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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 29日

妙法蓮華経の"蓮"とは『諸法は非有非無にて本性常住不滅なる事を意味すると明した書【十八円満抄】

【十八円満抄(じゅうはちえんまんしょう】
■出筆時期:弘安三年十一月三日(西暦1280年)五十九歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵
■出筆の経緯:元天台宗の学僧で佐渡にて大聖人の弟子になった最蓮房からの法門への問いに応えるべく認められた書。十八円満の法門について詳細に説き明かされている。
■ご真筆: 現存していない。

[十八円満抄 本文]

日蓮之を記す 問うて云く十八円満の法門の出処如何、答えて云く源・蓮の一字より起れるなり、問うて云く此の事所釈に之を見たりや、答えて云く伝教大師の修禅寺相伝の日記に之在り此法門は当世天台宗の奥義(おくぎ)なり秘すべし秘すべし。

問うて云く十八円満の名目如何、答えて云く一に理性円満・二に修行円満・三に化用(けゆう)円満・四に果海円満・五に相即円満・六に諸教円満・七に一念円満・八に事理円満・九に功徳円満・十に諸位円満・十一に種子円満・十二に権実円満・十三に諸相円満・十四に俗諦円満・十五に内外(ないげ)円満・十六に観心円満・十七に寂照円満・十八に不思議円満已上。

  問うて云く意如何、答えて云く此の事伝教大師の釈に云く次に蓮の五重玄とは蓮をば華因成果(けいんじょうか)の義に名く、蓮の名は十八円満の故に蓮と名く、一に理性円満謂く万法悉く真如法性(しんにょほっしょう)の実理に帰す実性の理に万法円満す故に理性を指して蓮と為す、二に修行円満謂く有相(うそう)・無相の二行を修して万行円満す故に修行を蓮と為す、三に化用円満謂く心性の本理に諸法の因分有り此の因分に由つて化他の用を具す故に蓮と名く、四に果海円満とは諸法の自性を尋ねて悉く本性を捨て無作(むさ)の三身を成す法として無作の三身に非ること無し故に蓮と名く、五に相即円満謂く煩悩の自性全く菩提にして一体不二の故に蓮と為す、六に諸教円満とは諸仏の内証の本蓮に諸教を具足して更に闕減(けつげん)なきが故に、七に一念円満謂く根塵(こんじん)相対して一念の心起るに三千世間を具するが故に、八に事理円満とは一法の当体而二不二にして闕減無く具足するが故に、九に功徳円満謂く妙法蓮華経に万行の功徳を具して三力の勝能有るが故に、十に諸位円満とは但だ一心を点ずるに六即円満なるが故に、十一に種子円満とは一切衆生の心性に本(もと)より成仏の種子を具す・権教は種子円満無きが故に・皆成仏道の旨を説かず故に蓮の義無し、十二に権実円満謂く法華実証の時は実に即して而かも権・権に即して而かも実・権実相即して闕減無き故に円満の法にして既に三身を具するが故に諸仏常に法を演説す、十三に諸相円満謂く一一の相の中に皆八相を具して一切の諸法常に八相を唱う、十四に俗諦円満謂く十界・百界乃至三千の本性常住不滅なり本位を動せず当体即理の故に、十五に内外円満謂く非情の外器(げき)に内の六情を具す有情数の中に亦非情を具す、余教は内外円満を説かざるが故に草木成仏すること能(あた)わず草木非成仏の故に亦蓮と名けず十六に観心円満とは六塵六作(ろくじんろくさ)常に心相を観ず更に余義に非るが故に、十七に寂照円満とは文に云く法性寂然なるを止と名く寂にして而かも常に照すを観と名くと、十八に不思議円満謂く細(くわ)しく諸法の自性を尋ねるに非有非無にして諸の情量を絶して亦三千三観並びに寂照等の相無く大分の深義本来不思議なるが故に名けて蓮と為るなり、此の十八円満の義を以て委(くわし)く経意を案ずるに今経の勝能並に観心の本義良(まこ)とに蓮の義に由る、二乗・悪人草木等の成仏並びに久遠塵点等は蓮の徳を離れては余義有ること無し、座主の伝に云く玄師の正決を尋ねるに十九円満を以て蓮と名く所謂当体円満を加う、当体円満とは当体の蓮華なり謂く諸法自性清浄にして染濁を離るるを本より蓮と名く、一経の説に依るに一切衆生の心(むね)の間に八葉の蓮華有り男子は上に向い女人は下に向う、成仏の期に至れば設い女人なりと雖も心(むね)の間の蓮華速かに還りて上に向う、然るに今の蓮仏意に在るの時は本性清浄当体の蓮と成る、若し機情に就いては此の蓮華譬喩の蓮と成る。
次に蓮の体とは体に於て多種有り、一には徳体の蓮謂く本性の三諦を蓮の体と為す、二には本性の蓮体三千の諸法本(もと)より已来(このかた)当体不動なるを蓮の体と為す、三には果海真善の体一切諸法は本(もと)是れ三身にして寂光土に住す設い一法なりと雖も三身を離れざる故に三身の果を以て蓮の体と為す、四には大分真如の体謂く不変・随縁の二種の真如を並びに証分の真如と名く本迹寂照等の相を分たず諸法の自性不可思議なるを蓮の体と為す。

