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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 09月 15日

法華経は一代聖教の肝心八万法蔵の拠り所と明かした書【善無畏三蔵抄】二

[善無畏三蔵抄 本文]その二
 日蓮八宗を勘へたるに、法相宗・華厳宗・三論宗等は権経に依つて或は実経に同じ・或は実経を下せり。是れ論師・人師より誤りぬと見えぬ。倶舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)は子細ある上、律宗なんどは小乗最下の宗なり。人師より権大乗・実大乗経にもなれり。真言宗・大日経等は未だ華厳経等に及ばず。何(いか)に況(いわん)や涅槃・法華経等に及ぶべしや。而るに善無畏(ぜんむい)三蔵は華厳・法華・大日経等の勝劣を判ずる時、理同事勝の謬釈(みょうしゃく)を作りしより已来(このかた)、或はおごりをなして法華経は華厳経にも劣りなん、何に況や真言経に及ぶべしや。或は云く、印・真言のなき事は法華経に諍(あらそ)ふべからず、或は云く、天台宗の祖師多く真言宗を勝ると云い、世間の思いも真言宗勝れたるなんめりと思へり。
 日蓮此の事を計るに、人多く迷ふ事なれば委細にかんがへたるなり。粗余処(ほぼ・よそ)に注せり見るべし。又志あらん人人は存生の時習い伝ふべし。人の多く・おもふには・おそるべからず、又時節の久近(くごん)にも依るべからず、専ら経文と道理とに依るべし。浄土宗は曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導より誤り多くして多くの人人を邪見に入れけるを、日本の法然・是をうけ取つて人ごとに念仏を信ぜしむるのみならず、天下の諸宗を皆失はんとするを、叡山・三千の大衆・南都・興福寺・東大寺の八宗より是をせく故に代代の国王・勅宣を下し、将軍家より御教書(みきょうしょ)をなして・せ(塞)けどもとどまらず、弥弥(いよいよ)繁昌して返つて主上・上皇・万民・等にいたるまで皆信状せり。

 而るに日蓮は安房の国・東条片海(かたうみ)の石中(いそなか)の賤民が子なり。威徳なく有徳のものにあらず。なににつけてか南都・北嶺のとどめがたき天子虎牙(こが)の制止に叶はざる念仏をふせぐべきとは思へども、経文を亀鏡と定め天台・伝教の指南を手ににぎりて建長五年より今年・文永七年に至るまで十七年が間・是を責めたるに日本国の念仏・大体留り了(おわん)ぬ。眼前に是れ見えたり。又口にすてぬ人人はあれども心計りは念仏は生死をはなるる道にはあらざりけると思ふ。禅宗以て是くの如し。一を以て万を知れ。真言等の諸宗の誤りをだに留めん事・手ににぎりておぼゆるなり。
況や当世の高僧・真言師等は其の智・牛馬にもおとり、螢火(ほたるび)の光にもしかず。只死せるものの手に弓箭(きゅうせん)をゆひつけ、ねごとするものに物をとふが如し。手に印を結び・口に真言は誦(ず)すれども、其の心中には義理を弁(わきま)うる事なし。結句・慢心は山の如く高く、欲心は海よりも深し。是は皆自ら経論の勝劣に迷ふより事起り、祖師の誤りをたださざるによるなり。所詮・智者は八万法蔵をも習ふべし・十二部経をも学すべし。末代濁悪世の愚人は念仏等の難行・易行(いぎょう)等をば抛(なげう)つて一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱え給うべし。日輪・東方の空に出でさせ給へば南浮(ぶ)の空・皆明かなり。大光を備へ給へる故なり。螢火は未だ国土を照さず。宝珠は懐中に持ぬれば万物皆ふらさずと云う事なし。瓦石(がしゃく)は財(たから)をふらさず。念仏等は法華経の題目に対すれば瓦石と宝珠と螢火と日光との如し。我等が昧(くら)き眼を以て螢火の光を得て物の色を弁ふべしや。旁(かたがた)凡夫の叶いがたき法は念仏・真言等の小乗権教なり。
 
 又我が師・釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり。此の娑婆(しゃば)・無仏の世の最先に出でさせ給いて一切衆生の眼目を開き給ふ御仏(みほとけ)なり。東西十方の諸仏・菩薩も皆此の仏の教(おしえ)なるべし。譬えば皇帝已前は人・父をしらずして畜生の如し。尭(ぎょう)王已前は四季を弁へず、牛馬の癡(おろか)なるに同じかりき。仏世に出でさせ給はざりしには比丘・比丘尼の二衆もなく只男女二人にて候いき。今比丘・比丘尼の真言師等・大日如来を御本尊と定めて釈迦如来を下し、念仏者等が阿弥陀仏を一向に持つて釈迦如来を抛(なげす)てたるも教主釈尊の比丘・比丘尼なり。元祖が誤を伝え来るなるべし。

[善無畏三蔵抄 本文]その三に続く




by johsei1129 | 2019-09-15 16:34 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)


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