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日蓮大聖人『御書』解説

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2021年 10月 22日

一、故郷への旅立ち

                                    英語版

時は鎌倉時代、西暦一二五三年の春だった。

 琵琶湖の水面が比叡山をうつしていた。

延暦寺はこの比叡山の森の中にそびえている。

おびただしいほど多くの僧侶が広大な堂内で読経し、外では僧侶たちが搭中の道を宿坊へと歩いていた。

この境内のとある小堂で老僧と若い僧が座して向かいあっていた。

若い僧は名を蓮長といった。

老僧が残念そうにいった。

蓮長、どうしてもいくのか。おぬしならいずれ天台座主(ざす)にもなろうものを

「有難いお言葉ですが、これからは法華経に身を任せ、一心に人々に説いてまいります」

蓮長はそう答えると、もう振り返ることなく塔中の坂をおりていった。

老僧はなごり惜しそうに、蓮長の姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。


三十二歳になった蓮長は、延暦寺を中心に諸寺院での十五年間の修行・学業を終え、故郷の安房に帰る決心をした。

蓮長は日笠をかぶり東海道を東に向かう。

うしろから馬に乗った武士の一団が走ってくる。烏帽子をつけ、弓をかついだ武士が走り去る。

「邪魔だ。どけ、どけい」

通行人があわててわき道にそれる。

蓮長がおもむろに来た道を振り返ると、比叡山が遠のいていた。

近江から安房への長い旅である。

初夏の穏やかな日差しが蓮長の網代笠(注)に差し込む。

街道の周囲には粟や稗の畑がどこまでも広がっている。

武士や庶民がすれちがう。大きな市女笠(注)をかぶった女性が、お供の下人を従えて行き交う。


蓮長は農家の前で立ち止まった。

百姓が一人の僧を囲んで集まっている。何やら話を聞いているようだ

この村に念仏僧が布教に訪れていた。

鎌倉時代、念仏宗は爆発的にひろまっていた。

農民が墨の阿弥衣(注)と袈裟(まと)僧に手をあわせた。

「ありがたや。念仏の坊様は。南無阿弥陀仏と唱えるだけで往生できるというだ」

「阿弥陀如来様、どうかわしらをお助けくだされ。このところの飢謹や疫病に、わしらはなすすべもございませぬ。阿弥陀様のお助けがなければ生きていけませぬ。あとは死んで極楽浄土を待つばかりでございます」

僧侶が農民の手を取り、声をかける。

「まことによい心がけです。これぞ阿弥陀仏の教えにかなうというもの。南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生の願いは必ずかないますぞ」

蓮長はそのかたわらを歩いていく。

念仏宗は浄土宗ともいう。

法然が始めた念仏は日本国中の庶民の間で猛烈にひろまっていた。南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるという極めて単純な教えが、飢饉・疫病などの苦境にあえぐ当時の民衆の心を捉えた。この念仏の広がりは、ついこの五十年前、後鳥羽上皇の時からだった。あまりの人気ぶりに、天台宗の総本山延暦寺の高僧までもが念仏を唱えたほどだった。

いっぽう鎌倉幕府は、当時の庶民が、飢饉・疫病等の現世の苦しさから逃れようと極楽浄土を願い自殺者が絶えなかったことから、元仁(一二四四年)八月五日以降、たびたび「専修念仏」を禁止にした。


