2024年 09月 18日
【佐渡御書(さどごしょ】 ■出筆時期:文永九年三月二十日(西暦1272年) 五十一歳御作 弟子檀那一同に与えられた書
■出筆場所:佐渡ヶ島 塚原三昧堂 ■出筆の経緯:大聖人が佐渡に流罪なると弟子、信徒も鎌倉幕府により所領を召し上げられたり、土牢にいれられる等の数々の難が降りかかる。それに対し大聖人は本書をしたため『悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は、師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし、例せば日蓮が如し』と弟子及び信徒に、今こそ師子王の気持ちで強い信仰に励むよう諭している。尚、本書を記す直前の同年二月には【開目抄】を書き表している。 ■ご真筆: 現存していない。 [佐渡御書 本文] 此の文(ふみ)は富木殿のかた・三郎左衛門殿・大蔵たう(塔)のつじ(辻)十郎入道殿等・さじき(桟敷)の尼御前・一一に見させ給べき人人の御中へなり。京鎌倉に軍に死(しせ)る人人を書き付けてたび候へ。外典抄文句の二・玄の四の本末・勘文宣旨(かんもんせんじ)等、これへの人人もちてわたらせ給へ。 世間に人の恐るる者は火炎(ほのお)の中と刀剣(つるぎ)の影と此の身の死するとなるべし。牛馬猶(なお)身を惜しむ、況(いわん)や人身をや。癩人(らいにん)猶命を惜しむ、何(いか)に況や壮人をや。仏・説いて云く「七宝を以て三千大千世界に布き満(みつ)るとも、手の小指を以て仏経に供養せんには如(し)かず」取意。雪山童子の身をなげし、楽法梵志(ぎょうぼうぼんじ)が身の皮をはぎし、身命に過ぎたる惜しき者のなければ・是を布施(ふせ)として仏法を習へば必ず仏となる。身命を捨つる人、他の宝を仏法に惜べしや。又財宝を仏法におしまん物、まさる身命を捨つべきや。 世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし。又主君の為に命を捨つる人はすくなきやうなれども其の数多し。男子ははぢ(恥)に命をすて、女人は男の為に命をすつ。魚は命を惜しむ故に池にす(栖)むに、池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむ。しかれども・ゑ(餌)にばかされて釣(つり)をのむ。鳥は木にすむ、木のひき(低)き事をおじて木の上枝(ほつえ)にすむ。しかれどもゑにばかされて網にかかる。人も又是くの如し。世間の浅き事には身命を失へども、大事の仏法なんどには捨つる事難し。故に仏になる人もなかるべし。 仏法は摂受(しょうじゅ)・折伏(しゃくぶく)時によるべし。譬へば世間の文・武二道の如し。されば昔の大聖は時によりて法を行ず。雪山(せっせん)童子・薩埵(さった)王子は身を布施とせば法を教へん、菩薩の行となるべしと責めしかば身をすつ。肉をほしがらざる時・身を捨つ可きや、紙なからん世には身の皮を紙とし、筆なからん時は骨を筆とすべし。 破戒・無戒を毀(そし)り、持戒・正法を用ひん世には諸戒を堅く持(たもつ)べし。儒教・道教を以て釈教を制止せん日には、道安(どうあん)法師・慧遠(えおん)法師・法道三蔵等の如く、王と論じて命を軽うすべし。 釈教の中に小乗・大乗・権経・実経・雑乱(ぞうらん)して・明珠と瓦礫(がりゃく)と牛驢(ごろ)の二乳を弁へざる時は、天台大師・伝教大師等の如く大小・権実・顕密を強盛(ごうじょう)に分別すべし。畜生の心は弱きをおどし強きをおそる。当世の学者等は畜生の如し。智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる。諛臣(ゆしん)と申すは是なり。 強敵を伏して始て力士をしる。悪王の正法を破るに・邪法の僧等が方人(かたうど)をなして智者を失はん時は、師子王の如くなる心をもてる者・必ず仏になるべし、例せば日蓮が如し。これおごれるにはあらず、正法を惜(おし)む心の強盛なるべし。おご(傲)れる者は必ず強敵に値(あ)ひて・おそるる心・出来するなり。例せば修羅のおごり・帝釈にせめられて無熱池(むねっち)の蓮(はちす)の中に小身と成りて隠れしが如し。