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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 09月 01日

法華経の法門の修行方法を解き明かした書【薬王品得意抄】

【薬王品得意抄(やくおうほんとくいしょう】
■出筆時期:文永二年 (西暦1265年) 四十四歳御作      
■出筆場所:鎌倉
■出筆の経緯:富士上野郷の地頭で、熱原の法難の時は法華衆の頭領として、大聖人の弟子・及び在家信徒の庇護に務めた上野時光の妻で、時光と共に強情な信仰を貫いた夫人に与えられた書。法華経の法門の修行方法を記した『薬王菩薩本事品第二十三』の意味を詳しく解き明かしている。
■ご真筆: 御正筆 保田妙本寺(千葉県)、他数カ所に分散されて所蔵。時代写本:日時上人筆(富士大石寺所蔵)
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[真筆本文:下記緑字箇所]

[薬王品得意抄 本文]

 此の薬王品の大意とは此の薬王品は第七の巻二十八品の中には第二十三の品なり、此の第一巻に序品方便品の二品有り序品は二十八品の序なり、方便品より人記品に至るまで八品は正には二乗作仏を明し傍には菩薩凡夫の作仏を明かす、法師・宝塔・提婆・勧持・安楽の五品は上の八品を末代の凡夫の修行す可き様を説くなり、又涌出品は寿量品の序なり、分別功徳品より十二品は正には寿量品を末代の凡夫の行ず可き様を・傍には方便品等の八品を修行す可き様を説くなり、然れば此の薬王品は方便品等の八品並びに寿量品を修行す可き様を説きし品なり。

 此の品に十の譬有り、第一大海の譬、先ず第一の譬を粗申す可し、此の南閻浮提に二千五百の河あり、西倶耶尼(さいくやに)に五千の河あり総じて此の四天下に二万五千九百の河あり、或は四十里乃至百里・一里・一町・一尋(ひろ)等の河之有り、然りと雖も此の諸河は総じて深浅の事大海に及ばず、法華已前の華厳経・阿含経・方等経・般若経・深密経・阿弥陀経・涅槃経・大日経・金剛頂経・蘇悉地経・密厳経等の釈迦如来の所説の一切経・大日如来の所説の一切経・阿弥陀如来の所説の一切経・薬師如来の所説の一切経・過去・現在・未来三世の諸仏所説の一切経の中に法華経第一なり、譬えば諸経は大河・中河・小河等の如し、法華経は大海の如し等と説くなり、河に勝れたる大海に十の徳有り、一に大海は漸次に深し河は爾からず、二に大海は死屍(しし)を留めず河は爾らず、三に大海は本の名字を失う河は爾らず、四に大海は一味なり河は爾らず、五に大海は宝等有り河は爾らず、六に大海は極めて深し河は爾らず、七に大海は広大無量なり河は爾らず、八に大海は大身の衆生等有り河は爾らず、九に大海は潮の増減有り河は爾らず、十に大海は大雨・大河を受けて盈溢(よういつ)無し河は爾らず。

 此の法華経には十の徳有り、諸経には十の失有り、此の経は漸次深多にして五十展転なり諸経には猶一も無し況や二三四乃至五十展転をや、河は深けれども大海の浅きに及ばず諸経は一字・一句・十念等を以て十悪・五逆等の悪機を摂すと雖も未だ一字一句の随喜五十展転には及ばざるなり、此の経の大海に死屍を留めずとは法華経に背く謗法の者は極善の人為りと雖も猶之を捨つ何に況や悪人なる上・謗法を為さん者をや、設い諸経を謗ずと雖も法華経に背かざれば必ず仏道を成ず、設い一切経を信ずと雖も法華経に背かば必ず阿鼻大城に堕つ、乃至第八には大海は大身の衆生あり等と云うは大海には摩竭大魚(まかつたいぎょ)等大身の衆生之有り、無間地獄と申すは縦広八万由旬なり五逆の者無間地獄に堕ちては一人にて必ず充満す、此の地獄の衆生は五逆の者大身の衆生なり、諸経の小河大河の中には摩竭大魚之無し法華経の大海には之有り、五逆の者仏道を成す是れ実には諸経に之無し諸経に之有りと云うと雖も実には未顕真実なり。