蓮長がさらに街道を東へすすむ。

彼は故郷への道すがら、武士の都である鎌倉を通るつもりだった。

当時、京都から鎌倉までは十二日かかったという。比叡山から安房までは、すくなくとも十五日はかかったろう。

はるかかなたに白雪をかぶった富士があらわれた。

当時の人々は、現代人が思う以上に富士山に畏敬の念をいだいていた。
 鎌倉時代の紀行文『海道記』にいう。

「富士山を見ると、都で聞いたとおり、天の中ほどにそびえ四方の山から抜きでている。山上は鳥が越える道、(ふもと)は獣の通る道だ。雪が頭巾のようで頂上を白く覆っている。また雲が腹巻のようで、中腹を長くとり囲んでいる。高いことは天に梯子(はしご)をかけたようで、登る者は登りきれずにもどってくる。麓の長いことはめぐるに幾日もかかるほどで、行く者は山を背負うようにして歩く。温泉が山頂にわき出で、細い煙がかすかにあがり、冷たい池が中腹に水をたたえて、あふれる流れが川となっている。本当にこの山は多くの山の中でも比べるものがない霊山である」

畑の風景が途切れ、家なみがつづいてきた。

鎌倉が近くなった。人通りも多くなってきた。物売りの声もする。

妖艶に着飾った娘が出てきた。胸をはだけ、小股まであらわにして蓮長に近づく。

遊女である。とわり、ともいった。この時代、遊女はれっきとした職業である。彼女たちは宿場町にかならずいた。

当時の紀行文『春の深山路』に宿場町小田原の様子がえがかれている。

   酒匂(さかわ)の宿に暮るる程に着きたれば、例の君・海女(あま)ども、又若き遊女(あそびめ)ども具して()ののしる。

酒匂の地名は今も神奈川県小田原市にある。

蓮長が日の暮れるころ酒匂に着くと、いつものように女たちが遊女を連れて、客を無理に取ろうと大声でさわいでいた。にぎやかな光景である。

可憐な娘が蓮長に声をかけた。

「これは、これは、若いお坊様。どちらへ」

蓮長が答える。

「安房の国に向かいます」

 娘はいきなり蓮長の手をとった。

「お坊様、わたしを鎌倉へ連れていってくれませぬか。鎌倉にはわらわの夫がおりまする。わけあってこのような身になりましたが、わらわが鎌倉の都に入りさえすれば、もとの夫婦にもどれまする。どうかわたしと一緒に」

蓮長は遊女に絡まれても嫌がる顔を見せず、だまって見つめ、この女の行く末に思いを馳せた。

京が公家の拠点なら、鎌倉は武家の中心地治安はきびしい。一介の遊女が入ることは不可能だった。

女が愛くるしい唇をひらいた。

「お坊様は、わらわがそら事をいっているとお思いでございますか」

そこに年増の女が出てきて娘をさとした。

「これこれ。お坊様をからかってはなりませぬ」

年増の女は蓮長にわびをいれた。
「失礼いたしました。このおなごは殿方を見ては仲良くなりたがる癖があります」

蓮長は久しぶりに宿場の人々のやり取りを聞き、にこやかだった

「よいのです。長らく山で修行しておりましたので、見るものすべてが珍しく感じられます。女性(にょしょう)に声をかけられたのは何年ぶりでござろうか」

女たちが笑いだした。

「まあ、なんと正直なお坊様」

蓮長は会釈をして去った。

今まで笑っていた女たちは、すぐに通りがかりの武士をつかまえて誘い始めた。

蓮長は鎌倉の入り口にきた。

鎌倉は南が太平洋に面し、東西北の三方は山に囲まれた要害の地だった。したがって鎌倉に入るためには馬一頭が通れるように深く掘られた、いわゆる切り通し(注)を通らねばならなかった。

