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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 08月 31日

法華経二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品であると説いた書【月水御書i二

[月水御書 本文]その二  英語版

 されば此の御消息を拝し候へば、優曇華(うどんげ)を見たる眼よりもめづらしく、一眼の亀の浮木の穴に値へるよりも乏(すくな)き事かなと、心ばかりは有がたき御事に思いまいらせ候間、一言・一点も随喜の言を加えて善根の余慶にもやと・はげみ候へども、只恐らくは雲の月をかくし、塵の鏡をくもらすが如く、短く拙き言にて殊勝にめでたき御功徳を申し隠し・くもらす事にや候らんといたみ思ひ候ばかりなり。然りと云えども貴命もだすべきにあらず。一滴を江海に加へ、爝火(しゃっか)を日月にそへて水をまし・光を添ふると思し食すべし。
 先(まず)法華経と申すは八巻・一巻・一品・一偈・一句・乃至・題目を唱ふるも功徳は同じ事と思し食すべし。譬えば大海の水は一滴なれども無量の江河の水を納めたり。如意宝珠は一珠なれども万宝をふらす。百千万億の滴珠も又これ同じ。法華経は一字も一の滴珠の如し、乃至万億の字も又万億の滴珠の如し。諸経・諸仏の一字一名号は江河の一滴の水・山海の一石の如し。一滴に無量の水を備えず、一石に無数の石の徳をそなへもたず。若し然らば此の法華経は何れの品にても御坐しませ、只御信用の御坐(おわ)さん品こそ・めづらしくは候へ。

 総じて如来の聖教は何れも妄語の御坐すとは承り候はねども、再び仏教を勘えたるに、如来の金言の中にも大小・権実・顕密なんど申す事・経文より事起りて候。随つて論師・人師の釈義にあらあら見えたり。詮を取つて申さば釈尊の五十余年の諸教の中に先四十余年の説教は猶うたがはしく候ぞかし。仏自ら無量義経に「四十余年未だ真実を顕さず」と申す経文まのあたり説かせ給へる故なり。法華経に於ては仏自ら一句の文字を「正直に方便を捨てて但だ無上道を説く」と定めさせ給いぬ。其の上・多宝仏・大地より涌出でさせ給いて「妙法華経・皆是真実」と証明を加へ、十方の諸仏・皆法華経の座にあつまりて舌を出して法華経の文字は一字なりとも妄語なるまじきよし助成を・そへ給へり。譬えば大王と后と長者等の一味同心に約束をなせるが如し。
 若し法華経の一字をも唱えん男女等、十悪・五逆・四重等の無量の重業に引かれて悪道におつるならば、日月は東より出でさせ給はぬ事はありとも、大地は反覆する事はありとも、大海の潮はみちひぬ事はありとも、破(われ)たる石は合うとも、江河の水は大海に入らずとも、法華経を信じたる女人の世間の罪に引かれて悪道に堕つる事はあるべからず。若し法華経を信じたる女人、物をねたむ故・腹のあしきゆへ・貪欲の深きゆへなんどに引れて悪道に堕つるならば、釈迦如来・多宝仏・十方の諸仏・無量曠劫(こうごう)よりこのかた・持ち来り給へる不妄語戒忽に破れて調達(ちょうだつ)が虚誑罪(こおうざい)にも勝れ、瞿伽利(くぎゃり)が大妄語にも超えたらん。争か・しかるべきや。
 法華経を持つ人、憑(たのも)しく有りがたし。但し一生が間・一悪をも犯さず、五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・無量の戒を持ち、一切経をそらに浮べ、一切の諸仏・菩薩を供養し無量の善根をつませ給うとも、法華経計りを御信用なく又御信用はありとも諸経・諸仏にも並べて思し食し、又並べて思し食さずとも他の善根をば隙(ひま)なく行じて時時・法華経を行じ、法華経を用ひざる謗法の念仏者なんどにも語らひをなし、法華経を末代の機に叶はずと申す者を科とも思し食さずば・一期の間・行じさせ給う処の無量の善根も忽にうせ、並に法華経の御功徳も且く隠れさせ給いて、阿鼻大城に堕ちさせ給はん事・雨の空にとどまらざるが如く、峰の石の谷へころぶが如しと思し食すべし。十悪・五逆を造れる者なれども法華経に背く事なければ往生成仏は疑ひなき事に侍り。一切経をたもち諸仏・菩薩を信じたる持戒の人なれども、法華経を用る事無ければ・悪道に堕つる事疑なしと見えたり。

[月水御書 本文]その三に続く




by johsei1129 | 2019-08-31 20:08 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)


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