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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 09月 14日

日蓮大聖人佐渡ご赦免から三度目の国家諌暁、身延入山までの振る舞いを記した書【光日房御書】一

【光日房御書(こうにちぼうごしょ】
■出筆時期:建治二年丙太子歳三月(西暦1276年)、五十五歳 御作。大聖人と同郷の安房・天津の女性信徒・光日房に宛てられた。
■出筆場所:身延山 草庵にて。
■出筆の経緯:はじめに子の弥四郎が同郷の大聖人に親近し、その後弥四郎の勧めで昔より尊敬していた日蓮大聖人に帰依した。大聖人が佐渡に流されるや、人に託して御供養の衣を送られたほどの大聖人への強い信仰を持った女性信徒であった。
本書は、武士である子の弥四郎が事件に遭遇、人を殺め自らは横死、この事について光日房は「人をも・ころしたりし者なればいかやうなるところにか生れて候らん」と、我が子弥四郎の後生はどうなるのか大聖人に問われ、それへの返書となっている。大聖人は光日房へ本書の他、光日上人御返事、光日尼御返事に加え、末法の御本仏の振る舞いを記された重要御書である「種種御振舞御書」も宛てられている。
また本抄では佐渡流罪からご赦免を経て三度目の国家諌暁、身延入山までの末法の本佛としての振る舞いについて詳しく記されている。
■ご真筆: 曽存:身延山(明治8年の火災で大半が焼失)、 一部、三条本成寺に所蔵。
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[光日房御書ご真筆]

[光日房御書 本文]その一

 去る文永八年太歳辛未(かのとひつじ)九月のころより御勘気をかほりて、北国の海中・佐渡の嶋にはなたれたりしかば、なにとなく相州・鎌倉に住みしには、生国なれば安房の国はこひしかりしかども、我が国ながらも人の心も・いかにとや・むつ(昵)びにくくありしかば、常にはかよう事もなくしてすぎしに、御勘気の身となりて死罪となるべかりしが、しばらく国の外にはなたれし上は・をぼろげならではかまくらへは・かへるべからず。かへらずば又父母のはかをみる身となりがたしと・をもひつづけしかば、いまさらとびたつばかり・くやしくて、などか・かかる身とならざりし時、日にも月にも・海もわたり、山をもこえて父母のはかをもみ、師匠のありやうをも・とひ、をとづれざりけんとなげかしくて、彼の蘇武が胡国に入りて十九年、かり(雁)の南へとびけるを・うらやみ、仲丸(なかまろ)が日本国の朝使として・もろこし(唐土)にわたりてありしが、かへされずしてとしを経しかば、月の東に出でたるをみて、我が国みかさ(三笠)の山にも此の月は出でさせ給いて、故里(ふるさと)の人も只今月に向いてながむらんと、心をすましてけり。
 此れもかく・をもひやりし時、我が国より或人のびん(便)につけて衣をたびたりし時、彼の蘇武がかり(雁)のあし、此れは現に衣あり。にるべくもなく心なぐさみて候しに、日蓮はさせる失あるべしとはをもはねども、此の国のならひ・念仏者と禅宗と律宗と真言宗にすかされぬるゆへに、法華経をば上にはたうとむよしをふるまい、心には入らざるゆへに、日蓮が法華経のいみじきよし申せば、威音王仏の末の末法に・不軽菩薩をにくみしごとく、上一人より下万人にいたるまで・名をも・きかじ、まして形をみる事はをもひよらず。さればたとひ失なくとも、かくなさる上はゆるしがたし。ましていわうや日本国の人の父母よりも・をもく、日月よりも・たかくたのみたまへる念仏を無間の業と申し、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺をばやきはらひ、念仏者どもが頚をはねらるべしと申す上、故最明寺・極楽寺の両入道殿を阿鼻地獄に堕ち給いたりと申すほどの大禍ある身なり。此れ程の大事を上下万人に申しつけられぬる上は、設ひそらごとなりとも此の世にはうかびがたし。いかにいわうや・これはみな朝夕に申し、昼夜に談ぜしうへ、平左衛門尉等の数百人の奉行人に申しきかせ、いかにとがに行わるとも申しやむまじきよし、したたかに・いゐきかせぬ。されば大海のそこの・ちびき(千引)の石はうかぶとも、天よりふる雨は地にをちずとも、日蓮はかまくらへは還るべからず。

 但し法華経のまことにおはしまし、日月我をすて給はずば・かへり入りて又父母のはかをもみるへんもありなんと、心づよくをもひて梵天・帝釈・日月・四天はいかになり給いぬるやらん、天照太神・正八幡宮は此の国にをはせぬか。仏前の御起請はむなしくて、法華経の行者をばすて給うか。もし此の事叶わずば日蓮が身の・なにともならん事は・をしからず、各各(おのおの)現に教主釈尊と多宝如来と十方の諸仏の御宝前にして誓状を立て給いしが、今日蓮を守護せずして捨て給うならば、正直捨方便の法華経に大妄語を加へ給へるか。十方三世の諸仏をたぼらかし奉れる御失(おんとが)は提婆達多が大妄語にもこへ、瞿伽利(くぎゃり)尊者が虚誑罪(こおうざい)にもまされり。設ひ大梵天として色界の頂に居し、千眼天といはれて須弥の頂におはすとも、日蓮をすて給うならば阿鼻の炎には・たきぎとなり、無間大城にはいづるご(期)おはせじ。此の罪をそろしとおぼさば・いそぎいそぎ国土にしるしをいだし給え、本国へかへし給へと高き山にのぼりて大音声をはなちてさけびしかば、九月の十二日に御勘気、十一月に謀反のものいできたり。かへる年の二月十一日に、日本国のかためたるべき大将ども・よしなく打ちころされぬ。天のせめという事あらはなり。此れにや・をどろかれけん、弟子どもゆるされぬ。

 而れどもいまだ・ゆりざりしかば、いよいよ強盛に天に申せしかば頭の白き烏とび来たりぬ。彼の燕(えん)の・たむ(丹)太子の馬、烏のれい、日蔵上人の「山がらす かしらもしろくなりにけり・我がかへるべき時やきぬらん」とながめし此れなりと申しもあへず、文永十一年二月十四日の御赦免状、同三月八日に佐渡の国につきぬ。同十三日に国を立ちてまうら(真浦)というつ(津)にをりて、十四日は・か(彼)のつにとどまり、同じき十五日に越後の寺どまりのつにつくべきが、大風にはなたれ・さいわひにふつかぢ(二日路)をすぎて、かしはざきにつきて、次の日はこう(国府)につき、十二日をへて三月二十六日に鎌倉へ入り、同じき四月八日に平左衛門尉に見参す。本よりごせし事なれば、日本国のほろびんを助けんがために・三度いさめんに御用いなくば山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。

[光日房御書 本文] 二に続く




by johsei1129 | 2014-09-14 21:52 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)


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