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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 09日

末法に入り法華経を信じて仏になる者は爪の上の土よりも少しと説いた【妙法比丘尼御返事】

【妙法比丘尼御返事】
■出筆時期:弘安元年九月六日(西暦1278年) 五十七歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:駿河の岡宮に住まれていた妙法比丘尼に宛てられた御書。妙法比丘尼が兄・尾張次郎兵衛の死去を伝えるとともに、兄嫁より託された太布帷子をご供養することを記した大聖人への手紙の返書となっている。付法蔵経に説かれている「僧に商那和修という衣を捧げた功徳で商那衣にまとわれて生まれ、遂には阿難尊者の御弟子となり出家したという商那和修比丘」にも匹敵する功徳があると讃えられている。尚、大聖人はご消息文としては異例の長文となっている本抄を含め、4通の御書を送られるほど妙法比丘尼を大切にされており、妙法比丘尼が女性ながら大聖人への強い信仰の持ち主であったことを物語っている。
■ご真筆: 現存していない。

[妙法比丘尼御返事 本文]

 御文(ふみ)に云くたふかたびら(太布帷)一つあに(嫂)よめにて候女房のつた(伝)うと云云。又おはり(尾張)の次郎兵衛殿六月二十二日に死なせ給うと云云。
 付法蔵経と申す経は仏我が滅後に我が法を弘むべきやうを説かせ給いて候。其の中に我が滅後正法一千年が間次第に使(つかい)をつかはすべし。第一は迦葉尊者二十年・第二は阿難尊者二十年・第三は商那和修二十年・乃至第二十三は師子尊者なりと云云。其の第三の商那和修と申す人の御事を仏の説かせ給いて候やうは、商那和修と申すは衣(きぬ)の名なり。此の人生れし時衣(きぬ)をき(著)て生れて候いき不思議なりし事なり。六道の中に地獄道より人道に至るまでは何(いか)なる人も、始はあかはだか(赤裸)にて候に、天道こそ衣をきて生れ候へ。たとひ何なる賢人聖人も人に生るるならひは皆あかはだかなり。一生補処の菩薩すら尚(なお)はだかにて生れ給へり。何かに況や其の外をや。然るに此の人は商那衣(しょうなえ)と申すいみじき衣(きぬ)にまとはれて生れさせ給いしが、此の衣は血もつかずけが(汚)るる事もなし。譬えば池に蓮のをひ(生)、をし(鷲)の羽の水にぬれざるが如し。此の人次第に生長ありしかば、又此の衣次第に広く長くなる。冬はあつ(厚)く夏はうすく春は青く秋は白くなり候し程に、長者にてをはせしかば何事もとも(乏)しからず。後には仏の記しをき給いし事たがふ事なし。故に阿難尊者の御弟子(みでし)とならせ給いて御出家ありしかば、此の衣変じて五条・七条・九条等の御袈裟となり候き。かかる不思議の候し故を仏の説かせ給いしやうは、乃往(ないおう)過去・阿僧祇劫(あそうぎこう)の当初(そのかみ)、此の人は商人(あきびと)にて有りしが、五百人の商人と共に大海に船を浮べてあきなひをせし程に海辺に重病の者あり。しかれども辟支仏(ひゃくしぶつ)と申して貴人なり。先業にてや有りけん、病にかかりて身やつれ心をぼ(耄)れ不浄にまとはれてをはせしを、此の商人あはれみ奉りて、ねんごろに看病して生(いか)しまいらせ、不浄をすすぎ、すてて麤布(そふ)の商那衣をきせまいらせてありしかば、此聖人悦びて願して云く、汝我を助けて身の恥を隠せり。この衣(きぬ)を今生後生の衣とせんとて、やがて涅槃に入り給いき。此の功徳によりて過去・無量劫の間、人中天上に生れ生るる度ごとに、此の衣、身に随いて離るる事なし。乃至(ないし)今生に釈迦如来の滅後第三の付嘱をうけて、商那和修と申す聖人となり、摩突羅(まとら)国の優留荼(うると)山と申す山に大伽藍を立てて無量の衆生を教化して仏法を弘通し給いし事二十年なり。
 所詮商那和修比丘の一切のたのしみ不思議は、皆彼の衣より出生せりとこそ説かれて候へ。