故に一代聖教を諳(そらんぜ)し天台智者大師の釈に云く、他経は但菩薩に記して二乗に記せず乃至但善に記して悪に記せず、今経は皆記す等云云、余は且く之を略す。
第二には山に譬う、十宝山等とは、山の中には須弥山(しゅみせん)第一なり、十宝山とは一には雪山(せっせん)・二には香山(こうせん)・三には軻梨羅山(かりらせん)・四には仙聖山(せんしょうせん)・五には由乾陀山(ゆげんだせん)・六には馬耳山(めにせん)・七には尼民陀羅山(にみんだらせん)・八には斫伽羅山(しゃからせん)・九には宿慧山(しゅくえせん)・十には須弥山なり、先の九山とは諸経諸山の如し、但し一一に財あり須弥山は衆財を具して其の財に勝れたり、例せば世間の金の閻浮檀金に及ばざるが如し、華厳経の法界唯心・般若の十八空・大日経の五相成身・観経の往生より法華経の即身成仏勝れたるなり、須弥山は金色なり、一切の牛馬・人天・衆鳥等此の山に依れば必ず本色を失つて金色なり余山は爾らず一切の諸経は法華経に依れば本の色を失う例せば黒色の物の日月の光に値えば色を失うが如し、諸経の往生成仏等の色は法華経に値えば必ず其の義を失う。

 第三には月に譬う、衆星は或は半里或は一里或は八里或は十六里には過ぎず、月は八百余里なり衆星は光有りと雖も月に及ばず、設い百千万億乃至一四天下・三千大千・十方世界の衆星之を集むとも一の月の光に及ばず、何に況や一の星月の光に及ぶ可きや、華厳経・阿含経・方等・般若・涅槃経・大日経・観経等の一切の経之を集むとも法華経の一字に及ばじ、一切衆生の心中の見思塵沙無明(けんじ・じんじゃ・むみょう)の三惑並に十悪五逆等の業は暗夜のごとし、華厳経等の一切経は闇夜の星のごとし、法華経は闇夜の月のごとし、法華経を信ずれども深く信ぜざる者は半月の闇夜を照すが如し、深く信ずる者は満月の闇夜を照すが如し、月無くして但星のみ有る夜には強力(ごうりき)の者かたましき者なんどは行歩すといへども、老骨の者女人なむどは行歩に叶わず、満月の時は女人老骨なむども、或は遊宴のため或は人に値わんが如き行歩自在なり、諸経には菩薩・大根性の凡夫は設い得道なるとも二乗・凡夫・悪人・女人乃至・末代の老骨の懈怠(けたい)・無戒の人人は往生成仏不定なり、法華経は爾らず、二乗・悪人・女人等・猶仏に成る何に況や菩薩・大根性の凡夫をや、又月はよいよりも暁は光まさり・春夏よりも秋冬は光あり、法華経は正像二千年よりも末法には殊に利生有る可きなり、問うて云く証文如何、答えて云く道理顕然なり、其の上次ぎ下の文に云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無し」等云云、此の経文に二千年の後南閻浮提に広宣流布すべしと・とかれて候は・第三の月の譬の意なり、此の意を根本伝教大師釈して云く「正像稍過ぎ已て末法太だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」等云云、正法千年も像法千年も法華経の利益諸経に之れ勝る可し、然りと雖も月の光の春夏の正像二千年、末法の秋冬に至つて光の勝るが如し。

 第四に日の譬は星の中に月の出でたるは星の光には月の光は勝るとも未だ星の光を消さず、日中には星の光消ゆるのみに非ず又月の光も奪いて光を失う、爾前は星の如く法華経の迹門は月の如し寿量品は日の如し、寿量品の時は迹門の月未だ及ばず何に況や爾前の星をや、夜は星の時月の時も衆務を作さず、夜暁(あけ)て必ず衆務を作す、爾前迹門にして猶生死を離れ難し本門寿量品に至つて必ず生死を離る可し、余の六譬之を略す、此の外に又多くの譬此の品に有り、其の中に渡りに船を得たるが如しと、此の譬の意は生死の大海には爾前の経は或は筏(いかだ)或は小船なり、生死の此岸(しがん)より生死の彼岸(ひがん)には付くと雖も、生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとつきがたし、例せば世間の小船等が筑紫より坂東(ばんどう)に至り鎌倉よりい(江)の嶋なんどへとつけども唐土へ至らず、唐船(からふね)は必ず日本国より震旦国に至るに障り無きなり又云く「貧きに宝を得たるが如し」等云云、爾前の国は貧国なり、爾前の人は餓鬼なり、法華経は宝の山なり、人は富人なり。