正法は一字・一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道な(成)るべし。千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。 宝治の合戦すでに二十六年、今年二月十一日・十七日又合戦あり。外道・悪人は如来の正法を破りがたし、仏弟子等・必ず仏法を破るべし。「師子身中の虫の師子を食(は)む」等云云。大果報の人をば他の敵やぶりがたし、親しみより破るべし。薬師経に云く「自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)」と是なり。仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起らん」云云。金光明経に云く「三十三天・各瞋恨(おのおの・しんこん)を生ずるは其の国王・悪を縦(ほしいまま)にして治せざるに由る」等云云。 日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し。又世間の作法兼(かね)て知るによて注し置くこと是違う可らず。現世に云ひをく言(ことば)の違はざらんをもて後生の疑ひをなすべからず。日蓮は此の関東の御一門の棟梁(とうりょう)なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり。日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと・去年(こぞ)九月十二日御勘気を蒙(こうむ)りし時、大音声を放ちてよばはりし事これなるべし。纔(わず)かに六十日・乃至百五十日に此の事起るか。是は華報(けほう)なるべし。実果の成ぜん時、いかが・なげ(歎)かはしからんずらん、 世間の愚者の思ひに云く、日蓮智者ならば何ぞ王難に値哉(あうや)なんと申す。日蓮兼ねての存知なり、父母を打つ子あり阿闍世(あじゃせ)王なり、仏・阿羅漢を殺し血を出だす者あり提婆達多是なり。六臣これをほ(讃)め、瞿伽利(くぎゃり)等これを悦ぶ。 日蓮当世には此の御一門の父母なり、仏阿羅漢の如し。然るを流罪し・主従共に悦びぬる。あはれに無慚(むざん)なる者なり。謗法の法師等が自ら禍(とが)の既に顕はるるを歎きしが、か(斯)くなるを一旦は悦ぶなるべし。後には彼等が歎き・日蓮が一門に劣るべからず。例せば泰衡(やすひら)が・せうと(弟)を討ち、九郎判官(ほうがん)を討ちて悦びしが如し。既に一門を亡ぼす大鬼の此の国に入るなるべし。法華経に云く「悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)」と是なり。 日蓮も又かくせ(責)めらるるも先業なきにあらず。不軽品に云く「其罪畢已(ございひっち)」等云云。不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲(めり・ちょうちゃく)せられしも先業の所感なるべし。何に況んや日蓮、今生には貧窮下賤(びんぐげせん)の者と生れ旃陀羅(せんだら)が家より出(いで)たり。心こそすこし法華経を信じたる様なれども、身は人身に似て畜身なり。魚鳥を混丸して赤白二渧とせり。其の中に識神(しきしん)をやどす。濁水に月のうつれるが如し、糞嚢(ふんのう)に金をつつ(包)めるなるべし。 心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず。身は畜生の身なり、色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり。心も又身に対すればこそ月金にもたと(譬)ふれ。又過去の謗法を案ずるに誰かしる、勝意比丘が魂(たましい)にもや、大天が神(たましい)にもや。不軽軽毀(きょうき)の流類(るるい)なるか、失心の余残なるか、五千上慢の眷属なるか、大通第三の余流にもやあるらん、宿業はかりがたし。鉄(くろがね)は炎(きたい)打てば剣となる、賢聖は罵詈(めり)して試みるなるべし。我今度の御勘気は世間の失(とが)一分もなし。偏(ひとえ)に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし。 