群衆が切通しの入り口でごったがえしている。

警護の武士が左右にならび、通行人の風体を確かめていた。

武士が通りすぎようとした蓮長を刀でさえぎった。

「まてい。名はなんと申す」

「安房国清澄寺の僧、是生房(ぜしょうぼう)蓮長と申します」

「安房か。それでおぬしはこの鎌倉を通りすぎると申すか」

「いかにも。比叡山をはじめとして約二十年、修行してまいりました。故郷の山へ帰るところでございます」

「宗派はなんだ。やはり念仏か」

蓮長が首をふった。

「では、いまどき武士のあいだではやっておる禅宗か」

蓮長がまたも首をふる。

「ではこ近頃、鎌倉で尊敬されておる良観殿の律宗か。それとも高貴な僧侶が唱える真言でござるか」

「そのどちらでもございませぬ」

武士が不審がった。

「ばかな。それ以外の宗派がこの日本国のどこにおる。さてはおぬし、にわか坊主ではあるまいな。であればここを通すわけにはまいらぬぞ」

蓮長は穏やかな声で言った。

「十年の修行で仏法の究極を極めることができました。それを故郷清澄寺で説法し、父母、師匠の恩に報いたいのであります」

「仏法の究極とはなんだ」

「法華経でございます」

 武士がいう。

「法華経とな。初めて聞くな。南無阿弥陀仏ではないのか」

蓮長がまたも首をふる。

「それは方便の教え。釈迦の真実の教えではありません」

武士が刀の柄を手にやる。

「いよいよあやしい奴。おぬしを通すわけにはまいらぬ」

それを見て、それまで穏やかに受け答えした蓮長だったが、強い調子で言い放った。

「釈迦如来の真実の教えを伝え、人々を救済し、国を栄えさせようとする者を通さなければ、仏にお叱りを受け、来世は地獄に堕ちますぞ。それでよければお覚悟を」

蓮長と武士がにらみあった。

武士は蓮長を試すつもりだったのか、にやりとして通した。

蓮長は鎌倉にはいった。

市場がある。

そこは人でごったがえしていた。ここで町民は銭で米・布・鳥・酒などの必需品と交換した。

鎌倉は源頼朝が都を定めていらい、京都と争うほどにぎわっていた。出店は(さる)(とり)すなわち午後四時から七時あたりが、もっとも混雑したという。現代でも同じである。

道のわきに物売りたちがひしめく。

庶民がそれをのぞき見しながら歩く。

路上では、汗だくの男たちがふんどし姿で木材を積んだ馬車を引く。

蓮長がこの様子を見ながら通りすぎていく。なにもかもが新鮮だった。

 

この町のにぎやかさがわかる史料がのこっている。この日からさかのぼること十三年前、蓮長が十九歳の時、北条泰時は仁治元年(一二四○)鎌倉で取締りの規則を発布している。鎌倉中を幾つかの行政区に分けて奉行人を置き、つぎの人々を取り締まる件についてだった。

一、盗人のこと

一、旅人のこと

一、辻捕(つじとり)のこと

一、悪党のこと

一、丁々辻々の売買のこと

一、小路を狭くなすこと

一、辻々の盲法師ならびに辻相撲のこと

一、押買のこと

この種の人々は鎌倉によほど多くいたことがわかる。

辻捕とは路上で女性を捕えること。人さらいである。物騒な話だが、鎌倉では頻繁だった。

町角では盲目の琵琶法師が平家物語をうたい、いたるところで辻相撲がおこなわれ、小町屋とよばれる商店が品物を店先にならべて道をせまくし、所かまわず売り買いが始まるなど、大都市ならではの繁栄ぶりがうかがわれる。押売りではなく押買いとはおもしろいではないか。


 港へ出た。和賀江の浦であった。

ここでは新都にふさわしい港湾が完成していた。五十ばかりの大船がひしめきあう。その脇に数十の小船がむらがっている。

おびただしい人夫が積み荷を忙しげに船からおろしている。

積み荷に色あざやかな陶磁器があった。中国・宋からの輸入品であろう。

蓮長がそれを飽かずにながめた。

『海道記』は当時の和賀江海岸の繁栄をしるしている。

この延辺(えんへん)につきて、おろおろ歴覧(れきらん)すれば、東南(とうなん)(かど)一道(かずみち)は、舟檝(しゅうしょう)()(しょう)()のあき(ひと)は、百族(ひゃくぞく)(つか)れにぎはひ、東西北の三界は、高卑の山、屏風(びょうぶ)の如くに立ち廻りて、所を飾れり。