問うて云く爾前は貧国といふ経文如何、答えて云く授記品に云く「飢えたる国より来つて忽ちに大王の膳に遇へるが如く」等云云、女人の往生成仏の段は経文に云く「若し如来の滅後・後の五百歳の中に若し女人有つて是の経典を聞いて説の如く修行せば此に於て命終して即ち安楽世界・阿弥陀仏の菩薩・大衆に囲遶(いにょう)せられて住する処に往いて蓮華の中宝座の上に生じ」等云云。

 問うて曰く此の経・此の品に殊に女人の往生を説く何の故か有るや、答えて曰く仏意測り難し此の義決し難きか、但し一の料簡を加えば女人は衆罪の根本破国の源なり、故に内典・外典に多く之を禁(いま)しむ、其の中に外典を以て之を論ずれば三従あり三従と申すは三したがうと云ふなり、一には幼にしては父母に従う、嫁して夫に従う、老いて子に従う、此の三障有りて世間自在ならず、内典を以て之を論ずれば五障有り、五障とは一には六道輪回の間男子の如く大梵天王と作らず、二には帝釈と作らず、三には魔王と作らず、四には転輪聖王と作らず、五には常に六道に留まりて三界を出でて仏に成らず、超日月三昧経の文なり、銀色女経に云く「三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも法界の諸の女人は永く成仏の期無し」等云云、但し凡夫すら賢王・聖人は妄語せず、はんよき(樊於期)といゐし者はけいか(荊軻)に頚(くび)をあたい、きさつ(季札)と申せし人は徐君(じょくん)が塚に剣をかけたりき、これ約束を違えず妄語無き故なり、何に況や声聞・菩薩・仏をや、仏は昔凡夫にてましましし時小乗経を習い給いし時、五戒を受け始(そ)め給いき、五戒の中の第四の不妄語の戒を固く持ち給いき、財を奪われ命をほろぼされし時も此の戒をやぶらず、大乗経を習い給いし時又十重禁戒を持ち其の十重禁戒の中の第四の不妄語戒を持ち給いき、此の戒を堅く持ちて無量劫(こう)之を破りたまわず、終に此の戒力に依て仏身を成じ三十二相の中に広長舌相を得たまえり、此の舌うすくひろくながくして或は面にををい或は髪際にいたり或は梵天にいたる、舌の上に五の画あり印文のごとし、其の舌の色は赤銅のごとし、舌の下に二の珠あり甘露を涌出す、此れ不妄語戒の徳の至す所なり、仏此の舌を以て三世の諸仏の御眼は大地に落つとも法界の女人は仏になるべからずと説かれしかば一切の女人は何なる世にも仏には成らせ給うまじきとこそ覚えて候へ、さるにては女人の御身も受けさせ給いては設ひ后(きさき)三公の位にそなはりても何かはすべき、善根・仏事をなしてもよしなしとこそ覚え候へ、而るを此の法華経の薬王品に女人の往生をゆるされ候ぬる事又不思議に候、彼の経の妄語か此の経の妄語か、いかにも一方は妄語たるべきか、若し又一方妄語ならば一仏に二言あり信じ難し、但し無量義経の四十余年には未だ真実を顕さず、涅槃(ねはん)経の如来には虚妄の言無しと雖も若し衆生虚妄の説に因ると知しめすの文を以て之を思えば、仏は女人は往生成仏すべからずと説かせ給いけるは妄語と聞えたり、妙法華経の文に世尊の法は久くして後に要(かなら)ず当に真実を説くべし、妙法華経乃至皆是真実と申す文を以て之を思うに、女人の往生成仏決定(けつじょう)と説かるる法華経の文は実語不妄語戒と見えたり、世間の賢人も但一人ある子が不思議なる時或は失(とが)ある時は永く子為(た)るべからざるの理・起請を書き或は誓言を立ると雖も命終の時に臨めば之を許す、然りと雖も賢人に非ずと云わず又妄語せる者とも云わず、仏も亦是くの如し、爾前(にぜん)四十余年が間は菩薩の得道凡夫の得道・善人・男子等の得道をば許すやうなれども、二乗・悪人・女人なんどの得道此れをば許さず或は又許すににたる事もあり、いまだ定めがたかりしを仏の説教・四十二年すでに過ぎて八年が間・摩謁提国(まかだこく)王舎城・耆闍崛山(ぎしゃくっせん)と申す山にして法華経を説かせ給うとおぼせし時、先づ無量義経と申す経を説かせ給ふ無量義経の文に云く四十余年云云。
                                            
日 蓮 花押

by johsei1129 | 2019-09-01 17:24 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
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