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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 04日

日蓮の法門が出現すると既存仏教は、日出でて後の星の光の如くなると断言した書【三沢抄】二

[三沢抄 本文]その二

 今は一こうなり、いかなる大難にも・こらへてんと我が身に当てて心みて候へば・不審なきゆへに、此の山林には栖(す)み候なり。各各は又たとい・すてさせ給うとも、一日・かたときも我が身命をたすけし人人なれば、いかでか他人にはに(似)させ給うべき。本より我一人いかにもなるべし、我いかにしなるとも心に退転なくして仏になるならば・とのばらをば導きたてまつらむと・やくそく申して候いき。各各は日蓮ほども仏法をば知らせ給わざる上(うえ)俗なり・所領あり・妻子あり・所従あり、いかにも叶いがたかるべし。只いつ(偽)わり・をろかにて・をはせかしと申しし・ぎ(儀)こそ候べけれ。なに事につけてか・す(捨)てまいらせ候べき。ゆめゆめ・をろ(疎)かの・ぎ(儀)候べからず。

 又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前(にぜん)の経とをぼしめせ。此の国の国主・我が代をも・たもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ。爾の時まことの大事をば申すべし。弟子等にもなひなひ申すならば、ひろう(披露)してかれらし(知)りなんず。さらば・よもあ(合)わじと・をもひて各各にも申さざりしなり。

  而るに去(いぬ)る文永八年九月十二日の夜、たつ(竜)の口にて頚をはねられんとせし時より・のち(後)ふびんなり。我につきたりし者どもに・まことの事をいわざりけるとをもうて・さどの国より弟子どもに内内申す法門あり。此れは仏より後、迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教・義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心(みこころ)の中に秘せさせ給いて・口より外には出だし給はず。其の故は仏・制して云く「我が滅後・末法に入らずば此の大法いうべからず」と・ありしゆへなり。日蓮は其の御使ひにはあらざれども其の時剋にあたる上、存外に此の法門をさとりぬれば、聖人の出でさせ給うまで・まづ序分にあらあら申すなり。
 而るに此の法門出現せば、正法・像法に論師人師の申せし法門は、皆日出でて後の星の光、巧匠(たくみ)の後に拙(つたなき)を知るなるべし。此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆き(消)へう(失)せて但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候。各各はかかる法門にちぎり有る人なれば・たのもしと・をぼすべし。

 又うつぶさ(内房)の御事は御としよ(年老)らせ給いて御わたりありし。いた(痛)わしくおもいまいらせ候いしかども、うぢがみ(氏神)へまい(参)りてあるついでと候しかば、見参に入るならば・定めてつみ(罪)ふかかるべし。其の故は、神は所従なり・法華経は主君なり、所従のついでに主君への・けさん(見参)は世間にも・をそれ候。其の上・尼の御身になり給いては・まづ仏をさき(先)とすべし。かたがたの御とが(失)がありしかば・けさんせず候。此れ又尼ごぜん一人にはかぎらず、其の外の人人も・しもべのゆ(下部温泉)のついでと申す者をあまた・をひかへして候。尼ごぜんは・をや(親)のごとくの御とし(齢)なり。御なげき・いたわしく候いしかども・此の義をし(知)らせまいらせんためなり。

 又との(殿)は・をととし(一昨年)の見参の後、そらごとにてや候いけん・御そらう(所労)と申せしかば・人をつかわして・きかんと申せしに、此の御房たちの申せしは・それはさる事に候へども・人をつかわしたらば・いぶせくやをもはれ候はんずらんと申せしかば、世間のならひは・さもやあるらむ、げん(現)に御心ざしまめ(実)なる上・御所労ならば御使ひも有りなんと・をもひしかども、御使ひもなかりしかば・いつわりをろかにて・をぼつかなく候いつる上(うえ)、無常は常のならひなれども・こぞ(去年)ことしは世間はう(法)にすぎて・みみへまいらすべしとも・をぼへず。こひしくこそ候いつるに御をとづれ(音信)ある、うれしとも申す計りなし。尼ごぜんにも・このよしをつぶつぶ(委曲)とかたり申させ給い候へ。

 法門の事こまごまと・かきつ(書伝)へ申すべく候へども、事ひさしくなり候へばとどめ候。ただし禅宗と念仏宗と律宗等の事は少少前(さき)にも申して候。真言宗がことに此の国と・たうど(唐土)とをば・ほろぼして候ぞ。善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・弘法大師・慈覚大師・智証大師・此の六人が大日の三部経と法華経との優劣に迷惑せしのみならず、三三蔵・事をば天竺によせて両界をつくりいだし・狂惑(おうわく)しけるを、三大師うちぬかれて日本へならひわたし国主並びに万民につたへ、漢土の玄宗皇帝も代をほろぼし・日本国もやうやく・をとろへて八幡大菩薩の百王のちかいもやぶれて・八十二代隠岐の法王・代を東(あずま)にとられ給いしは、ひとへに三大師の大僧等がいのりしゆへに還著於本人(げんちゃく・おほんにん)して候。関東は此の悪法悪人を対治せしゆへに十八代をつぎて百王にて候べく候いつるを、又かの悪法の者どもを御帰依有るゆへに・一国には主なければ・梵釈・日月・四天の御計(はから)いとして他国にをほせつけて・をどして御らむあり。
 又法華経の行者をつかわして御いさめあるを・あや(怪)めずして・彼の法師等に心をあわせて世間出世の政道をやぶり、法にすぎて法華経の御かたきにならせ給う。すでに時すぎぬれば此の国やぶれなんとす。やくびやうは・すでにいくさにせんふ(先符)せむ。ま(負)くる・しるしなり。あさまし・あさまし。

 二月二十三日         日 蓮 花押

 みさわどの

 


by johsei1129 | 2019-11-04 11:08 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)


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