 而るに日蓮は南閻浮提日本国と申す国の者なり。此の国は仏の世に出でさせ給いし国よりは東に当りて二十万余里の外遥(はるか)なる海中の小島なり。而るに仏、御入滅ありては既に二千二百二十七年なり。月氏・漢土の人の此の国の人人を見候へば、此の国の人の伊豆の大島・奥州の東のえぞ(夷)なんどを見るやうにこそ候らめ。而るに日蓮は日本国安房の国と申す国に生れて候しが、民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり。此の度いかにもして仏種をもう(植)へ、生死を離るる身とならんと思いて候し程に、皆人の願わせ給う事なれば阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱え候し程に、いささかの事ありて、此の事を疑いし故に一(ひとつ)の願をおこす。日本国に渡れる処の仏経、並に菩薩の論と人師の釈を習い見候はばや、又倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗と申す宗どもあまた有りときく上に、禅宗・浄土宗と申す宗も候なり。此等の宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分に・はしりまはり十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に一(ひとつ)の不思議あり。我れ等がはかなき心に推するに仏法は唯一味なるべし。いづれもいづれも、心に入れて習ひ願はば生死を離るべしとこそ思いて候に、仏法の中に入りて悪しく習い候ぬれば謗法と申す大なる穴に堕ち入つて、十悪五逆と申して、日日・夜夜に殺生・偸盗・邪婬・妄語等をおかす人よりも、五逆罪と申して父母等を殺す悪人よりも、比丘・比丘尼となりて身には二百五十戒をかたく持ち、心には八万法蔵をうかべて候やうなる、智者聖人の一生が間に一悪をもつくらず、人には仏のやうにをもはれ、我が身も又さながらに悪道にはよも堕ちじと思う程に、十悪・五逆の罪人よりも、つよく地獄に堕ちて阿鼻大城を栖(すみか)として永く地獄をいでぬ事の候けるぞ。譬えば人ありて世にあらんがために国主につかへ奉る程に、させるあやまちはなけれども我心のたらぬ上(うえ)身にあやしきふるまひかさなるを、猶我身にも失(とが)ありともしらず、又傍輩も不思議ともをもはざるに后等の御事によりてあやまつ事はなけれども、自然にふるまひあしく王なんどに不思議に見へまいらせぬれば、謀反の者よりも其の失重し。此の身とがにかかりぬれば父母・兄弟・所従なんども又かるからざる失にをこなはるる事あり。

 謗法と申す罪をば我れもしらず人も失とも思はず。但仏法をならへば貴しとのみ思いて候程に、此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり。所謂勝意比丘・苦岸比丘なんど申せし僧は、二百五十戒をかたく持ち三千の威儀を一もかけずありし人なれども、無間大城に堕ちて出づる期見へず。又彼の比丘に近づきて弟子となり檀那となる人人、存の外に大地微塵の数よりも多く、地獄に堕ちて師とともに苦を受けしぞかし、此の人後世のために衆善を修せしより外は又心なかりしかども・かかる不祥にあひて候しぞかし。

 かかる事を見候しゆへにあらあら経論を勘へ候へば、日本国の当世こそ其に似て候へ。代(よ)末になり候へば世間のまつり事のあらきにつけても世の中あやうかるべき上、此の日本国は他国にもにず仏法弘まりて国をさ(治)まるべきかと思いて候へば、中中・仏法弘まりて世もいたく衰へ人も多く悪道に堕つべしと見へて候。其の故は日本国は月氏・漢土よりも堂塔等の多き中に大体は阿弥陀堂なり。其の上家ごとに阿弥陀仏を木像に造り画像に書き、人毎に六万八万等の念仏を申す。又他方を抛(なげ)うちて西方を願う愚者の眼にも貴しと見え候上、一切の智人も皆いみじき事なりとほめさせ給う。

 又人王五十代・桓武天皇の御宇に、弘法大師と申す聖人此の国に生れて、漢土より真言宗と申すめずらしき法を習い伝へ、平城嵯峨淳和(じゅんな)等の王の御師となりて東寺・高野と申す寺を建立し、又慈覚大師・智証大師と申す聖人同じく此宗を習い伝えて、叡山・園城寺に弘通せしかば、日本国の山寺、一同に此の法を伝へ今に真言を行ひ鈴(れい)をふりて公家武家の御祈をし候。所謂二階堂・大御堂(おおみどう)・若宮等の別当等是れなり。是れは古も御たのみある上(うえ)当世の国主等家には柱(はしら)天には日月、河には橋、海には船の如く御たのみあり。

