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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 12月 02日

先師日蓮は末法の本仏であるとし、天台沙門を唱える五老僧の浅智を厳然と破折した書「五人所破抄」三

[五人所破抄 本文]その三

一、又五人一同に云く、先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔・之を刻み、弘安帰寂の日も随身せり。何ぞ輙(たやす)く言うに及ばんや云云。
 日興が云く、諸仏の荘厳同じと雖も印契に依つて異を弁ず。如来の本迹は測り難きも眷属を以て之を知る。所以に小乗三蔵の教主は迦葉・阿難を脇士と為し、伽耶始成(がや・しじょう)の迹仏は普賢・文殊左右に在り。此の外の一躰の形像・豈頭陀の応身に非ずや。凡そ円頓の学者は広く大綱を存して網目(もうもく)を事とせず。倩(つらつら)聖人出世の本懐を尋ぬれば、源(も)と権実已過の化導を改め・上行所伝の乗戒を弘めんが為なり。図する所の本尊は亦正像二千の間、一閻浮提の内・未曾有の大漫荼羅なり。今に当つては迹化の教主既に益無し。況んや哆哆婆和(たたばわ)の拙仏(せつぶつ)をや。
 次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛、月を待つ片時の螢光か。執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば・須らく四菩薩を加うべし。敢へて一仏を用ゆること勿(なか)れ云云。

一、又五人一同に云く、富士の立義の体為(ていた)らく・啻(みだり)に法門の異類に擬するのみに匪(あら)ず、剰え神無の別途を構う。既に以て道を失う、誰人か之を信ぜんや。
 日興が云く、我が朝は是れ神明和光の塵・仏陀利生の境なり。然りと雖も今末法に入つて二百余年、御帰依の法は爾前迹門なり。誹謗の国を棄捨するの条は経論の明文にして先師の勘うる所なり。何ぞ善神・聖人の誓願に背き、新たに悪鬼乱入の社壇に詣でんや。但し本門流宣の代、垂迹還住(げんじゅう)の時は尤も上下を撰んで鎮守を定む可し云云。

一、又五人一同に云く、如法・一日の両経は共に以て法華の真文なり。書写・読誦に於ても相違有るべからず云云。
 日興が云く、如法・一日の両経は法華の真文為りと雖も正像転時の往古・平等摂受の修行なり。今末法の代を迎えて折伏の相を論ずれば一部読誦を専らとせず。但五字の題目を唱え、三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責む可き者か。此れ則ち勧持不軽の明文・上行弘通の現証なり。何ぞ必ずしも折伏の時、摂受の行を修すべけんや。但し四悉の廃立・二門の取捨、宜しく時機を守るべし。敢へて偏執(へんしゅう)すること勿(なか)れ云云。

一、又五人の立義・既に二途に分れ戒門に於て持破を論ず云云。
 日興が云く、夫れ波羅提木叉(はらだいぼくしゃ)の用否・行住四威儀の所作、平嶮(へいけん)の時、機に随い・持破に凡聖有り。爾前迹門の尸羅(しら)を論ずれば一向に制禁す可し。法華本門の大戒に於ては何ぞ又依用せざらんや。 但し本門の戒躰・委細の経釈・面を以て決すべし云云。