(訳)少しばかり見物すると、東南の角の方面は船の集まる港で、商人はだれもかれも忙しさに疲れるほど賑わっており、東西北の三方は高い山や低い山が屏風のように取り巻き、ここを飾っているかのようだ」

当時のにぎわいが目に浮かぶようである。


市中の広場では流鏑馬(やぶさめ)(注)の神事がおこなわれていた。

群衆が馬の通路の際までひしめいている

優美に着飾った馬上の武士が走りぬけ、矢を引きしぼって見事的を射ぬいた。いっせいに人々の喝采がおきる。

(
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蓮長は由比の浜にたどり着いた。

『海道記』の作者は貞応二年(一二二三)四月、京都から鎌倉に下り、五月には帰京の途についている。友人との二人旅だった。当時は治安が良かったのだろう。貞応二年といえば蓮長が生まれる三年前であるから、当時の鎌倉の様子をほぼ正確にとらえているものとみられる。

(さる)(ななめ)に、()()の浜におちつきぬ。(しばら)く休みて、この所をみれば、数百(すうひゃく)(そう)の船、とも綱をくさりて、大津(おおつ)の浦に似たり。千万(せんばん)()の宅、(のき)(なら)ベて、大淀の(わたり)にことならず。御霊(ごりょう)の鳥居の前に日をくらして後、若宮大路より宿所につきぬ。

(訳)午後五時ごろ由比の浜におちついた。しばし休憩して浜の様子を見ると、由比の浜は数百艘の船が綱を鎖のように集めてつながれ、ひしめきあっている。そのにぎわいは琵琶湖の大津の光景に似ている。おびただしい数の人家が密集した様子は伊勢神宮に近い大淀の町のようである。御霊社の鳥居の前で日が暮れたあと、若宮大路をすぎて宿に着いた。

蓮長はその足で海岸沿いに東へむかい、竜の口の刑場に来た。

江の島が見える。

今は高層建築がならび、サーファーや観光客でにぎわっているが、当時は処刑場だった。今でもこの付近では処刑されたと思われる人骨が発見されている。


人々がむらがっていた。

罪人が竜の口にひきだされていたのである。

砂浜の中央に首を落とすための穴があった。

役人が口上を告げる。

「この者は鎌倉で盗みをはたらき、そのうえ人まで殺し、罪浅からぬ者なり。各地が飢饉で食物乏しいとはいえ、都の住人にあるまじきふるまい。よって打ち首といたす」

首切り役人が無表情に刀を抜いた。

今までおとなしかった罪人が、目かくしをされたとたん、あばれだした。

「お許しくだされ、もう二度と人は殺しません」

役人が取り囲み、罪人をおさえ、首を穴におしこむ。

罪人がはげしく首をふった。

首切り役人が「南無阿弥陀仏」と罪人に唱え、一刀のもとに首をおとした。

群衆の悲鳴があがった。


 その夜、蓮長は縁故の寺院で一泊し、ふたたび鎌倉を歩いた。

 禅寺をたずねた。

 武士が十数人、結跏(けっか)趺坐(ふざ)(注)座前を組んでいる。この当時、禅宗は武士を中心に信徒を集め爆発的に流行していた。

 僧が(けい)(さく)(注)をもって静かに部屋を歩きまわる。

 眠りかけていた武士の右肩に僧が警策を当てる。武士は思わず顔を赤らめ、合掌したまま首を左に傾け右肩をあけ。僧が今度は強く警策で右肩を打った。警策を受けおわった武士は合掌低頭したあと、頭を上げ背筋を伸ばして元の姿勢に戻った。

