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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 21日

法華経を捨てて天台の止観を正とするの輩は大謗法・大邪見・天魔の所為なる、と断じた書【立正観抄】五

【立正観抄 本文] その五

 問う、天台大師真実に此の一言の妙法を証得したまわざるや。答う、内証爾らざるなり。外用に於ては之を弘通したまわざるなり。所謂内証の辺をば祕して、外用には三観と号して、一念三千の法門を示現し給うなり。問う、何が故ぞ知り乍ら弘通し給わざるや。答う時至らざるが故に、付属に非ざるが故に、迹化なるが故なり。問う、天台此の一言の妙法を証得し給える証拠之有りや。答う、此の事天台一家の祕事なり。世に流布せる学者之を知らず。潅頂 玄旨の血脈とて天台大師自筆の血脈一紙之有り。天台御入滅の後は石塔の中に之有り。伝教大師御入唐の時八舌(やつした)の鑰を以て之を開き、道邃和尚より伝受し給う血脈とは是なり。此の書に云く「一言の妙旨・一教の玄義」文。伝教大師の血脈に云く「夫れ一言の妙法とは、両眼を開いて五塵(ごじん)の境を見る時は随縁真如なるべし。両眼を閉じて無念に住する時は不変真如なるべし。故に此の一言を聞くに万法ここに達し、一代の修多羅一言に含(がん)す」文。此の両大師の血脈の如くならば、天台大師の血脈相承の最要の法は妙法の一言(いちごん)なり。一心三観とは所詮妙法を成就せん為の修行の方法なり。三観は因の義、妙法は果の義なり。但因の処に果有り、果の処に因有り、因果倶時の妙法を観ずるが故に是くの如き功能を得るなり。爰に知んぬ、天台至極の法門は法華本迹未分の処に無念の止観を立てて、最祕の上法とすと云える邪義大なる僻見なりと云う事を。四依弘経の大薩たは既に仏経に依つて諸論を造る。天台何ぞ仏説に背いて無念の止観を立てたまわんや。若し此の止観・法華経に依らずといわば、天台の止観・教外別伝の達磨の天魔の邪法に同ぜん。都て然る可からず。哀れなり哀れなり。

 伝教大師云く「国主の制に非ざれば以て遵行(じゅんぎょう)する無く、法王の教に非ざれば以て信受すること無し」と文。又云く「四依、論を造るに権有り実有り。三乗の旨を述ぶるに三有り一有り。所以に天台智者は三乗の旨に順じて四教の階を定め、一実の道に依つて一仏乗を建つ。六度に別有り、戒度何ぞ同じからん、受法同じからず、威儀豈同じからんや。是の故に天台の伝法は深く四依に依り亦仏経に順う」文。本朝の天台宗の法門は伝教大師より之を始む。若し天台の止観、法華経に依らずと云わば日本に於ては伝教の高祖に背き、漢土に於ては天台に背く。両大師の伝法既に法華経に依る、豈其の末学之に違せんや。違するを以て知んぬ、当世の天台家の人人、其の名を天台山に借ると雖も所学の法門は達磨の僻見と善無畏の妄語とに依ると云う事。天台・伝教の解釈(げしゃく)の如くんば、己心中の秘法は但妙法の一言に限るなり。然而(しかして)当世の天台宗の学者は天台の石塔の血脈を秘し失う故に、天台の血脈相承の秘法を習い失いて、我と一心三観の血脈とて我意に任せて書を造り、錦の袋に入れて頚に懸け、箱の底に埋めて高直(こうじき)に売る故に、邪義国中に流布して天台の仏法破失するなり。天台の本意を失い、釈尊の妙法を下す。是れ偏えに達磨の教訓、善無畏の勧(すすめ)なり。故に止観をも知らず、一心三観・一心三諦をも知らず、一念三千の観をも知らず、本迹二門をも知らず、相待・絶待の二妙をも知らず、法華の妙観をも知らず、教相をも知らず、権実をも知らず、四教・八教をも知らず、五時五味の施化(せけ)をも知らず、教・機・時・国・相応の義は申すに及ばず、実教にも似ず、権教にも似ざるなり。道理なり道理なり。天台・伝教の所伝は法華経は禅・真言より劣れりと習う故に、達磨の邪義、真言の妄語と打ち成つて権教にも似ず、実教にも似ず、二途に摂せざるなり。故に大謗法罪顕れて止観は法華経に勝ると云う邪義を申し出して、過無き天台に失を懸けたてまつる。故に、高祖に背く不孝の者、法華経に背く大謗法罪の者と成るなり。

【立正観抄 本文] その六に続く


by johsei1129 | 2019-10-21 19:08 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
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