2014年 11月 03日
第九に正像未弘の所以を示さば 竜樹・天親は三種倶に之を弘めず、故に「言わず」と云うなり。然りと雖も若し迹門に於て一念三千を宣べずと雖も、或は自余の法門を宣ぶ故に「一分之を宣ぶ」と云うなり。若し本門と観心とに於ては一向に之を宣べざる故に「云わず」と云うなり。本門と言ふは即ち是れ第二なり、観心と言ふは即ち是れ第三なり、文底は本是れ直達正観なるが故なり。 別して結すとは、天台は但第一第二を宣べて而も第三を宣べず、故に「之を懐く」と云うなり。 問ふ、天台は即ち是れ迹門の導師なる故に但迹門理の一念三千を宣ぶ、故に治病抄に云わく「一念三千の観法に二あり、天台・伝教の御時は理なり、今の時は事なり、彼は迹門の一念三千、是れは本門の一念三千、天地遥かに異なり」云云。既に彼は「迹門理の一念三千」と云ふ故に知んぬ、但第一を宣べて第二を宣べず、何ぞ第一・第二を宣ぶと云うや。 答ふ、大師仍お第一・第二を宣ぶるなり、若し第二を宣べざれば則ち一念三千其の義を尽くさざる故なり。 十章抄に云わく「止観に十章あり。大意より方便までの六重は前の四巻に限る、此れは妙解、迹門の意を宣べたり、第七の正観、十境十乗観法は本門の意なり。一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る」略抄。但像法迹門の導師なるが故に第一を面となし、第二を裏となすなり。 故に本尊抄に云わく「像法の中末に観音・薬王、南岳・天台と示現し、迹門を以って面と為し、本門を以って裏となし、百界千如、一念三千其の義を尽くすと雖も但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字七字並びに本門の本尊、未だ広く之を行ぜず」等と云云。 若し治病抄の文に今日迹本二門面裏異なりと雖も通じて迹門理の一念三千と名づくるなり。 本尊抄に云わく「迹を以って面となし本を以って裏となし、一念三千其の義を尽くすと雖も但理具を論じて」等云云。 「但理具を論じて」の文、「天台・伝教の御時は理なり」の文、之を思い合わすべし。故に知んぬ「彼は迹門の一念三千」と云ふは面裏の迹本倶に迹門と名づくるなり云云。若し爾れば天台は第一第二を宣ぶること文義分明なり、而も未だ第三を弘めず、故に本尊抄に云わく「事行の南無妙法蓮華経の五字七字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず」等云云。 問ふ、天台第三を弘めざる所以は如何。
答ふ大田抄に云わく「一には自身堪えざる故に、二には所被の機なき故に、三には仏より譲り与へられざる故に、四には時来たらざる故なり」云云。 日享上人註解 ○三種とは、権実、本迹、種脱の三種の法門である。 ○内鑑冷然とは、冷然は明了の義で内鑑は内証の鍳智である。心には明らかに之を知っているけれど、時の様子を顧みて口に出して云はぬのである。 ○自余法門とは、天親菩薩の法華論の種子無上の如き、竜樹菩薩の大論の般若非秘密・法華秘密のやうな渾然たる法門を云ふのである。 ○観心とは、天台の己心の一念三千を観ずるのとは別である。 ○迹門の導師とは、天台智者大師は迹化の薬王菩薩の後身として支那に出現し、法華経の迹理を像法に弘められた大導師である。 ○止観十章とは、摩訶止観一部が十章に分たれてある。即ち一大意、二釈名、三体相、四摂法、五偏円、六方便、七正観、八果報、九起教、十指帰である。其の第七の正観の章とは止観の五の巻にあって、始めて一念三千が明かされ、十境と十乗とに約して細説せられて十の巻までに大概終るのである。 十境とは、陰境・煩悩境・病患境・業相境・魔事境・禅定境・諸見境・慢境・二乗境・菩薩境である。初めの陰境と云ふのは五陰、十二入、十八界を観智の境として其れに向かって妙観を成ずるのである。二の煩悩境以下此れに準じて知られよ。 ○十乗とは、一観不思議境、二発真正菩提心、三善巧安心、四破法徧、五識通塞、六道品調適、七対治助開、八知位次、九能安忍、十離法愛である。初めの観不思議境とは十乗観法の根本でありて、先ず現前の一念心を空仮中の三諦と観じ、三千を成ずるが故に上根の人は此れだけで一念三千の観が成るけれども、中下根の人の為に次の九境が必要となるのである。 ○理具とは、台家に云ふ所の理具の一念三千及び事変の一念三千は事理共に理上の法であるから、台家の事理は共に今家の理となる道理で、吾が家の事行の三千は台家の事変の三千とは雲泥の相違である。 ○面裏迹本とは、台家の迹面本裏である。 ○自身堪えずとは、天台大師は迹化の菩薩であるから本化の弘通には堪へないのである。猶次下の二、三、四故の意は次の大段第十の始めの末法四故の文と対照せば益々明了となるであらう。 ○所被の機とは、像法の本已有善の中根の機で、末法の下根本未有善の機では無い。 ○仏より譲り与へられざるとは、神力品の妙法付属は本化の上行菩薩等であって、天台の本地たる薬王等の迹化の菩薩には止善男子と排斥して本法を与へられぬのである。 ○時来らずとは、天台は像法の中にあって本法の弘まるべき悪世末法後五百歳には遠きが故なり。
by johsei1129
| 2014-11-03 21:04
| 日寛上人 六巻抄
|
Trackback
|
Comments(0)
|
アバウト
カレンダー
カテゴリ
全体 御書 INDEX・略歴 WRITING OF NICHIREN 観心本尊抄(御書五大部) 開目抄(御書五大部) 撰時抄(御書五大部) 報恩抄(御書五大部) 立正安国論(御書五大部) 御書十大部(五大部除く) 日蓮正宗総本山大石寺 重要法門(十大部除く) 血脈・相伝・講義 短文御書修正版 御義口伝 日興上人 日寛上人 六巻抄 日寛上人 御書文段 小説 日蓮の生涯 上 小説 日蓮の生涯 中 小説 日蓮の生涯 下 LIFE OF NICHIREN 日蓮正宗関連リンク 南条時光(上野殿) 阿仏房・千日尼 曾谷入道 妙法比丘尼 大田乗明・尼御前 四条金吾・日眼女 富木常忍・尼御前 池上兄弟 弟子・信徒その他への消息 釈尊・鳩摩羅什・日蓮大聖人 日蓮正宗 宗門史 創価破析 草稿 富士宗学要集 法華経28品 並開結 重要御書修正版 検索
以前の記事
2025年 04月 2025年 03月 2024年 10月 2024年 09月 2024年 08月 2024年 07月 2024年 06月 2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 11月 2023年 10月 2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2023年 01月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 2022年 08月 2022年 07月 2022年 05月 2022年 04月 2022年 03月 2022年 02月 2022年 01月 2021年 12月 2021年 11月 2021年 10月 2021年 09月 2021年 06月 2021年 05月 2021年 03月 2021年 02月 2021年 01月 2020年 12月 2020年 11月 2020年 10月 2020年 09月 2020年 08月 2020年 07月 2020年 06月 2020年 05月 2020年 04月 2020年 03月 2020年 02月 2020年 01月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 01月 お気に入りブログ
最新のコメント
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
タグ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||