 禅宗と申すは又当世の持斎等を建長寺等にあがめさせ給うて父母よりも重んじ神よりも御たのみあり、されば一切の諸人頭をかたぶけ手をあざ(叉)ふ、かかる世にいかなればにや候らん、天変と申して彗星(ほうきぼし)長く東西に渡り・地夭と申して大地をくつがへすこと大海の船を大風の時・大波のくつがへすに似たり、大風吹いて草木をからし飢饉も年年にゆき疫病月月におこり大旱魃(かんばつ)ゆきて河池・田畠・皆かはきぬ、此くの如く三災・七難・数十年起りて民半分に減じ残りは或は父母・或は兄弟・或は妻子にわかれて歎く声・秋の虫にことならず、家家のち(散)りうする事冬の草木の雪にせめられたるに似たり、是は・いかなる事ぞと経論を引き見候へば仏の言く法華経と申す経を謗じ我れを用いざる国あらばかかる事あるべしと、仏の記しをかせ給いて候御言にすこしも・たがひ候はず。
 日蓮疑て云く日本には誰か法華経と釈迦仏をば謗ずべきと疑ふ、又たまさか謗ずる者は少少ありとも信ずる者こそ多くあるらめと存じ候、爰に此の日本国に人ごとに阿弥陀堂をつくり念仏を申す、其の根本を尋ぬれば道綽禅師・善導和尚・法然上人と申す三人の言(ことば)より出でて候、是れは浄土宗の根本・今の諸人の御師なり、此の三人の念仏を弘めさせ給いし時にのたまはく未有一人得者・千中無一・捨閉閣抛等云云、いふこころは阿弥陀仏をたのみ奉らん人は一切の経・一切の仏・一切の神をすてて但阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と申すべし、其の上ことに法華経と釈迦仏を捨てまいらせよとすすめしかばやす(易)きままに案もなく・ばらばらと付き候ぬ、一人付き始めしかば万人皆付き候いぬ、万人付きしかば上(かみ)は国主・中(なか)は大臣・下(しも)は万民一人も残る事なし、さる程に此の国存の外に釈迦仏・法華経の御敵人となりぬ。
 其故は「今此三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此処は諸の患難多し唯我れ一人のみ能く救護を為す」と説いて、此の日本国の一切衆生のためには釈迦仏は主なり師なり親なり、天神七代・地神五代・人王九十代の神と王とすら猶釈迦仏の所従なり、何かに況や其の神と王との眷属等をや、今日本国の大地・山河・大海・草木等は皆釈尊の御財(みたから)ぞかし、全く一分も薬師仏・阿弥陀仏等の他仏の物にはあらず、又日本国の天神・地神・九十余代の国主・並に万民・牛馬生(いき)と生(いけ)る生(しょう)ある者は皆教主釈尊の一子なり、又日本国の天神・地神・諸王・万民等の天地・水火・父母・主君・男女・妻子・黒白等を弁え給うは皆教主釈尊御教の師なり、全く薬師・阿弥陀等の御教にはあらず、されば此の仏は我等がためには大地よりも厚く虚空よりも広く天よりも高き御恩まします仏ぞかし、かかる仏なれば王臣・万民倶に人ごとに父母よりも重んじ神よりもあが(崇)め奉るべし、かくだにも候はば何なる大科有りとも天も守護して・よもす(捨)て給はじ・地もいか(怒)り給うべからず。
 然るに上一人より下万人に至るまで阿弥陀堂を立て阿弥陀仏を本尊ともてなす故に天地の御いか(怒)りあるかと見え候、譬えば此の国の者が漢土・高麗等の諸国の王に心よせなりとも、此の国の王に背き候なば其の身はたも(保)ちがたかるべし、今日本国の一切衆生も是くの如し、西方の国主・阿弥陀仏には心よせなれども我国主釈迦仏に背き奉る故に此の国の守護神いかり給うかと愚案に勘へ候、而るを此の国の人人・阿弥陀仏を或は金・或は銀・或は銅・或は木画等に志を尽し財を尽し仏事をなし、法華経と釈迦仏をば或は墨画(すみえ)・或は木像にはく(箔)をひかず・或は草堂に造りなんどす、例せば他人をば志を重ね妻子をばもてなして父母におろかなるが如し。
 又真言宗と申す宗は上一人より下万民に至るまで此れを仰ぐ事日月の如し、此れを重んずる事珍宝の如し、此の宗の義に云く大日経には法華経は二重三重の劣なり、釈迦仏は大日如来の眷属なりなんど申す此の事は弘法・慈覚・智証の仰せられし故に今四百余年に叡山・東寺・園城・日本国の智人一同の義なり。
 又禅宗と申す宗は真実の正法は教外別伝なり法華経等の経経は教内なり、譬えば月をさす指(ゆび)・渡りの後の船・彼岸に到りて・なにかせん月を見ては指は用事ならず等云云、彼の人人謗法ともをも(思)はず習い伝えたるままに存の外に申すなり、然れども此の言(ことば)は釈迦仏をあなづり法華経を失ひ奉る因縁となりて、此の国の人人・皆一同に五逆罪にすぎたる大罪を犯しながら而も罪ともしらず。
 此大科・次第につもりて人王八十二代・隠岐の法皇と申せし王並びに佐渡の院等は我が相伝の家人にも及ばざりし、相州鎌倉の義時と申せし人に代を取られさせ給いしのみならず・島島にはなたれて歎かせ給いしが・終には彼の島島にして隠れさせ給いぬ、神(たまし)ひは悪霊となりて地獄に堕ち候いぬ、其の召仕(めしつか)はれし大臣已下は或は頭をはねられ或は水火に入り・其の妻子等は或は思い死に死に・或は民の妻となりて今五十余年・其外の子孫は民のごとし、是れ偏に真言と念仏等をもてなして法華経・釈迦仏の大怨敵となりし故に・天照太神・正八幡等の天神・地祇・十方の三宝にすてられ奉りて、現身には我が所従等にせめられ後生には地獄に堕ち候ぬ。


