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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 09月 15日

法華経は一代聖教の肝心八万法蔵の拠り所と明かした書【善無畏三蔵抄】五

[善無畏三蔵抄 本文]その五

 而るを日蓮は安房(あわ)の国・東条の郷・清澄山(きよすみさん)の住人なり。幼少の時より虚空蔵(こくうぞう)菩薩に願を立てて云く、日本第一の智者となし給へと云云。虚空蔵菩薩・眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき。其のしるしにや、日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗等の大綱・粗伺(ほぼうかが)ひ侍りぬ。殊には建長五年の比より今文永七年に至るまで、此の十六七年の間・禅宗と念仏宗とを難ずる故に禅宗・念仏宗の学者、蜂の如く起り・雲の如く集る。是をつ(詰)むる事・一言二言には過ぎず。結句は天台・真言等の学者、自宗の廃立(はいりゅう)を習ひ失いて我が心と他宗に同じ在家の信をなせる事なれば、彼の邪見の宗を扶けんが為に、天台・真言は念仏宗・禅宗に等しと料簡(りょうけん)しなして日蓮を破するなり。此れは日蓮を破する様なれども、我と天台・真言等を失ふ者なるべし。能く能く恥ずべき事なり。

 此の諸経・諸論・諸宗の失を弁うる事は虚空蔵菩薩の御利生(ごりしょう)・本師道善御房の御恩なるべし。亀魚(かめ)すら恩を報ずる事あり、何(いか)に況(いわん)や人倫をや。此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め、道善御房を導き奉らんと欲す。而るに此の人・愚癡(ぐち)におはする上念仏者なり。三悪道を免るべしとも見えず。而も又日蓮が教訓を用ふべき人にあらず。然れども文永元年十一月十四日・西条華房(せいじょう・はなふさ)の僧坊にして見参に入りし時、彼の人の云く、我・智慧なければ請用(しょうゆう)の望みもなし。年老いて・いらへ(綵)なければ念仏の名僧をも立てず、世間に弘まる事なれば唯(ただ)南無阿弥陀仏と申す計りなり。又我が心より起らざれども・事の縁有つて阿弥陀仏を五体まで作り奉る。是れ又過去の宿習なるべし。此の科(とが)に依つて地獄に堕つべきや等云云。
 爾の時に日蓮意に念(おも)はく、別して中違(なかたが)ひまいらする事無けれども、東条左衛門入道蓮智が事に依つて此の十余年の間は見奉らず。但し中不和なるが如し。穏便(おんびん)の義を存じおだやかに申す事こそ礼儀なれとは思いしかども、生死界(しょうじかい)の習ひ・老少不定(ろうしょうふじょう)なり又二度見参の事・難かるべし。此の人の兄・道義房義尚(どうぎぼう・ぎしょう)此の人に向つて無間地獄に堕つべき人と申して有りしが、臨終思う様にも・ましまさざりけるやらん。此の人も又しかるべしと哀れに思いし故に、思い切つて強強(つよづよ)に申したりき。阿弥陀仏を五体作り給へるは五度・無間地獄に堕ち給ふべし。其の故は正直捨方便の法華経に釈迦如来は我等が親父・阿弥陀仏は伯父と説かせ給ふ。我が伯父をば五体まで作り供養せさせ給いて・親父をば一体も造り給はざりけるは豈不孝の人に非ずや。中中・山人(やまかつ)・海人(あま)なんどが東西をしらず、一善をも修せざる者は還つて罪浅き者なるべし。当世の道心者が後世を願ふとも法華経・釈迦仏をば打ち捨て・阿弥陀仏念仏なんどを念念に捨て申さざるはいかがあるべかるらん。打ち見る処は善人とは見えたれども親を捨てて他人につく失(とが)免るべしとは見えず。一向悪人はいまだ仏法に帰せず、釈迦仏を捨て奉る失も見えず、縁有つて信ずる辺もや有らんずらん。善導・法然・並びに当世の学者等が邪義に就いて阿弥陀仏を本尊として一向に念仏を申す人人は、多生曠劫(たしょうこうごう)をふるとも此の邪見を翻(ひるが)へして釈迦仏・法華経に帰すべしとは見えず。
 されば雙林(そうりん)最後の涅槃経に十悪・五逆よりも過ぎておそろしき者を出ださせ給ふに、謗法闡提(ほうぼうせんだい)と申して二百五十戒を持ち三衣一鉢(ぱつ)を身に纒(まと)へる智者共の中にこそ有るべしと見え侍れと・こまごまと申して候いしかば、此の人もこころえずげに思いておはしき。傍座(ぼうざ)の人人もこころえずげに・をもはれしかども、其の後承りしに法華経を持たるるの由・承りしかば此の人邪見を翻し給ふか。善人に成り給いぬと悦び思ひ候処に又此の釈迦仏を造らせ給う事申す計りなし。当座には強(つよげ)なる様に有りしかども、法華経の文のままに説き候いしかば・かうおれさせ給へり。忠言耳に逆(さか)らい・良薬口に苦しと申す事は是なり。
 今既に日蓮・師の恩を報ず。定めて仏神・納受し給はんか。各各此の由(よし)を道善房に申し聞かせ給ふべし。仮令・強言(たとい・ごうげん)なれども、人をたすくれば実語・輭語(なんご)なるべし。設(たと)ひ輭語なれども、人を損ずるは妄語(もうご)・強言なり。当世・学匠等の法門はなん語・実語と人人は思食(おぼしめ)したれども皆強言・妄語なり。仏の本意たる法華経に背く故なるべし。日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つべし・禅宗・真言宗も又謬(あやまり)の宗なりなんど申し候は強言とは思食すとも実語・輭語なるべし。例せば此の道善御房の法華経を迎へ・釈迦仏を造らせ給う事は日蓮が強言より起る。日本国の一切衆生も亦復是くの如し。 
                                                                           当世・此の十余年已前は一向念仏者にて候いしが、十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ、二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑をなす故に、心中に法華経を信じ又釈迦仏を書き造り奉る。是れ亦日蓮が強言より起る。譬えば栴檀(せんだん)は伊蘭(いらん)より生じ、蓮華は泥より出でたり。
 而るに念仏は無間地獄に堕つると申せば、当世牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染(かりそめ)にも毀(そし)るは、糞犬(やせいぬ)が師子王をほへ・癡猿(こざる)が帝釈(たいしゃく)を笑ふに似たり。

 文永七年             日 蓮 花 押

 義浄房
 浄顕房




by johsei1129 | 2019-09-15 17:12 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)


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