 蓮長がそれを窓ごしに見ていた。彼は禅宗が鎌倉武士にこれほどまでに広まっているのかと、鎌倉での禅宗の広がりを肌で感じた。


若宮大路を通る。

なだらかな登り坂である。

遠くに鶴岡八幡宮が見えた。

八幡宮は河内源氏の二代目棟梁、源頼義が建立した。頼義は京都の石清水八幡宮の分霊を鎌倉の由比郷にむかえて神社を建て、源氏の氏神とした。のちに子孫の源頼朝は関東を平定し、八幡は武士の神となった。このために源氏に従う武士のだれもが八幡を崇拝していた。

『海道記』と同時代の紀行文である『東関紀行』は、八幡宮のいわれを簡潔に述べている。


「そもそもこの鎌倉の起こりを申すと、亡き右大将頼朝と申し上げる人が、清和天皇の九代の子孫として、武士の家に生まれた。頼朝は去る治承の末の頃になって、忠義の兵をあげて、朝敵を打ち平らげたことから、朝廷からの恩賞が次々と下されて将軍に任じられた。頼朝は幕府をこの土地に定め、寺や寺社をこの場所にお建てになってから、いまの栄える土地となった。

それらの中でも、鶴が岡の八幡宮は、松や柏の緑がますます濃く茂り、神前の供物が絶える時がない。楽人を決めて四季の御神楽が必ず行われ、役目の者に命じて八月の放生会が催される。神をあがめる儀式は本社の石清水八幡宮に異ならないということだ」

 八幡宮から海にむかい、なだらかに下る直線の道路がつづく。

ここに騎馬の一団が八幡宮から静かにおりてきた。

乗っているのは北条時頼、つづいて長子(とき)(すけ)、次子時宗、さらに郎党がつづく。

時頼は鎌倉幕府の第五代執権である。若干二十七歳。

執権は立場上、鎌倉将軍の部下だが、頼朝以後の将軍はあくまで傀儡(かいらい)であり、実権は軍事力を握っていた北条氏にあった。したがって執権の時頼は日本国の実質の国主であるといってよかった。

時頼親子が悠々と若宮大路をすすむ。

沿道の群衆が道を開けて頭をさげた。

「あれが最明寺様だ」

時頼は自身が開基した禅寺の最明寺で出家した。そのため人々は彼を最明寺と呼んだ。

七歳の長子時輔が時頼の馬に近づく。まだ少年ながら、世を憂うような表情を見せている。

「父上,執権をおやめになるというのはまことでございますか」

時頼が答える。

「まだおりるつもりはない。だがわしも幕府を取り仕切ってはや十年。そろそろ潮時ではあるな」

つづいて弟の時宗が近づいた。時宗はわずか五歳。時輔とちがって表情は天真爛漫そのものだった。

「父上、今はまだ引退するときではございませぬ。われら北条に楯つく輩も多い時節。父上がおればこそ、幕府は安泰というもの」

兄の時輔が露骨にいやな顔をした。

この兄弟腹違いである。そして時頼の血統の(さが)のか、なにごとにも競争心をむきだしにした。

時頼が笑った。

「心配するでない。おまえたちの将来の手は打っておる」

親子が威勢よく馬を駆った。

 

   二 故郷、清澄寺の人々につづく

網代笠(あじろがさ)
細く削った竹で編んだ笠。主に僧侶が使用した。

市女笠(いちめがさ)
平安時代以降の代表的な女性用かぶり笠。

阿弥衣
麻やイラクサの繊維で俵を編 むようにして作った法衣(ほうえ)一つ。

切り通し
写真は鎌倉七切り通しのうちの一つ、名越(なごえ)の切り通し。
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流鏑馬(やぶさめ)
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結跏趺坐(けっかふざ)
仏教における最も尊い坐り方。両足を組み合わせ、両腿の上に乗せる。如来坐像ではこの坐り方が用いられている。坐禅時の坐り方として行なわれた。

警策(けいさく)
坐禅のとき、修行者の肩ないし背中を打つための棒。(けい)(かく)(さく)(れい)の略。


by johsei1129 | 2021-10-22 12:20 | 小説 日蓮の生涯 上 | Trackback | Comments(0)


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