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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 10月 11日

悪因は悪果を感じ、善因は善報を生ずるは仏教の定れる習なりと説いた【始聞仏乗義】

【始聞仏乗義(しもんぶつじょうぎ)】
■出筆時期:建治四年二月二十八日(西暦1278年) 五十七歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:下総国の豪族で、この地における大聖人の信徒の棟梁たる富木常忍の母の三回忌追善のために、本御書をしたためられた。「末代の凡夫此の法門を聞かば唯我一人のみ成仏するに非ず、父母も又即身成仏せん。此れ第一の孝養なり。」と述べ、法華経への信仰を励まされておられます。尚、本書は富木常忍に宛てられたため、大聖人は全文和漢文でしたためておられれます
■ご真筆: 中山法華経寺 所蔵(重要文化財)。時代写本:日興上人筆(要法寺所蔵)。

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[始聞仏乗義ご真筆(中山法華経寺 所蔵)]
答汝難大道理也。我不弁此事
但付法蔵第十三天台大師高
祖龍樹菩薩釈妙法之妙一字
譬如大薬師能以毒為薬等
云云。云毒者何物 我等煩悩業
苦三道也。薬者何物 法身・般若・
解脱也 能以毒為薬者何物 変
三道為三徳耳 天台云 妙名不
可思議等云云 又云夫一心乃至不可
思議境意在於此等云云 即身
成仏申此是也。近代華厳真言
等盗取此義為我物 大偸盗
天下盗人是也 問云 凡夫位可知
[真筆(漢文)本文:下記緑字箇所]

[始聞仏乗義 ] 本文

 青鳧(せいふ)七結(ゆい)下州より甲州に送らる。其の御志悲母の第三年に相当る御孝養なり。問う、止観明静前代未聞の心如何。答う、円頓止観なり。問う、円頓止観の意何ん。答う、法華三昧の異名なり。問う、法華三昧の心如何。答う、夫れ末代の凡夫法華経を修行する意に二有り。一には就類種(しゅるいじゅ)の開会、二には相対種の開会なり。問う、此の名は何より出るや。答う、法華経第三薬草喩品に云く「種相体性」の四字なり。其の四字の中に第一の種の一字に二あり。一には就類種二には相対種なり。其の就類種とは釈に云く「凡そ心有る者は是れ正因の種なり。随つて一句を聞くは是れ了因の種なり。低頭挙手(ていずこしゅ)は是れ縁因の種なり」等云云。其の相対種とは煩悩と業と苦との三道、其の当体を押えて法身と般若と解脱と称する是なり。其の中に就類種の一法は宗は法華経に有りと雖も少分又爾前の経経にも通ず。妙楽云く「別教は唯就類の種有つて而も相対無し」と云云。此の釈の別教と云うは本の別教には非ず、爾前の円或は他師の円なり。又法華経の迹門の中・供養舎利已下二十余行の法門も大体就類種の開会なり。問う、其の相対種の心如何。答う、止観に云く「云何なるか聞円法なる生死即法身・煩悩即般若・結業即解脱なりと聞くなり。三の名有りと雖も而も三の体無し。是れ一体なりと雖も而も三の名を立つ。是の三即ち一相にして其れ実に異有ること無し。法身究竟すれば般若も解脱も亦究竟なり。般若清浄なれば余亦清浄なり。解脱自在なれば余亦自在なり。一切の法を聞くこと亦是の如し。皆仏法を具して減少する所無し。是を聞円と名く」等云云。此の釈は即ち相対種の手本なり。其の意如何。答う、生死とは我等が苦果の依身なり。所謂五陰・十二入・十八界なり。煩悩とは見思・塵沙・無明の三惑なり。結業とは五逆・十悪・四重等なり。法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来なり。我等衆生無始曠劫より已来此の三道を具足し、今法華経に値つて三道即三徳となるなり。
 
 難じて云く、火より水出でず、石より草生ぜず。悪因・悪果を感じ、善因・善報を生ずるは仏教の定れる習なり。而るに我等其の根本を尋ね究むれば、父母の精血・赤白(しゃくびゃく)二渧(たい)和合して一身と為る。悪の根本不浄の源なり。設い大海を傾けて之を洗うとも清浄なる可らず。又此れ苦果の依身は其の根本を探り見れば貧・瞋・癡の三毒より出ずるなり。此の煩悩苦果の二道に依つて業を構う。此の業道即ち是れ結縛の法なり。譬えば篭に入れる鳥の如し。如何ぞ此の三道を以て三仏因と称するや。譬えば糞を集めて栴檀を造れども終に香しからざるが如し。

 答う、汝が難大いに道理なり。我此の事を弁えず。但し付法蔵の第十三天台大師の高祖・竜樹菩薩・妙法の妙の一字を釈して、譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し等云云。毒と云うは何物ぞ、我等が煩悩・業・苦の三道なり。薬とは何物ぞ、法身・般若・解脱なり。能く毒を以て薬と為すとは何物ぞ、三道を変じて三徳と為すのみ。天台云く「妙は不可思議と名づく」等云云。又云く、一心乃至不可思議境・意此に在り等云云。即身成仏と申すは此れ是なり。近代の華厳・真言等此の義を盗み取りて我が物と為す大偸盗天下の盗人是なり。

 問うて云く、凡夫の位も此の秘法の心を知るべきや。
答う、私の答は詮無し、竜樹菩薩の大論九十三也に云く「今漏尽の阿羅漢還つて作仏すと云うは唯仏のみ能く知ろしめす、論議とは正しく其の事を論ず可し測り知ること能わず是の故に戯論すべからず若し仏を求め得る時乃ち能く了知す余人は信ずべく而も未だ知るべからず」等云云。此の釈は爾前の別教の十一品の断無明、円教の四十一品の断無明の大菩薩・普賢・文殊等も未だ法華経の意を知らず、何に況や蔵通二教の三乗をや、何に況や末代の凡夫をやと云う論文なり。之を以て案ずるに、法華経の「唯仏与仏・乃能究尽」とは爾前の灰身滅智の二乗の煩悩・業・苦の三道を押えて、法身・般若・解脱と説くに二乗還つて作仏す。菩薩・凡夫も亦是くの如しと釈するなり。故に天台の云く「二乗根敗す之を名けて毒と為す。今経に記を得る即ち是れ毒を変じて薬と為す。論に云く余経は秘密に非ず。法華は是れ秘密なり」等云云。妙楽云く「論に云くとは大論なり」と云云。
 
 問う、是くの如し之を聞いて何の益有るや。答えて云く、始めて法華経を聞くなり。妙楽云く「若し三道即是れ三徳と信ぜば尚能く二死の河を渡る況や三界をや」と云云。末代の凡夫此の法門を聞かば、唯我一人のみ成仏するに非ず、父母も又即身成仏せん。此れ第一の孝養なり。病身為るの故に委細ならず、又又申す可し。

建治四年太歳戊寅二月二十八日  日 蓮 花押
富木殿


by johsei1129 | 2014-10-11 01:13 | 富木常忍・尼御前 | Trackback | Comments(0)
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