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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 21日

法華経を捨てて天台の止観を正とするの輩は大謗法・大邪見・天魔の所為なる、と断じた書【立正観抄】三

【立正観抄 本文] その三

 次に観心の釈の時・本迹を捨つと云う難は、法華経何れの文・人師の釈を本と為して仏教を捨てよと見えたるや。設い天台の釈なりとも釈尊の金言に背き、法華経に背かば全く之を用ゆ可からざるなり。依法不依人の故に竜樹・天台・伝教・元よりの御約束なるが故なり。其の上・天台の釈の意は迹の大教起れば爾前の大教亡じ、本の大教興れば迹の大教亡じ、観心の大教興れば本の大教亡ずと釈するは、本体の本法をば妙法不思議の一法に取り定めての上に修行を立つるの時、今像法の修行は観心修行を詮と為(す)るに、迹を尋ぬれば迹広し、本を尋ぬれば本・高うして極む可からず。故に末学機に叶い難し。但己心の妙法を観ぜよと云う釈なり。然りと雖も妙法を捨てよとは釈せざるなり。若し妙法を捨てば何物を己心と為して観ず可きや。如意宝珠を捨て、瓦石(がしゃく)を取つて宝と為す可きか。
 悲しいかな当世天台宗の学者は念仏・真言・禅宗等に同意するが故に、天台の教釈を習い失つて法華経に背き、大謗法の罪を得るなり。 
 若し止観を法華経に勝ると云わば種種の過(とが)之有り。
 止観は天台の道場所得の己証なり、法華経は釈尊の道場所得の大法なり是一
 釈尊は妙覚果満の仏なり、天台は住前未証なれば名字・観行・相似には過ぐ可からず、四十二重の劣なり是二
 法華は釈尊乃至諸仏出世の本懐なり、止観は天台出世の己証なり是三
 法華経は多宝の証明あり、来集(らいじゅう)の分身は広長舌を大梵天に付く、皆是真実の大白法なり是四。止観は天台の説法なり。是くの如き等の種種の相違之有れども、仍お之を略するなり。

 又一つの問答に云く所被の機・上機なる故に勝ると云わば実を捨てて権を取れ。天台云く「教・弥弥(いよいよ)権なれば位・弥弥高し」と釈し給う故なり。所被の機・下劣なる故に劣ると云わば権を捨てて実を取れ。天台の釈には「教・弥弥実なれば位弥弥下(ひく)し」と云う故なり。然而(しか)して止観は上機の為に之を説き、法華は下機の為に之を説くと云わば、止観は法華に劣れる故に機を高く説くと聞えたり。
 実にさもや有るらん。天台大師は霊山の聴衆として如来出世の本懐を宣べたもうと雖も、時至らざるが故に妙法の名字を替えて止観と号す。迹化の衆なるが故に・本化の付属を弘め給わず。正直の妙法を止観と説きまぎらかす故に有りのままの妙法ならざれば帯権の法に似たり。故に知んぬ天台弘通の所化の機は在世帯権の円機の如し。本化弘通の所化の機は法華本門の直機(じっき)なり。止観・法華は全く体同じと云わん・尚人師の釈を以て仏説に同ずる失(とが)・甚重なり。何に況んや止観は法華経に勝ると云う邪義を申し出すは、但是れ本化の弘経と迹化の弘通と、像法と末法と、迹門の付属と本門の付属とを末法の行者に云い顕わさせん為の仏天の御計いなり。
 爰(ここ)に知んぬ、当世天台宗の中に此の義を云う人は、祖師天台の為には不知恩の人なり。豈其の過(とが)を免れんや。夫れ天台大師は昔霊山に在っては薬王と名づけ、今漢土に在ては天台と名づけ、日本国の中にては伝教と名づく。三世の弘通・倶に妙法と名く。是くの如く法華経を弘通し給う人は、在世の釈尊より外(ほか)は三国に其の名を聞かず。有り難く御坐(おわ)します大師を、其の末学・其の教釈を悪(あ)しく習うて失無き天台に失を懸けたてまつる。豈大罪に非ずや。

【立正観抄 本文] その四に続く




by johsei1129 | 2019-10-21 19:01 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
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