2014年 10月 24日
第二に文相の大旨を示すとは、 文に三段あり、初めに一念三千の法門とは標なり、次に但法華経の下は釈なり、三に竜樹の下は結なり。釈の文に三意を含む、初めは権実相対、所謂但法華経の四字是なり、次には本迹相対、所謂本門寿量品の五字是れなり、三には種脱相対、所謂文底秘沈の四字是れなり、是れ則ち浅きより深きにいたり次第に之れを判ず、譬へば高きに登るに必ず卑きよりし、遠くに往くには必ず近きよりするが如し云云。三に竜樹の下、結とは是れ正像未弘を結す、意は末法流布を顕わすなり。亦二意あり、初めに正法未弘を挙げ通じて三種を結し、次に像法在懐を挙げ別して第三を結するなり。応に知るべし、但法華経の但の字は是れ一字なりと雖も意には三段を冠するなり。謂く、一念三千の法門は一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底秘沈と云云。故に三種の相対は文に在って分明なり。 問ふ、権実・本迹は是れ常の所談なり、第三の種脱相対の文理如何。 答ふ、此れ即ち宗祖出世の本懐此に於て若し明きらむる則は諸文に迷わざるなり。故に且く一文を引いて其の綱要を示さん。禀権抄三十一に云く、法華経と爾前の経とを引き向えて勝劣浅深を判ずるに当分跨節の事に三の様あり。日蓮が法門は第三の法門なり、世間には粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候等云云。 今謹んで案じて曰わく、一には爾前は当分、迹門は跨節なり、是は権実相対にして第一の法門なり。 二には迹門は当分、本門は跨節、是は本迹相対にして第二の法門なり。 三には脱益は当分、下種は跨節なり是は種脱相対にして第三の法門なり。此れ即ち宗祖出世の本意なり、故に日蓮が法門と云うなり。今・一念三千の法門は但文底秘沈と曰う意此こに在り、学者深く思え云云。
問ふ、当流の諸師・他門の学者皆第三の教相を以って即ち第三の法門と名づく。然るに今種脱相対を以って名づけて第三の法門となす、此の事前代に未だ聞かず、若し明文無くんば誰か之れを信ずべけんや。 答ふ、第三の教相の若きは仍お天台の法門にして日蓮が法門にはあらず。応に知るべし、彼の天台の第一第二は通じて当流の第一に属す、彼の第三教相は即当流の第二に属するなり。故に彼の三種の教相を以って若し当流に望むる則は二種の教相となるなり。妙楽の、前の両意は迹門に約し、後の一意は本門に約すと是なり。更に種脱相対の一種を加へて以って第三と為す、故に日蓮が法門と云うなり。 今明文を引いて以って此の義を証せん。十法界抄に云わく、四重興廃と云云。血脈抄に云わく、四重浅深と云云。又云わく、下種三種の教相と云云。本尊抄に云わく、彼は脱、此れは種なり等云云。秘すべし、秘すべし々々々々云云。 日享上人註解 ○権実相対とは、爾前四十年の説を権教方便として法華八年の説を実教真実とする宗祖の教判である、権実の名目同じであっても他宗の所判と大異がある、本迹種脱の名目も他門の所見と亦別である、開目抄の五重の権実相対及び本尊抄の五重三段に通達して本宗教判の別意を会了せざれば、或は名目同辺の上から他宗他門の謬義に陥らんとも限らぬ。 ○結三種とは、一念三千に於ける権実、本迹、種脱の三種を順次に判ずる事、上文の通りである。 ○在懐とは、天台大師の心中に沈めをかれた法は即種脱相対の上の一念三千の珠である。 ○不迷諸文とは、諸文とは通じては日蓮一宗の教義を述べたる書籍、別して宗祖の諸御書である、種脱相対の奥義に明らかなる時は大綱の盲目を提ぐるに整然たる如く諸御書の義意も脈絡貫通して権実本迹の法義系統乱れず尽く種脱の主脳に集中して一目の下少しも迷惑することが無い。 ○当分跨節とは、一往再往と似ている当分は其の儘其の所で跨節は其れより一関一節を跨げて一重立ち入りたる所であるが四句百非の安息所無きとは自ら別異で、下種は跨節の終局根本である。 ○当流諸師他門学者とは、富士興門流を当流と云ふが中にも要山日辰流等では第三教相即第三法門である、他宗の致劣門流は悉く其れである。 ○第三教相仍お天台法門等とは、天台玄文第二に出づるもの在世の三種教相である。 在世 一、根性の融不融の相 <不融は爾前・融は法華> 方便譬喩―迹門 二、化導の始終不始終の相<不始終は爾前・始終は法華>化城喩―迹門
三、師弟の遠近不遠近の相<近は爾前迹門・遠は法華> 寿量―本門
末法の蓮祖の三種教相即第三法門とは 末法 爾前当分 一、権実相対 迹門 迹門当分 二、本迹相対 本門 本門跨節 脱本当分 三、種脱相対 種本 種本跨節 稟権出界抄に此の意が見ゆる、別して「第三ヲ申サズ候」との御文、心を潜めて案ずべきである。 ○四重興廃とは、十法界抄の御文で爾前・迹門・本門・観心と従浅至深的に前法が廃すれば後法が興り次第に転迷開悟するの相である。 ○四重浅深とは、本因妙抄の玄義七面の第三であって五重玄に分れて各四重の浅深を列してある。 ○下種三種教相とは、百六箇抄の種の三十二の本迹を指すか、三種に拘って見ると余り明了では無いやうであるが、次の本尊抄の此の種の御引文と併せ考ふれば題目を主として演繹すべき本師の深義が潜んで居るであろう。
by johsei1129
| 2014-10-24 23:39
| 日寛上人 六巻抄
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