般泥洹(はつないおん)経に云く「当来の世、仮りに袈裟(けさ)を被(き)て我が法の中に於て出家学道し、懶惰懈怠(らんだけたい)にして此れ等の方等契経(ほうどうがいきょう)を誹謗すること有らん。当に知るべし、此等は皆是今日の諸の異道の輩(やから)なり」等云云。此の経文を見ん者、自身をは(恥)づべし。今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是(これ)仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり。法然が一類・大日が一類、念仏宗・禅宗と号して・法華経に捨閉閣抛(しゃへいかくほう)の四字を副(そ)へて制止を加へて権教の弥陀称名計りを取り立て、教外別伝(きょうげべつでん)と号して法華経を月をさす指・只(ただ)文字をかぞ(算)ふるなんど笑ふ者は、六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし。 うれへなるかなや涅槃経に仏・光明を放ちて地の下一百三十六地獄を照らし給ふに罪人一人もなかるべし。法華経の寿量品にして皆成仏せる故なり。但し一闡提人と申して謗法の者計り地獄守(もり)に留められたりき。彼等がう(生)みひろ(広)げて今の世の日本国の一切衆生となれるなり。 日蓮も過去の種子(しゅし)・已に謗法の者なれば、今生に念仏者にて数年が間・法華経の行者を見ては未有一人得者・千中無一(みういちにんとくしゃ・せんちゅうむいつ)等と笑ひしなり。今謗法の酔ひさめて見れば酒に酔へる者・父母を打ちて悦びしが、酔ひさめて後・歎(なげ)きしが如し。歎けども甲斐なし・此の罪消しがたし。何に況んや過去の謗法の心中にそ(染)みけんをや。経文を見候へば烏(からす)の黒きも鷺(さぎ)の白きも、先業のつよく・そみけるなるべし。外道は知らずして自然(じねん)と云い、今の人は謗法を顕して扶(たす)けんとすれば・我が身に謗法なき由をあなが(強)ちに陳答して・法華経の門を閉じよと法然が書けるをとかく(左右)あらか(争)ひなんどす。念仏者はさてをきぬ天台真言等の人人、彼が方人(かたうど)をあながちにするなり。 今年正月(むつき)十六日・十七日に佐渡の国の念仏者等数百人、印性(いんしょう)房と申すは念仏者の棟梁(とうりょう)なり。日蓮が許(もと)に来て云く、法然上人は法華経を抛(なげうて)よとかかせ給ふには非ず。一切衆生に念仏を申させ給いて候・此の大功徳に御往生疑ひなしと書き付けて候を・山僧等の流されたる・並びに寺法師等、善哉善哉(よきかな・よきかな)とほめ候を・いかがこれを破し給ふと申しき。鎌倉の念仏者よりもはるかに・はかなく候ぞ。無慚(むざん)とも申す計りなし。 いよいよ日蓮が先生・今生・先日の謗法おそろし。か(斯)かりける者の弟子と成けん、かかる国に生れけん、いかになるべしとも覚えず。般泥洹(はつないおん)経に云く「善男子、過去に無量の諸罪・種種の悪業を作らんに、是の諸の罪報・或は軽易(きょうい)せられ・或は形状醜陋(ぎょうじょうしゅうる)・衣服(えぶく)足らず・飲食麤疎(おんじきそそ)・財を求めて利あらず・貧賤の家・及び邪見の家に生まれ・或は王難に遇(あ)う」等云云。又云く「及び余の種種の人間の苦報・現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり」等云云。 此の経文は日蓮が身なくば殆(ほとん)ど仏の妄語となりぬべし。一には「或は軽易せらる」二には「或は形状醜陋」三には「衣服不足」四には「飲食麤疎」五には「求財不利(ぐざいふり)」六には「生貧賤家(しょうひんせんけ)」七には「及邪見家(ぎゅうじゃけんけ)」八には「或遭王難(わくぞうおうなん)」等云云。此の八句は只日蓮一人が身に感ぜり。高山に登る者は必ず下(くだ)り、我・人を軽しめば還って我が身・人に軽易せられん。形状端厳(ぎょうじょうたんごん)をそしれば醜陋(しゅうる)の報いを得、人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる、持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず、正法の家をそしれば邪見の家に生ず、善戒を笑へば国土の民となり王難に遇(あ)ふ、是は常の因果の定れる法なり。 