 次に蓮の宗とは果海の上の因果なり、和尚の云く六即の次位は妙法蓮華経の五字の中には正しく蓮の字に在り蓮門の五重玄の中には正しく蓮の字より起る、所以何ん理即は本性と名く本性の真如・理性円満の故に理即を蓮と名け果海本性の解行証の位に住するを果海の次位と名く、智者大師自解仏乗の内証を以て明に経旨を見給うに蓮の義に於て六即の次位を建立し給えり故に文に云く此の六即の義は一家より起れりと、然るに始覚の理に依て在纒真如(ざいてんしんにょ)を指して理即と為し妙覚の証理を出纒(しゅってん)真如と名く、正く出纒の為めに諸の万行を修するが故に法性の理の上の因果なり、故に亦蓮の宗と名く、蓮に六の勝能有り一には自性清浄にして泥濁に染まず理即、二には華(け)・台(だい)・実(じつ)の三種具足して減すること無し名字即・諸法即是れ三諦と解了するが故に、三には初め種子より実を成ずるに至るまで華・台・実の三種相続して断ぜず観行即・念念相続して修し廃するなき故に、四には華葉の中に在つて未熟の実真の実に似たり相似即、五には花開き蓮現ず分真即、六には花落ちて蓮成ず究竟即、此の義を以ての故に六即の深義は源・蓮の字より出でたり。

  次に蓮の用とは六即円満の徳に由つて常に化用(けゆう)を施すが故に。
 
 次に蓮の教とは本有の三身果海の蓮性に住して常に浄法を説き八相成道し四句成利(じょうり)す、和尚云く証道の八相は無作三身の故に四句の成道は蓮教の処に在り只無作三身を指して本覚の蓮と為す、此の本蓮に住して常に八相を唱へ常に四句の成道を作す故なり已上、修禅寺相伝の日記之をみるに妙法蓮華経の五字に於て各各五重玄なり蓮の字の五重玄義・此くの如し余は之を略す日蓮案じて云く此の相伝の義の如くんば万法の根源、一心三観・一念三千・三諦・六即・境智の円融・本迹の所詮源(みなもと)蓮の一字より起る者なり云云。

 問うて云く総説の五重玄とは如何、答えて云く総説の五重玄とは妙法蓮華経の五字即五重玄なり、妙は名・法は体・蓮は宗・華は用・経は教なり、又総説の五重玄に二種有り一には仏意(ぶっち)の五重玄・二には機情の五重玄なり。

  仏意の五重玄とは諸仏の内証に五眼の体を具する即ち妙法蓮華経の五字なり、仏眼(ぶつげん)は妙・法眼は法・慧眼は蓮・天眼は華・肉眼は経なり、妙は不思議に名く故に真空冥寂(しんくうみょうじゃく)は仏眼なり、法は分別に名く法眼は仮なり分別の形なり、慧眼は空なり果の体は蓮なり、華は用なる故に天眼と名く神通化用(じんつうけゆう)なり、経は破迷の義に在り迷を以て所対と為す故に肉眼と名く、仏智の内証に五眼を具する即ち五字なり五字又五重玄なり故に仏智の五重玄と名く、亦五眼即五智なり、法界体性智(ほうかいたいしょうち)は仏眼・大円鏡智は法眼・平等性智は慧眼・妙観察智は天眼・成所作智(じょうしょさち)は肉眼なり、問う一家には五智を立つるや、答う既に九識を立つ故に五智を立つべし、前の五識は成所作智・第六識は妙観察智・第七識は平等性智・第八識は大円鏡智・第九識は法界体性智なり。

 次に機情の五重玄とは機の為に説く所の妙法蓮華経は即ち是れ機情の五重玄なり首題の五字に付いて五重の一心三観有り、伝に云く、

  妙 不思議の一心三観 天真独朗の故に不思議なり。
  法 円融の一心三観 理性円融なり総じて九箇を成す。
 蓮 得意の一心三観 果位なり。
 華 複疎(ふくそ)の一心三観 本覚の修行なり。
 経 易解(いげ)の一心三観 教談なり。

玄文の第二に此の五重を挙ぐ文に随つて解すべし、不思議の一心三観とは智者己証の法体・理非造作(ひりぞうさ)の本有の分なり三諦の名相無き中に於て強いて名相を以つて説くを不思議と名く、円融とは理性法界の処に本より已来(このかた)三諦の理有り互に円融して九箇と成る、得意とは不思議と円融との三観は凡心の及ぶ所に非ず但だ聖智の自受用(じじゅゆう)の徳を以て量知すべき故に得意と名く、複疎とは無作の三諦は一切法に遍して本性常住(ほんしょうじょうじゅう)なり理性の円融に同じからず故に複疎と名く、易解とは三諦円融等の義知り難き故に且らく次第に附して其の義を分別す故に易解と名く、此れを附文の五重と名く、次に本意に依て亦五重の三観有り、一に三観一心入寂門の機、二に一心三観入照門の機、三に住果還の一心三観・上の機有りて知識の一切の法は皆是れ仏法なりと説くを聞いて真理を開す入真已後(にゅうしんいご)観を極めんが為に一心三観を修す、四に為果行因(いかぎょういん)の一心三観謂く果位究竟の妙果を聞いて此の果を得んが為に種種の三観を修す、五に付法の一心三観・五時八教等の種種の教門を聞いて此の教義を以て心に入れて観を修す故に付法と名く、山家(さんけ)の云く塔中の言なり亦立行相を授く三千三観の妙行を修し解行の精微(せいび)に由つて深く自証門に入る我汝が証相を領するに法性寂然なるを止(し)と名け寂にして常に照すを観と名くと。

