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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 11月 01日

第六に本迹相対して一念三千を明かすことを示すとは 三【三重秘伝抄】

 
 問ふ迹門の二乗作仏を何ぞ有名無実と云ふや。
 答ふ其の三惑を断ずるを名づけて成仏と為す、
(しか)るに迹門には二乗未だ見思(けんじ)を断ぜず、(いわ)んや無明(むみょう)を断ぜんや。文の九・三十二に云く「今生(こんじょう)に始めて無生(むしょう)(にん)を得、及び得ざる者(ことごと)く此の(おも)あり」等云云。既に(ごん)(じょう)(あい)(ぎょう)す即ち是れ思惑なり、未だ本因本果を知らず、即ち是邪見なり豈見惑に非ずや。
 十法界抄に云く「迹門の二乗は未だ見思を断ぜず、迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず、六道の凡夫は
本有(ほんぬ)の六界に住せず、有名無実の故に涌出品に至り爾前迹門の断無明の菩薩、五十小劫(しょうこう)半日の如しと(おも)わしむと説く」等云云。既に二失有り、故に「不定」と云ふ、「(なお)水中の月を見るが如し」とは(これ)真の月に非ず、故に知んぬ真の一念三千顕われざるに(たと)うるなり。
 而して法体の二失を顕わすなり。
 一には
本無(ほんむ)(こん)()(とが)を顕わす。玄の七に云く「天月を()らず(ただ)()(げつ)を観ず」と云云。天月を識らざるは(あに)本無に非ずや、但池月を()(むし)ろ今有に非ずや、
 二には有名無実の失を顕わす。慧心
僧都(そうず)児歌(ちごうた)に曰く「手に結ぶ水に宿れる月影の有るか無きかの世にも住むかな」云云。「根無草の波の上に浮かぶに似たり」とは是れ二乗作仏定まらざるに(たと)るなり、「根無草」とは即ち(うきくさ)の事なり、故に小野小町が歌に曰く「()ぬれば身を萍の根を絶えて誘う水有らば(すま)んとぞ思う」云云。
 又法体(ほったい)の二失を顕わすなり、一には本無今有の失を顕わす。又小野小町の歌に曰く「()()に何を種とて萍の波の畝々(うねうね)()(しげ)らん」云云。上の句は即ち本無にして下の句は是今有なり学者之を思へ、二には有名無実の失を顕わす、()治通(じつ)(がん)に曰く「浮とは物の水上に浮かぶが如く実に()かざるなり」云云、既に草有りと雖も実無し、(あに)有名無実に非ずや、(ほっ)()の二文符節(ふせつ)を合するが如し。

日享上人 註解

○無生忍とは、大乗菩薩の地位たる四忍の中の一である。

○悉く此の謂いとは(しゅう)(ごん)釈迦仏()まで伽耶(がや)()(じょう)()めてる。

○本有六界とは、本地常楽の六道である。普通の凡夫は悪業の為に輪廻して生まれた六道であるから、本の(まま)い。

○五十小劫等とは、釈には(まさ)唯神力不思議ってあが、今本師所以(ゆえん)る。差支(さしつかえ)らう。

○玄七に云わくとは、略引であるから解りにくい。今(つぶさ)引か本因ば、(これ)ず、天月()らずして(ただ)()(げつ)()と、(しゅう)ば、(これ)ず、()こと月し、払迹(ほつしゃく)顕本(けんぽん)(はら)と」(つぶさ)註解まい

○恵心僧都児歌等とは、開目抄文段には本文の「水中の月を見るがごとし」の下の引いてある。

○小野小町歌等とは、同じく本文の「根なし草の波の上に(うかぶ)てある、(おもむき)である。

○又法体の二失を顕すとは、上に(すで)法体っててあら、(ここ)(わざ)追加意味である、両所法体二字(ほっ)()よい。次下の「符節し」適合であ

○資治通鑑とは、宋の司馬温公の編集で支那開闢(かいびゃく)宋朝歴史である。

第六に本迹相対して一念三千を示すとは 四 に続く


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by johsei1129 | 2014-11-01 20:33 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)


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