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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 04日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 下】一

[御義口伝 下 本文]その一

御義口伝巻下

                 日蓮所立 寿量品より開結二経に至る

寿量品二十七箇の大事】
 第一 南無妙法蓮華経 如来寿量品第十六の事  
 文句の九に云く「如来とは、十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり。別しては本地三仏の別号なり。寿量とは詮量(せんりょう)なり。十方三世諸仏の功徳を詮量す。故に寿量品と云う」と。
 御義口伝に云く、此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり。神力品の付属是なり。
 如来とは釈尊、惣じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり。
 今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり。別しては日蓮の弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり。寿量品の事の三大事とは是なり。
 六即の配立(はいりゅう)の時は此の品の如来は理即の凡夫なり。頭(こうべ)に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時・名字即なり。其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり。聞き奉りて修行するは観行即なり。此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり。さて惑障を伏するを相似即と云うなり。化他に出づるを分真即と云うなり。無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり。
 惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず、唯凡夫の当体・本有の儘(まま)を此の品の極理と心得可きなり。無作の三身の所作は何物ぞと云う時、南無妙法蓮華経なり云云。

 第二 如来秘密 神通之力の事
 御義口伝に云く、無作三身の依文(えもん)なり。此の文に於て重重の相伝之有り。神通之力とは、我等衆生の作作発発(ささほつほつ)と振舞う処を神通と云うなり。獄卒の罪人を苛責する音(こえ)も皆神通之力なり。生住異滅の森羅三千の当体・悉く神通之力の体なり。
 今日蓮等の類いの意は、即身成仏と開覚するを如来秘密・神通之力とは云うなり。成仏するより外(ほか)の神通と秘密とは之れ無きなり。此の無作の三身をば一字を以て得たり。所謂信の一字なり。仍(よ)つて経に云く「我等当信受仏語」と。信受の二字に意を留む可きなり。

 第三 我実成仏已来 無量無辺等の事
 御義口伝に云く、我実とは釈尊の久遠実成道なりと云う事を説かれたり。
 然りと雖も当品の意は我とは法界の衆生なり。十界己己を指して我と云うなり。実とは無作三身の仏なりと定めたり。此れを実と云うなり。成とは能成所成なり。成は開く義なり。法界無作の三身の仏なりと開きたり。仏とは此れを覚知するを云うなり。已とは過去なり。来とは未来なり。已来の言の中に現在は有るなり。我実と成(ひら)けたる仏にして、已も来も無量なり無辺なり。百界千如・一念三千と説かれたり。百千の二字は百は百界、千は千如なり。此れ即ち事の一念三千なり。
 今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり。惣じては迹化の菩薩、此の品に手をつけ・いろ(綺)うべきに非ざる者なり。彼は迹表本裏(しゃくひょう・ほんり)、此れは本面迹裏。
 然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか。其の故は此の品は在世の脱益なり。題目の五字計り・当今の下種なり。然れば在世は脱益、滅後は下種なり。仍て下種を以て末法の詮と為す云云。

 第四 如来如実知見 三界之相 無有生死の事
 御義口伝に云く、如来とは三界の衆生なり。此の衆生を寿量品の眼開けてみれば、十界本有(ほんぬ)と実の如く知見せり。三界之相とは生老病死なり。本有の生死とみれば無有生死なり。生死無ければ退出も無し。唯・生死無きに非ざるなり。生死を見て厭離(えんり)するを迷ひと云い・始覚と云うなり。さて本有の生死と知見するを悟(さとり)と云い・本覚と云うなり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時、本有の生死・本有の退出と開覚するなり。
 又云く、無も・有も・生も・死も・若退も・若出も・在世も・滅後も・悉く皆本有常住の振舞なり。無とは法界同時に妙法蓮華経の振舞より外は無きなり。有とは地獄は地獄の有の儘(まま)十界本有の妙法の全体なり。生とは妙法の生なれば随縁なり。死とは寿量の死なれば法界同時に真如なり。若退の故に滅後なり。若出の故に在世なり。されば無死退滅は空なり。有生(うしょう)出在は仮(け)なり。如来如実は中道なり。
 無死退滅は無作の報身なり。有生出在は無作の応身なり。如来如実は無作の法身なり。此の三身は我が一身なり。一身即三身名為秘(みょういひ)とは是なり。三身即一身名為密(みょういみつ)も此の意なり。然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等なり。南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり云云。




by johsei1129 | 2019-11-04 18:09 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)


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