日蓮は此の因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易せし故に、法華経は月と月とを並べ・星と星とをつらね・華山に華山をかさね・玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を、或は上(あ)げ・或は下(くだし)て嘲弄(ちょうろう)せし故に此の八種の大難に値へるなり。此の八種は尽未来際(じんみらいさい)が間、一づつこそ現ずべかりしを、日蓮つよく法華経の敵を責むるによて一時に聚(あつま)り起こせるなり。譬へば民の郷郡なんどにあるには・いかなる利銭を地頭等におほ(債)せたれども・いた(甚)くせ(責)めず・年年にのべゆく。其の所を出ずる時に競ひ起こるが如し。「斯れ護法の功徳力に由る故なり」等は是なり。 法華経には「諸の無智の人有り。悪口罵詈(あっくめり)等し刀杖瓦石(がしゃく)を加うる、乃至国王・大臣・婆羅門(ばらもん)・居士(こじ)に向かつて乃至数数擯出(しばしば・ひんずい)せられん」等云云。獄卒が罪人を責めずば、地獄を出づる者かたかりなん。当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し。日蓮は過去の不軽の如く、当世の人人は彼の軽毀(きょうき)の四衆の如し。人は替われども因は是一なり。父母を殺せる人異なれども同じ無間地獄にお(堕)つ。いかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき。又彼の諸人は跋陀婆羅(ばっだばら)等と云はれざらんや。但(ただ)千劫阿鼻地獄にて責められん事こそ不便(ふびん)にはおぼゆれ。是をいかんとすべき。彼の軽毀(きょうき)の衆は始めは謗ぜしかども、後には信伏随従せりき。罪多分は滅して少分有りしが、父母千人殺したる程の大苦をうく。当世の諸人は翻(ひるがえ)す心なし。譬喩品の如く無数劫をや経んずらん、三五の塵点をやおくらんずらん。 これはさてをきぬ。日蓮を信ずるやうなりし者どもが・日蓮がか(斯)くなれば疑ひを・をこして法華経をすつるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我賢(かしこ)しと思はん僻人(びゃくにん)等が、念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん事・不便とも申す計りなし。修羅が仏は十八界・我は十九界と云ひ、外道が云く、仏は一究竟道(くきょうどう)・我は九十五究竟道と云いしが如く、日蓮御房は師匠にておはせども余りに・こは(剛)し。我等はやは(柔)らかに法華経を弘むべしと云はんは、螢火(ほたるび)が日月をわらひ、蟻塚(ありづか)が華山(かざん)を下し、井江(せいこう)が河海(かかい)をあなづり、烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)をわらふなるべし・わらふなるべし。南無妙法蓮華経。 文永九年太歳壬申三月二十日 日 蓮 花 押 日蓮弟子檀那等御中 佐渡の国は紙候はぬ上・面面に申せば煩(わずらい)あり。一人も・もるれば恨(うらみ)ありぬべし。此の文(ふみ)を心ざしあらん人人は寄合(よりあう)て御覧じ、料簡(りょうけん)候ひて・心なぐさませ給へ。世間にまさる歎きだにも出来すれば・劣る歎きは物ならず。当時の軍(いくさ)に死する人人、実・不実は置く、幾(いくばく)か悲しかるらん。いざは(伊沢)の入道・さかべ(酒部)の入道いかになりぬらん、かはのべ(河辺)山城(やましろ)・得行寺(とくぎょうじ)殿等の事・いかにと書き付けて給ふべし。外典書の貞観政要(じょうがんせいよう)すべて外典の物語・八宗の相伝等、此等がなくしては消息もかかれ候はぬに、かまへて・かまへて給び候べし。
by johsei1129
| 2024-09-18 11:10
| 弟子・信徒その他への消息
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