設い大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等・天照太神・八幡の守護し給うゆへに・ばつ(罰)しがたかるべしと存じ給うべし。月月・日日につよ(強)り給へ、すこしもたゆ(撓)む心あらば魔たよりをうべし。

 我等凡夫のつたなさは、経論に有る事と遠き事はおそるる心なし。一定(いちじょう)として平等(へいら)も城等(じょうら)もいかりて此の一門をさんざんとなす事も出来せば・眼をひさ(塞)いで観念せよ。当時の人人のつくし(筑紫)へ・かさ(枷鎖)されんずらむ、又ゆく人・又かしこに向える人人を我が身にひきあてよ。当時までは此の一門に此のなげきなし。彼等はげん(現)はかくのごとし、殺されば又地獄へゆくべし。我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん。設えば灸治(やいと)のごとし。当時はいた(痛)けれども・後の薬なれば・いた(疼)くていたからず。

 彼のあつわらの愚癡の者ども・いゐはげまして・をどす事なかれ。彼等にはただ一えん(円)におもい切れ、よからんは不思議わるからんは一定とをもへ。ひだるし(空腹)と・をもわば餓鬼道ををしへよ、さむしといわば八かん(寒)地獄ををしへよ、をそろししといわば・たか(鷹)にあへるきじ(雉)、ねこ(猫)にあえるねずみ(鼠)を他人とをもう事なかれ。此れはこまごまとかき候事は・かくとしどし(年年)・月月・日日に申して候へども、なごへ(名越)の尼・せう(少輔)房・のと(能登)房・三位房なんどのやうに候、をくびやう(臆病)物をぼへず・よくふかく・うたがい多き者どもは、ぬ(塗)れるうるし(漆)に水をかけ、そら(空)をき(切)りたるやうに候ぞ。

 三位房が事は大不思議の事ども候いしかども、とのばら(殿原)の・をもいには・智慧ある者をそねませ給うかと、ぐち(愚癡)の人・をもいなんと・をもいて・物も申さで候いしが、はらぐろとなりて大難にもあたりて候ぞ。なかなかさんざんと・だにも申せしかば、たすかるへんもや候いなん。あまりにふしぎさに申さざりしなり。又かく申せばおこ(癡)人どもは死もう(亡)の事を仰せ候と申すべし。鏡のために申す。又此の事は彼等の人人も内内はおぢ・おそれ候らむとおぼへ候ぞ。
 人のさわ(騒)げばとて、ひやうじ(兵士)なんと此の一門にせられば・此れへかきつけてたび候へ。恐恐謹言。

 十月一日       日 蓮 花押

 人人御中

 さぶらうざへもん殿のもとに・とどめらるべし。




by johsei1129 | 2024-09-18 16:26 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)


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