而るに又代東(よ・あずま)にうつりて年をふるままに彼の国主を失いし、真言宗等の人人鎌倉に下り相州の足下にくぐり入りて、やうやうにたば(欺)かる故に、本(もと)は上臈なればとてすかされて鎌倉の諸堂の別当となせり。又念仏者をば善知識とたのみて大仏・長楽寺・極楽寺等とあがめ、禅宗をば寿福寺・建長寺等とあがめをく。隠岐の法皇の果報の尽き給いし失より百千万億倍すぎたる大科・鎌倉に出来せり。かかる大科ある故に天照太神・正八幡等の天神・地祇・釈迦・多宝・十方の諸仏、一同に大(おおい)にとがめさせ給う故に、隣国に聖人有りて万国の兵(つわもの)をあつめたる大王に仰せ付けて、日本国の王臣万民を一同に罰せんとたくませ給うを、日蓮かねて経論を以て勘へ候いし程に、此れを有りのままに申さば国主もいか(怒)り、万民も用ひざる上、念仏者・禅宗・律僧・真言師等定めて忿(いか)りをなしてあだを存じ、王臣等に讒奏して我が身に大難おこりて、弟子乃至檀那までも少しも日蓮に心よせなる人あらば科になし、我が身もあやうく命にも及ばんずらん。いかが案もなく申し出すべきとやすらひ(休)し程に、外典の賢人の中にも世のほろぶべき事を知りながら申さぬは諛臣(ゆしん)とて、へつらへる者、不知恩の人なり。されば賢なりし竜逢、比干なんど申せし賢人は頚をきられ胸をさかれしかども、国の大事なる事をばはばからず申し候いき。

仏法の中には仏いましめて云く、法華経のかたきを見て世をはばか(憚)り恐れて申さずば、釈迦仏の御敵いかなる智人・善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし。譬へば父母を人の殺さんとせんを、子の身として父母にしらせず、王をあやまち奉らんとする人のあらむを、臣下の身として知りながら代をおそれて申さざらんがごとしなんど禁(いましめ)られて候。

