日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 10月 05日

善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなりと説いた【減劫御書】

【減劫御書(げんこうごしょ)】
■出筆時期:建治元年(西暦1275年) 五十四歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。故高橋六郎兵衛入道の妻、持妙尼に宛てられた御書と思われる。
■出筆の経緯:高橋六郎兵衛入道の妻・持妙尼は日興上人の叔母であり、その縁で大聖人に帰依した富士郡の豪信徒である。高橋入道が亡くなった後、大聖人は大進阿闍梨をつかわされ、故高橋入道の墓に代参させている。その時本書を持妙尼に渡されたものと思われる。本書では「善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり・・・略・・・智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり・・・略・・・法華経の御心これてひの事にて候、外のこととをぼす(思す)べからず」と説いている。
■ご真筆: 日蓮正宗総本山 大石寺所蔵。

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[減劫御書ご真筆] 

 [減劫御書(別称:智慧亡国御書)] 本文

減劫と申すは人の心の内に候、貪・瞋・癡の三毒が次第に強盛になりもてゆくほどに・次第に人のいのちもつづまりせいもちいさくなりもつてまかるなり、漢土・日本国は仏法已前には三皇・五帝・三聖等の外経をもつて民の心をととのへてよをば治めしほどに・次第に人の心はよきことは・はかなく・わるき事は・かしこくなりしかば・外経の智あさきゆへに悪のふかき失をいましめがたし、外経をもつて世をさまらざりしゆへに・やうやく仏経をわたして世間ををさめしかば世をだやかなりき、此れはひとへに仏教のかしこきによつて人民の心をくはしくあかせるなり、当時の外典と申すは本の外経の心にはあらず、仏法のわたりし時は外経と仏経とあらそいしかども・やうやく外経まけて王と民と用いざりしかば・外経のもの内経の所従となりて立ちあうことなくありしほどに・外経の人人・内経の心をぬきて智慧をまし外経に入れて候ををろかなる王は外典のかしこきかとをもう。

 又人の心やうやく善の智慧は・はかなく悪の智慧かしこくなりしかば仏経の中にも小乗経の智慧・世間ををさむるに代をさまることなし、其の時大乗経をひろめて代を・をさめしかば・すこし代をさまりぬ、其の後大乗経の智慧及ばざりしかば一乗経の智慧をとりいだして代ををさめしかば・すこししばらく代をさまりぬ、今の代は外経も小乗経も大乗経も一乗法華経等もかなわぬよとなれり、ゆえいかんとなれば衆生の貪・瞋・癡の心のかしこきこと大覚世尊の大善にかしこきがごとし、譬へば犬は鼻のかしこき事人にすぎたり、又鼻の禽獣をかぐことは大聖の鼻通にも・をとらず、ふくろうがみみのかしこき・とびの眼のかしこき・すずめの舌のかろき・りうの身のかしこき・皆かしこき人にもすぐれて候、そのやうに末代濁世の心の貪欲・瞋恚・愚癡のかしこさは・いかなる賢人・聖人も治めがたき事なり、其の故は貪欲をば仏不浄観の薬をもて治し・瞋恚をば慈悲観をもて治し・愚癡をば十二因縁観をもてこそ治し給うに・いまは此の法門をとひて人を・をとして貪欲・瞋恚・愚癡をます
なり、譬へば火をば水をもつてけす・悪をば善をもつて打つ・しかるにかへりて水より出ぬる火をば水をかくればあぶらになりていよいよ大火となるなり。
 
 今末代悪世に世間の悪より出世の法門につきて大悪出生せり、これをば・しらずして今の人人・善根をすすれば・いよいよ代のほろぶる事出来せり、今の代の天台真言等の諸宗の僧等をやしなうは・外は善根とこそ見ゆれども内は十悪五逆にもすぎたる大悪なり、しかれば代のをさまらん事は大覚世尊の智慧のごとくなる智人世に有りて・仙予国王のごとくなる賢王とよりあひて・一向に善根をとどめ大悪をもつて八宗の智人とをもうものを・或はせめ或はながし或はせをとどめ或は頭をはねてこそ代はすこし・をさまるべきにて候へ。

 法華経の第一の巻の「諸法実相乃至唯仏と仏と乃ち能く究尽し給う」ととかれて候はこれなり、本末究竟と申すは本とは悪のね善の根・末と申すは悪のをわり善の終りぞかし、善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり、天台云く「夫れ一心に十法界を具す」等云云、章安云く「仏尚此れを大事と為す易解を得べきなり」妙楽云く「乃至終窮究竟の極説なり」等云云、法華経に云く「皆実相と相違背せず」等云云、天台之を承けて云く「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」等云云、智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり、殷の代の濁りて民のわづらいしを大公望出世して殷の紂が頚を切りて民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし張良出でて代ををさめ民の口をあまくせし、此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人は・しらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり。今の代には正嘉の大地震・文永の大せひせひの時智慧かしこき国主あらましかば日蓮をば用いつべかりしなり、それこそなからめ文永九年のどしうち・十一年の蒙古のせめの時は周の文王の大公望をむかへしがごとく・殷の高丁王の傅悦を七里より請せしがごとくすべかりしぞかし、日月は生盲の者には財にあらず賢人をば愚王のにくむとはこれなり、しげきゆへにしるさず、法華経の御心と申すはこれてひの事にて候・外のことと・をぼすべからず、大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ。

 此の大進阿闍梨を故六郎入道殿の御はかへつかわし候、むかし・この法門を聞いて候人人には関東の内ならば我とゆきて其のはかに自我偈よみ候はんと存じて候、しかれども当時のありさまは日蓮かしこへゆくならば其の日に一国にきこへ・又かまくらまでもさわぎ候はんか、心ざしある人なりともゆきたらんところの人人めををそれぬべし、いままでとぶらい候はねば聖霊いかにこひしくをはすらんと・をもへば・あるやうもありなん、そのほど・まづ弟子をつかわして御はかに自我偈を・よませまいらせしなり、其の由御心へ候へ、恐恐。

[減劫御書(別称:智慧亡国御書)] 本文 完。







by johsei1129 | 2014-10-05 20:17 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
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