問うて云く天真独朗の止観の時・一念三千・一心三観の義を立つるや、答えて云く両師の伝不同なり、座主の云く天真独朗とは一念三千の観是なり、山家師の云く一念三千而も指南と為す一念三千とは一心より三千を生ずるにも非ず一心に三千を具するにも非ず並立にも非ず次第にも非ず故に理非造作(ひりぞうさ)と名く、和尚の云く天真独朗に於ても亦多種有り乃至迹中に明す所の不変真如も亦天真なり、但し大師本意の天真独朗とは三千三観の相を亡し一心一念の義を絶す此の時は解(げ)無く行(ぎょう)無し教行証(きょうぎょうしょう)の三箇の次第を経るの時・行門に於て一念三千の観を建立す、故に十章の第七の処に於て始めて観法を明す是れ因果階級の意なり、大師内証の伝の中に第三の止観には伝転の義無しと云云、故に知んぬ証分の止観には別法を伝えざることを、今止観の始終に録する所の諸事は皆是れ教行の所摂にして実証の分に非ず、開元符州(かいげんふしゅう)の玄師相伝に云く言を以て之を伝うる時は行証共に教と成り心を以て之を観ずる時は教証は行の体と成る、証を以て之を伝うる時は教行亦不可思議なりと、後学此の語に意を留めて更に忘失(もうしつ)すること勿(なか)れ、宛(あた)かも此の宗の本意・立教の元旨なり和尚の貞元(じょうげん)の本義源(もと)此れより出でたるなり。

 問うて云く天真独朗の法・滅後に於て何れの時か流布せしむべきや、答えて云く像法に於て弘通すべきなり、問うて云く末法に於て流布の法の名目如何、答えて云く日蓮の己心相承の秘法此の答に顕すべきなり所謂南無妙法蓮華経是なり、問うて云く証文如何、答えて云く神力品に云く「爾の時・仏・上行等の菩薩に告げたまわく要を以て之を言わば乃至宣示顕説す」云云、天台大師云く「爾時仏告上行の下は第三結要(けっちょう)付属なり」又云く「経中の要説・要は四事に在り総じて一経を結するに唯四ならくのみ其の枢柄(すうへい)を撮(と)つて之を授与す」問うて云く今の文は上行菩薩等に授与するの文なり汝何んが故ぞ己心相承の秘法と云うや、答えて云く上行菩薩の弘通し給うべき秘法を日蓮先き立つて之を弘む、身に当るの意に非ずや上行菩薩の代官の一分なり、所詮末法に入つて天真独朗の法門無益なり助行には用ゆべきなり正行には唯南無妙法蓮華経なり、伝教大師云く「天台大師は釈迦に信順して法華宗を助けて震旦(しんたん)に敷揚(ふよう)し叡山の一家は天台に相承して法華宗を助けて日本に弘通す」今日蓮は塔中相承(たっちゅうそうじょう)の南無妙法蓮華経の七字を末法の時・日本国に弘通す是れ豈時国相応の仏法に非ずや、末法に入つて天真独朗の法を弘めて正行と為さん者は必ず無間大城に墜ちんこと疑無し、貴辺年来の権宗を捨てて日蓮が弟子と成り給う、真実・時国相応の智人なり総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給え智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき所詮時時念念に南無妙法蓮華経と唱うべし。

 上に挙ぐる所の法門は御存知為りと雖も書き進らせ候なり、十八円満等の法門能く能く案じ給うべし並びに当体蓮華の相承等日蓮が己証の法門等前前(さきざき)に書き進らせしが如く委くは修禅寺相伝日記の如し天台宗の奥義之に過ぐべからざるか、一心三観・一念三千の極理は妙法蓮華経の一言を出でず敢て忘失すること勿れ敢て忘失すること勿れ、伝教大師云く「和尚慈悲有つて一心三観を一言に伝う」玄旨伝に云く「一言の妙旨なり一教の玄義なり」と云云、寿量品に云く「毎(つね)に自ら是の念を作す何を以てか衆生をして無上道に入り速(すみやか)に仏身を成就することを得せしめん」と云云、毎自作是念の念とは一念三千生仏本有(しょうぶつほんぬ)の一念なり、秘す可し秘す可し、恐恐謹言。

弘安三年十一月三日               日蓮 花押
最蓮房に之を送る





by johsei1129 | 2019-11-29 20:03 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
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