 されば仏の御使たりし提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭をは(刎)ねられ、竺の道生は蘇山へ流され、法道は面にかなやき(火印)をあてられき。此等は皆仏法を重んじ王法を恐れざりし故ぞかし。されば賢王の時は仏法をつよく立つれば、王両方を聞(きき)あきらめて勝れ給う智者を師とせしかば、国も安穏なり。所謂、陳・隋の大王、桓武・嵯峨等は天台智者大師を南北の学者に召し合せ、最澄和尚を南都の十四人に対論せさせて論じかち給いしかば、寺をたてて正法を弘通しき。大族王・優陀延王・武宗・欽宗・欽明・用明或は、鬼神・外道を崇重し、或は道士を帰依し、或は神を崇(あが)めし故に、釈迦仏の大怨敵となりて身を亡ぼし、世も安穏ならず。其の時は聖人たりし僧侶大難にあへり。今日本国すでに大謗法の国となりて他国にやぶらるべしと見えたり。
此れを知りながら申さずば、縦ひ現在は安穏なりとも後生には無間大城に堕つべし。後生を恐れて申すならば流罪・死罪は一定なりと思い定めて、去ぬる文応の比(ころ)、故最明寺入道殿に申し上げぬ。されども用い給う事なかりしかば、念仏者等此の由を聞きて上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に、かなはざりしかば、長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ。されば極楽寺殿と長時と彼の一門皆ほろぶるを各御覧あるべし。其の後何程(いかほど)もなくして召し返されて後、又経文の如く弥(いよい)よ申しつよる。又去ぬる文永八年九月十二日に佐渡の国へ流さる。日蓮御勘気の時申せしが如くどしうち(同士打)はじまりぬ。それを恐るるかの故に又召し返されて候。しかれども用ゆる事なければ万民も弥弥悪心盛んなり。

 縦ひ命を期(ご)として申したりとも国主用いずば国やぶれん事疑なし、つみしらせて後用いずば我が失にはあらずと思いて、去ぬる文永十一年五月十二日、相州鎌倉を出でて六月十七日より此の深山に居住して門(かど)一町を出でず既に五箇年をへたり。
 本は房州の者にて候いしが、地頭東条左衛門尉景信と申せしもの極楽寺殿・藤次左衛門入道、一切の念仏者にかたらはれて度度の問註ありて、結句は合戦起りて候上、極楽寺殿の御方人理をまげられしかば、東条の郡ふせ(塞)がれて入る事なし。父母の墓を見ずして数年なり。又国主より御勘気二度なり。第二度は外(そと)には遠流と聞こへしかども内には頚を切るべしとて、鎌倉竜の口と申す処に九月十二日の丑の時に、頚の座に引きすへられて候いき。いかがして候いけん、月の如くにをはせし物、江の島より飛び出でて使の頭へかかり候いしかば、使おそれてきらず、とかうせし程に子細どもあまたありて、其の夜の頚はのがれぬ。又佐渡の国にてきらんとせし程に、日蓮が申せしが如く鎌倉にどしうち始まりぬ。使はしり下りて頚をきらず、結句はゆるされぬ。今は此の山に独りすみ候。
佐渡の国にありし時は、里より遥にへだ(距)たれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり。彼処(かしこ)に一間四面の堂あり。そら(空)はいたま(板間)あわず四壁はやぶれたり、雨はそと(外)の如し雪は内に積もる。仏はおはせず筵畳(むしろ・たたみ)は一枚もなし。然れども我が根本より持ちまいらせて候教主釈尊を立てまいらせ、法華経を手ににぎり蓑をき笠をさして居たりしかども、人もみへず食もあたへずして四箇年なり。彼の蘇武が胡国にとめられて十九年が間、蓑をき雪を食としてありしが如し。

