日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 09月 11日

法華経の行者を供養する功徳は釈迦仏を無量の宝を尽して供養せる功徳に勝れたりとあかした【新池御書】四

[新池御書 本文]その四

 又一代聖教を弘むる人多くおはせども、是れ程の大事の法門をば伝教天台もいまだ仰せられず。其も道理なり。末法の始の五百年に上行菩薩の出世あつて弘め給ふべき法門なるが故なり。相構へて、いかにしても此の度此の経を能く信じて、命終の時千仏の迎いに預り、霊山浄土に走りまいり自受法楽すべし。信心弱くして成仏ののびん時、某(日蓮)をうらみさせ給ふな。譬えば病者に良薬を与ふるに、毒を好んでくひぬれば其の病愈えがたき時、我がとがとは思はず、還つて医師を恨むるが如くなるべし。
 
 此の経の信心と申すは、少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず、法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ。仏に成り候事は別の様は候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば、天然と三十二相八十種好を備うるなり。如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり。譬えば鳥の卵は始は水なり、其の水の中より誰かなすともなけれども、觜よ目よと厳り出来て虚空にかけるが如し。我等も無明の卵にしてあさましき身なれども、南無妙法蓮華経の唱への母にあたためられまいらせて、三十二相の觜出でて八十種好の鎧毛生そろひて実相真如の虚空にかけるべし。爰を以て経に云く「一切衆生は無明の卵に処して智慧の口ばしなし。仏母の鳥は分段同居の古栖に返りて、無明の卵をたたき破りて一切衆生の鳥をすだてて、法性真如の大虚にとばしむ」と説けり取意

 有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし。皆此の経の意なり、私の言にはあらず。されば二の巻には「信を以て入ることを得、己が智分に非ず」とて、智慧第一の舎利弗も但此の経を受け持ち信心強盛にして仏になれり。己が智慧にて仏にならずと説き給へり。舎利弗だにも智慧にては仏にならず。況や我等衆生少分の法門を心得たりとも信心なくば仏にならんことおぼつかなし。末代の衆生は法門を少分こころえ、僧をあなづり、法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり。法をこころえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。今は仏ましまさず、解悟の智識を仏と敬ふべし、争か徳分なからんや。後世を願はん者は名利名聞を捨てて、何に賤しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。是れ正く経文なり。

 今時の禅宗は大段、仁・義・礼・智・信の五常に背けり。有智の高徳をおそれ、老いたるを敬ひ、幼きを愛するは内外典の法なり。然るを彼の僧家の者を見れば、昨日今日まで田夫野人にして黒白を知らざる者も、かちんの直綴をだにも著つれば、うち慢じて・天台真言の有智・高徳の人をあなづり、礼をもせず其の上に居らんと思うなり。是れ傍若無人にして畜生に劣れり。爰を以て伝教大師の御釈に云く、川獺祭魚のこころざし、林烏父祖の食を通ず、鳩鴿三枝の礼あり、行雁連を乱らず、羔羊踞りて乳を飲む。賤き畜生すら礼を知ること是くの如し、何ぞ人倫に於て其の礼なからんやとあそばされたり取意。彼等が法に迷ふ事道理なり。人倫にしてだにも知らず、是れ天魔破旬のふるまひにあらずや。

 是等の法門を能く能く明らめて、一部八巻廿八品を頭にいただき懈らず行ひ給へ。又某を恋しくおはせん時は日日に日を拝ませ給へ、某は日に一度天の日に影をうつす者にて候。此の僧によませまひらせて聴聞あるべし。此の僧を解悟の智識と憑み給いてつねに法門御たづね候べし。聞かずんば争か迷闇の雲を払はん。足なくして争か千里の道を行かんや。返す返す此の書をつねによませて御聴聞あるべし。事事面の次を期し候間・委細には申し述べず候。穴賢穴賢。

  弘安三年二月 日                          日 蓮  花押
新 池 殿

by johsei1129 | 2014-09-11 19:52 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
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