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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 12月 01日

唯受一人本門弘通の大導師と定めた直弟子日興上人に与えられた血脈相承書【法華本門宗血脈相承事】二

 [法華本門宗血脈相承事(本因妙抄) 本文]その二

 文句(もんぐ)の七面の决とは、
 一に依名(えみょう)の一面・其の義上の如し。
 二に感応(かんのう)の一面、三時弘経(ぐきょう)に亘る可し。爾前・迹門の正像二千年弘経の感応より本門末法弘通の感応は真実・真実勝るなり。
 三に四教の一面。
 四に五時の一面。
 五に本迹の一面。
 六に体用(たいゆう)の一面。
 七に入己心の一面。
 悉く皆其の心・前に同じ。智威大師の伝には玄義文句の両部には爾前迹門に各三十重の浅深を以て口决(ぐけつ)し給えり。具(つぶさ)には伝教大師七面决の如し。

 又摩訶止観一部には十重顕観を立てて是を通じ給えり。
 一は待教(たいきょう)立観。爾前・本・迹の三教を破して不思議実理の妙法蓮華経の観を立つ。文に云く「円頓とは初めより実相を縁す」と云云。迹門を理具の一念三千と云う。脱益(だっちゃく)の法華は本迹共に迹なり。本門を事行の一念三千と云う。下種の法華は独一の本門なり。是を不思議実理の妙観と申すなり、
 二に廃教立観。心は権教並びに迹執(しゃくしゅう)を捨て、本門首題の理を取つて事行に用いよとなり、
 三に開教顕観。文に云く「一切諸法は本是(もと・これ)仏法。三諦の理を具するを名けて仏法と為す。云何(いか)んぞ教を除かん」云云。文意は観行理観の一念三千を開して名字事行の一念三千を顕はす。大師の深意・釈尊の慈悲・上行所伝の秘曲(ひきょく)・是なり、
 四に会教顕観(えきょうけんかん)。教相の法華を捨てて観心の法華を信ぜよと。
 五に住不思議顕観。文に云く「理は造作(ぞうさ)に非ず故に天真と曰う。証智円明(しょうちえんみょう)なるが故に独朗と云う」云云、釈の意は口唱(くしょう)首題の理に造作無し。今日熟脱の本迹二門を迹と為し、久遠名字の本門を本と為す。
 信心強盛(ごうじょう)にして唯余念(ただよねん)無く、南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即ち仏身なり。是を天真独朗の即身成仏と名く。

 問うて曰く、前代に此の法門を知れる人之有りや。
 答えて曰く之有り、求めて云く誰人ぞや、示して云く釈尊是なり。
 尋ねて云く、仏を除き奉つて余にも之を知れる人師・論師有りや。
 答えて曰く、天台の云く「天親竜樹・内鑒冷然(ないがんれいねん)・外適時宜(げちゃくじぎ)」と。今日の南無妙法蓮華経は南岳・天台・妙楽・伝教の内鑒冷然・外適時宜なり。内鑒冷然・外適時宜の修行の日は本迹一致なり。有智無智を嫌わず「円頓とは初めより実相に縁す。理は造作に非ず・故に天真と曰う、証智円明の故に独朗と曰う」と云つて理位観行に趣(おもむ)かしめ利益を為し・末法の時を待つ者なり。故に天台云く「但当時大利益を獲(う)るのみに非ず。後五百歳遠く妙道に霑(うるお)う」と云云。
 天台・章安・妙楽・伝教等の大聖は内証は本迹勝劣、外用(げゆう)は本迹一致なり。其の故は教相も観心も相似(そうじ)・観行・解了(げりょう)の人師、時機亦像法なり。付属も亦妄(みだ)りに余人に授く、御身も亦迹化の衆・観音・妙音・文殊・薬王等の化身(けしん)なり。
 今末法は本化の薩埵(さった)たる上行等の出世の境、本門流宣の時尅(じこく)なり。何ぞ理観を用いて事行を修せざらんや。予が所存は内証・外用(げゆう)共に本迹勝劣なり。若し本迹一致と修行せば本門の付属を失う物怪(もっけ)なり。

 本迹の不同は処処に之を書す。然りと雖も宿習・拙(つたな)き者、本迹に迷倒(めいとう)せんか。若し本迹勝劣を知らずんば未来の悪道・最も不便(ふびん)なり。宿業を恥じず還つて予を恨む可きか。我が弟子等の中にも天台伝教の解了の理観を出でず、本迹に就きて一往勝劣・再往一致の謬義(みょうぎ)を存して自他を迷惑せしめんの条・宿習の然らしむる所か。閻浮提第一の秘事(ひじ)為りと雖も万年救護(くご)の為に之を記し留むる者なり。我が未来に於て予が仏法を破らん為に、一切衆生の元品(がんぽん)の大石・第六天の魔王・師子身中の蝗蟲(いなむし)と成つて・名を日蓮に仮りて本迹一致と云う邪義を申し出して多の衆生を当に悪道に引くべし。
 若し道心有らん者は彼等の邪師を捨てて宜しく予が正義に随うべし。正義とは本迹勝劣の深秘・具騰本種(ぐとうほんしゅ)の実理なり。日蓮一期(ご)の大事なれば弟子等にも朝な夕なに教え、亦一期の所造等悉く此の義なり。然りと雖も迹執を出でず、或は軽 見惑 或は蔑(べつ) 思惑 或は癡(ち) 塵沙惑 或は迷(めい) 無明惑、故に日蓮が立義を用いざるか。予が教相・観心は理即・名字・愚悪愚見の為なり。

 日蓮は名字即の位、弟子檀那は理即の位なり。上行所伝・結要付属(けっちょうふぞく)の行儀は教観判乗・皆名字即(かいみょうじそく)・五味の主の修行なり。故に教相の次第・要用に依る可し。唯大綱(たいこう)を存する時は、余は網目を事とせず。彼は網目、此れは大綱。彼は網目の教相の主、此れは大綱首題の主。恐くは日蓮の行儀には天台伝教も及ばず、何に況んや他師の行儀に於てをや。唯在世八箇年の儀式を移して滅後末法の行儀と為す。然りと雖も仏は熟脱の教主、某(それがし)は下種の法主なり。彼の一品二半は舎利弗等の為には観心たり、我等・凡夫の為には教相たり。理即短妄(たんもう)の凡夫の為の観心は、余行に渡らざる南無妙法蓮華経是なり。
 是くの如く深義を知らざる僻人(びゃくにん)出来(しゅったい)して予が立義は教相辺外(はずれ)と思う可き者なり。此等は皆宿業の拙(つたな)き修因感果の至極せるなるべし。彼の天台大師には三千人の弟子ありて章安一人朗然(ろうねん)なり。伝教大師は三千人の衆徒を置く。義真已後は其れ無きが如し。今以て此くの如し。数輩(すうはい)の弟子有りと雖も・疑心無く正義を伝うる者は希(まれ)にして一二の小石の如し。秘す可きの法門なり。



by johsei1129 | 2019-12-01 18:33 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)


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