 今又此山に五箇年あり。北は身延山と申して天にはしだて、南はたかとりと申して鶏足山の如し。西はなないたがれと申して鉄門に似たり、東は天子がたけと申して富士の御山にたいし(太子)たり。四(よつ)の山は屏風の如し、北に大河あり早河と名づく、早き事箭(や)をいるが如し。南に河あり波木井河と名づく、大石を木の葉の如く流す。東には富士河北より南へ流れたりせん(千)のほこ(鉾)をつくが如し、内に滝あり身延の滝と申す、白布を天(そら)より引くが如し。此の内に狭小(いささか)の地あり、日蓮が庵室なり。深山(みやま)なれば昼も日を見奉らず夜も月を詠むる事なし。峯にははかう(巴峡)の猿かまびすしく、谷には波の下(くだ)る音鼓を打つがごとし。地にはし(敷)かざれども大石多く、山には瓦礫(がりゃく)より外には物もなし。国主はにくみ給ふ、万民はとぶらはず、冬は雪道を塞(ふさ)ぎ、夏は草をひしげり。鹿の遠音(とおね)うらめしく蝉の鳴く声かまびすし、訪う人なければ命もつぎがたし。はだへ(肌)をかくす衣も候はざりつるに、かかる衣ををくらせ給えるこそいかにとも申すばかりなく候へ。

 見し人聞きし人だにもあはれとも申さず、年比(としごろ)なれし弟子、つかへし下人だにも皆にげ失(うせ)とぶらはざるに、聞きもせず見もせぬ人の御志哀(あわれ)なり。偏に是れ別れし我が父母の生れかはらせ給いけるか。十羅刹の人の身に入りかはりて思いよらせ給うか。唐の代宗皇帝の代に、蓬子(ほうし)将軍と申せし人の御子、李如暹(りじょせん)将軍と申せし人勅定を蒙りて、北の胡地を責めし程に、我が勢数十万騎は打ち取られ胡国に生け取られて四十年漸くへ(経)し程に、妻をかたらひ子をまうけたり。胡地の習い生取(いけどり)をば皮の衣を服せ毛帯をかけさせて候が、只正月一日計り唐の衣冠をゆるす。一年ごとに漢土を恋いて肝をきり涙をながす。而(さ)る程に唐の軍おこりて唐の兵、胡地をせめし時、ひまをえて胡地の妻子をふりすててに(逃)げしかば、唐の兵は胡地のえびすとて捕へて頚をきらんとせし程に、とかうして徳宗皇帝にまいらせてありしかば、いかに申せども聞(きき)もほどかせ給はずして、南の国、呉越と申す方へ流されぬ。李如暹(りじょせん)歎いて云く、進ては涼原の本郷(ふるさと)を見ることを得ず、退ては胡地の妻子に逢ふことを得ず云云。此の心は胡地の妻子をもすて又唐(もろこし)の古き栖をも見ず。あらぬ国に流されたりと歎くなり。我が身には大忠ありしかどもかかる歎きあり。

 日蓮も又此くの如し、日本国を助けばやと思う心に依りて申し出す程に、我が生れし国をもせかれ又流されし国をも離れぬ。すでに此の深山にこもりて候が彼の李如暹に似て候なり。但し本郷(ふるさと)にも流されし処にも妻子なければ歎く事はよもあらじ。唯父母のはか(墓)とな(馴)れし人人のいかがなるらんと、をぼつかなしとも申す計りなし。但うれしき事は武士の習ひ君の御為に、宇治勢多を渡し前(さき)をかけなんどしてありし人は、たとひ身は死すれども名を後代に挙げ候ぞかし。日蓮は法華経のゆへに度度所をおはれ戦をし、身に手をお(負)ひ弟子等を殺され、両度まで遠流せられ既に頚に及べり。是れ偏に法華経の御為なり。法華経の中に仏説かせ給はく、我が滅度の後、後の五百歳、二千二百余年すぎて此の経閻浮提に流布せん時、天魔の人の身に入りかはりて此の経を弘めさせじとて、たまたま信ずる者をば、或はのり打ち所をうつし、或はころしなんどすべし。其の時先(まず)さきをしてあらん者は三世十方の仏を供養する功徳を得べし。我れ又因位の難行・苦行の功徳を譲るべしと説かせ給う取意。