一、身延の群徒・猥(みだり)に疑難して云く、富士の重科は専ら当所の離散に有り。縦(たと)い地頭・非例を致すとも先師の遺跡を忍ぶべきに、既に御墓に参詣せず。争(いかで)か向背の過罪を遁(のが)れんや云云。
  日興が云く、此の段・顛倒(てんどう)の至極なり。言語に及ばずと雖も未聞の族に仰(おお)せて毒鼓(どっく)の縁を結ばん。夫れ身延興隆の元由は聖人御座の尊貴に依り、地頭発心の根源は日興教化の力用に非ずや。然るを今・下種結縁の最初を忘れて劣謂勝見(れついしょうけん)の僻案(びゃくあん)を起こし、師弟有無の新義を構え、理非顕然(けんねん)の諍論を致す。誠に是れ葉を取つて其の根を乾かし、流を酌(く)んで未だ源を知らざる故か。
 何に況んや慈覚・智証は即ち伝教入室の付弟、叡山住持の祖匠なり。若宮八幡は亦百王鎮護の大神、日域朝廷の本主なり。然りと雖も明神は仏前に於て謗国捨離の願を立て、先聖は慈覚を指して本師違背の仁と称す。若し御廟を守るを正と為さば、円仁所破の段・頗(すこぶ)る高祖の誤謬なり。非例を致して過(とが)無くんば、其の国棄捨の誓い・都(す)べて垂迹の不覚か。料り知んぬ、悪鬼外道の災を作し・宗廟社稷(そうびょう・しゃしょく)の処を辞す。善神聖人の居は即ち正直正法の頂なり。抑(そもそも)身延一沢(いったく)の余流・未だ法水の清濁を分たず、強いて御廟の参否を論ぜば汝等将に砕身の舎利を信ぜんとす。何ぞ法華の持者と号せんや。迷暗尤(もっと)も甚し。
 之に准じて知る可し。伝え聞く、天台大師に三千余の弟子有り。章安朗然として独り之を達す。伝教大師は三千侶の衆徒を安(お)く、義真以後は其れ無きが如し。今・日蓮聖人は万年救護の為に六人の上首を定む。然りと雖も法門既に二途に分れ・門徒亦一准(いちじゅん)ならず。宿習の至り・正師に遇(あ)うと雖も伝持の人・自他弁じ難し。「能く是の法を聴く者・此の人亦復難し」と。「此の言・若し堕ちなば将来悲む可し」と。経文と解釈と宛(あた)かも符契(ふけい)の如し。迹化の悲歎・猶此くの如し。本門の墜堕(だつい)寧ろ愁(うれ)えざらんや。案立若し先師に違わば一身の短慮尤(もっと)も恐れ有り。言う所亦仏意に叶わば五人の謬義(びゅうぎ)甚だ憂う可し。取捨正見に任す、思惟して宜しく解すべし云云。

 此の外・支流異義を構え、諂曲・稍数多(てんごく・やや・あまた)なり。其の中に天目の云く、已前の六人の談は皆以て嘲哢(ちょうろう)すべきの義なり。但し富山宜(よろ)しと雖も亦過失有り。迹門を破し乍ら方便品を読むこと既に自語相違せり。信受すべきに足らず。若し所破の為と云わば弥陀経をも誦すべけんや云云。
 日興が云く、聖人の炳誡(へいかい)の如くんば沙汰の限りに非ずと雖も、慢幢(まんどう)を倒さんが為に粗(ほぼ)一端を示さん。先ず本迹の相違は汝・慥(たしか)に自発するや。去ぬる(正安二年の)比(ころ)、天目・当所に来たって問答を遂ぐるの刻み、日興が立義一々証伏し畢んぬ。若し正見を存せば尤も帰敬を成すべきの処に・還つて方便読誦の難を致す。誠に是れ無慚無愧(むざん・むき)の甚しきなり。夫れ狂言綺語(きょうげんきご)の歌仙を取つて自作に備うる卿相(けいしょう)すら尚短才の耻辱(ちじょく)と為す。況んや終窮究竟(しゅうぐ・くきょう)の本門を盗み、己が徳と称する逆人・争でか無間の大苦を免れんや。照覧・冥に在り、慎まずんばあるべからず。
 次に方便品の疑難に至つては汝・未だ法門の立破を弁ぜず、恣(ほしいまま)に祖師の添加を蔑如す。重科一に非ず・罪業上の如し。若し知らんと欲せば以前の如く富山に詣(もう)で、尤も習学の為・宮仕(みやづかえ)を致す可きなり。
 抑(そもそも)彼等が為に教訓するに非ず、正見に任せて二義を立つ。一には所破の為。二には文証を借るなり。初に所破の為とは純一無雑の序分には且く権乗の得果を挙げ、廃迹顕本の寿量には猶伽耶の近情を明す。此れを以て之を思うに方便称読の元意は只是れ牒破の一段なり。若し所破の為と云わば念仏をも申す可きか等の愚難は誠に四重の興廃に迷い、未だ三時の弘経を知らず。重畳の狂難・嗚呼(おこ)の至極なり。夫れ諸宗破失の基(もとい)は天台伝教の助言にして全く先聖の正意に非ず。何ぞ所破の為に読まざるべけんや。経釈の明鏡・既に日月の如し、天目の暗者邪雲に覆(おお)わるる故なり。次に迹の文証を借りて本の実相を顕すなり。此等の深義は聖人の高意にして浅智の覃(およ)ぶ所に非ず。正機には将に之を伝へんとす云云。

 嘉暦三戊辰年七月草案す 日 順

[五人所破抄 本文] 完。




by johsei1129 | 2019-12-02 22:06 | 日興上人 | Trackback | Comments(0)
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