 されば過去の不軽菩薩は法華経を弘通し給いしに、比丘・比丘尼等の智慧かしこく二百五十戒を持てる大僧ども集まりて優婆塞・優婆夷をかたらひて不軽菩薩をの(罵)り打ちせしかども、退転の心なく弘めさせ給いしかば終には仏となり給う。昔の不軽菩薩は今の釈迦仏なり。それをそね(妬)み打ちなんどせし大僧どもは、千劫阿鼻地獄に堕ちぬ。彼の人人は観経・阿弥陀経等の数千の経、一切の仏名・阿弥陀念仏を申し法華経を昼夜に読みしかども、実の法華経の行者をあだみしかば、法華経・念仏戒等も助け給はず、千劫阿鼻地獄に堕ちぬ。彼の比丘等は始には不軽菩薩をあだみしかども、後には心をひるがへして、身を不軽菩薩に仕うる事やつこ(奴僕)の主に随うがごとく有りしかども、無間地獄をまぬかれず。今又日蓮にあだをせさせ給う日本国の人人も此くの如し。此は彼には似るべくもなし、彼は罵り打ちしかども国主の流罪はなし、杖木瓦石はありしかども疵(きず)をかほり頚までには及ばず。是は悪口杖木は二十余年が間ひまなし、疵をかほり流罪・頚に及ぶ、弟子等は或は所領を召され、或はろう(牢)に入れ、或は遠流し、或は其の内を出だし、或は田畠を奪ひなんどする事、夜打・強盗・海賊・山賊・謀叛等の者よりもはげしく行はる。此れ又偏に真言・念仏者・禅宗等の大僧等の訴なり。されば彼の人人の御失(とが)は大地よりも厚ければ此の大地は大風に大海に船を浮べるが如く動転す。天は八万四千の星・瞋(いかり)をなし、昼夜に天変ひまなし。其の上日月・大に変多し仏滅後既に二千二百二十七年になり候に、大族王が五天の寺をやき十六の大国の僧の頚を切り、武宗皇帝の漢土の寺を失ひ仏像をくだき、日本国の守屋が釈迦仏の金銅の像を炭火(すみび)を以てやき、僧尼を打ちせめては還俗せさせし時も是れ程の彗星大地震はいまだなし。彼には百千万倍過ぎて候大悪にてこそ候いぬれ。彼は王一人の悪心大臣以下は心より起る事なし。又権仏と権経との敵なり僧も法華経の行者にはあらず。是は一向に法華経の敵、王一人のみならず一国の智人並びに万民等の心より起れる大悪心なり。譬えば女人物をねためば胸の内に大火もゆる故に、身変じて赤く身の毛さかさまにたち、五体ふるひ面に炎あがり、かほ(顔)は朱をさしたるが如し。眼まろになりてねこ(猫)の眼のねづみをみるが如し、手わななきてかしわ(柏)の葉を風の吹くに似たり、かたはら(傍)の人是を見れば大鬼神に異ならず。

 日本国の国主諸僧比丘比丘尼等も又是くの如し。たのむところの弥陀念仏をば日蓮が無間地獄の業と云うを聞き、真言は亡国の法と云うを聞き、持斎は天魔の所為(そい)と云うを聞いて念珠をくりながら歯をくひちがへ、鈴(れい)をふるにくび(頸)をどりたり、戒を持ちながら悪心をいだく。極楽寺の生仏(いきぼとけ)の良観聖人、折紙をささげて上(かみ)へ訴へ、建長寺の道隆聖人は輿(こし)に乗りて奉行人にひざまづく、諸の五百戒の尼御前等ははく(帛)をつかひてでんそう(伝奏)をなす。是れ偏に法華経を読みてよまず聞いてきかず、善導・法然が千中無一と、弘法・慈覚・達磨等の、皆是戯論教外別伝のあまきふる酒にえ(酔)はせ給いて、さかぐるひ(酒狂)にておはするなり。法華最第一の経文を見ながら、大日経は法華経に勝れたり、禅宗は最上の法なり、律宗こそ貴けれ、念仏こそ我等が分にはかなひたれと申すは、酒に酔える人にあらずや。星を見て月にすぐれたり、石を見て金にまされり、東を見て西と云い、天を地と申す。物ぐるひを本として、月と金(こがね)は星と石とには勝れたり、東は東天は天なんど有りのままに申す者をばあだ(怨)ませ給はば勢(せい)の多きに付くべきか、只物(もの)ぐるひの多く集まれるなり。されば此等を本とせし云うにかひなき男女の皆、地獄に堕ちん事こそあはれに候へ。

 涅槃経には仏説き給はく、末法に入つて法華経を謗じて地獄に堕つる者は大地微塵よりも多く、信じて仏になる者は爪の上の土よりも少しと説かれたり。此れを以つて計らせ給うべし、日本国の諸人は爪の上の土、日蓮一人は十方の微塵にて候べきか。然るに何(いか)なる宿習にてをはすれば御衣をば送らせ給うぞ、爪の上の土の数(かず)に入らんとをぼすか、又涅槃経に云く「大地の上に針を立てて大風の吹かん時大梵天より糸を下さんに、糸のはし(端)すぐに下りて針の穴に入る事はありとも、末代に法華経の行者にはあひがたし」 法華経に云く「大海の底に亀あり、三千年に一度海上にあがる栴檀の浮木の穴にゆきあひてやすむべし、而るに此の亀一目なるが而も僻目(すがめ)にて西の物を東と見、東の物を西と見るなり」と。末代悪世に生れて法華経並びに南無妙法蓮華経の穴に身を入るる男女にたとへ給へり。何(いか)なる過去の縁にてをはすれば、此の人をとふらんと思食す御心はつかせ給いけるやらん。法華経を見まいらせ候へば、釈迦仏の其の人の御身に入らせ給いてかかる心はつくべしと説かれて候。譬へばなにとも思はぬ人の酒をのみてえ(酔)いぬれば、あらぬ心出来(いできた)り、人に物をとらせばやなんど思う心出来る。此れは一生慳貪(けんどん)にして餓鬼に堕つべきを、其の人の酒の縁に菩薩の入りかはらせ給うなり。濁水に珠を入れぬれば水すみ、月に向いまいらせぬれば人の心あこがる、画にかける鬼には心なけれどもおそろし、とわり(後妻)を画にかけば、我が夫をばとらねどもそねまし、錦のしとね(褥)に蛇をお(織)れるは服せんとも思はず、身のあつ(熱)きにあたたかなる風いとはし、人の心も此くの如し。法華経の方へ御心をよせさせ給うは女人の御身なれども、竜女が御身に入らせ給うか。

 さては又尾張の次郎兵衛尉殿の御事、見参に入りて候いし人なり。日蓮は此の法門を申し候へば他人にはに(似)ず多くの人に見(まみえ)て候へども、いとをしと申す人は千人に一人もありがたし。彼の人はよも心よせには思はれたらじなれども、自体人がらにくげ(憎気)なるふりなく、よろづの人になさけあらんと思いし人なれば、心の中はうけずこそをぼしつらめども、見参の時はいつはりをろかにて有りし人なり。又女房の信じたるよしありしかば、実とは思い候はざりしかども、又いた(甚)う法華経に背く事はよもをはせじなれば、たのも(頼)しきへんも候。されども法華経を失ふ念仏並びに念仏者を信じ、我が身も多分は念仏者にてをはせしかば、後生はいかがとをぼつかなし。譬えば国主はみやづかへ(宮仕)のねんごろなるには、恩のあるもあり又なきもあり。少しもをろ(疎)かなる事候へばとがになる事疑なし。法華経も又此くの如し、いかに信ずるやうなれども、法華経の御かたきにも知れ知らざれ、まじ(交)はりぬれば無間地獄は疑なし。

 是はさてをき候ぬ、彼の女房の御歎いかがとをしはかるに、あはれなり。たとへばふじ(藤)のはな(花)のさかんなるが松にかかりて思う事もなきに、松のには(俄)かにたふ(倒)れ、つた(蔦)のかき(垣)にかかれるが、かきの破れたるが如くにをぼすらん。内へ入れば主なし、やぶれたる家の柱(はしら)なきが如し。客人来れども外(と)に出でてあひしらうべき人もなし。夜のくらきにはねや(閨)すさ(凄)まじく、はか(墓)をみればしるし(標)はあれども声もきこへず。又思いやる死出の山、三途の河をば誰とか越え給うらん、只独り歎き給うらん。とど(留)めをきし御前たち、いかに我をばひとりや(遣)るらん。さはちぎ(契)らざりとや歎かせ給うらん。かたがた秋の夜の・ふけゆくままに冬の嵐の・をとづるる声につけても、弥弥御歎き重(おも)り候らん、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。





by johsei1129 | 2019-11-09 17:31 | 妙法比丘尼 | Trackback | Comments(0)
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