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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 12日

日蓮は当世には此御一門の父母なり仏阿羅漢の如しと説いた書【佐渡御書】

【佐渡御書(さどごしょ】
■出筆時期:文永九年三月二十日(西暦1272年) 五十一歳御作 与弟子檀那一同に与えられた書
■出筆場所:佐渡ヶ島 塚原三昧堂
■出筆の経緯:大聖人が佐渡に流罪なると弟子、信徒も鎌倉幕府により所領を召し上げられたり、土牢にいれられる等の数々の難が降りかかる。それに対し大聖人は本書をしたため『悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し』と弟子及び信徒に、今こそ師子王の気持ちで強い信仰に励むよう諭している。尚、本書を記す直前の同年二月には【開目抄】を書き表している。 
■ご真筆: 現存していない。

[佐渡御書 本文]

 此文は富木殿のかた三郎左衛門殿大蔵たう(塔)のつじ(辻)十郎入道殿等さじき(桟敷)の尼御前一一に見させ給べき人人の御中へなり、京鎌倉に軍に死(しせ)る人人を書付てたび候へ、外典抄文句の二玄の四の本末勘文宣旨(かんもんせんじ)等これへの人人もちてわたらせ給へ。

 世間に人の恐るる者は火炎(ほのお)の中と刀剣(つるぎ)の影と此身の死するとなるべし、牛馬猶(なお)身を惜む況(いわん)や人身をや癩人(らいにん)猶命を惜む何(いか)に況(いわん)や壮人をや、仏説て云く「七宝を以て三千大千世界に布き満(みつ)るとも手の小指を以て仏経に供養せんには如(し)かず」取意、雪山童子の身をなげし楽法梵志(ぎょうぼうぼんじ)が身の皮をはぎし身命に過(すぎ)たる惜き者のなければ是を布施(ふせ)として仏法を習へば必(かならず)仏となる、身命を捨る人・他の宝を仏法に惜べしや、又財宝を仏法におしまん物まさる身命を捨べきや、世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し、男子ははぢ(恥)に命をすて女人は男の為に命をすつ、魚は命を惜む故に池にす(栖)むに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむしかれどもゑ(餌)にばかされて釣(つり)をのむ、鳥は木にすむ木のひき(低)き事をおじて木の上枝(ほおつえ)にすむ、しかれどもゑにばかされて網にかかる、人も又是くの如し、世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし。

 仏法は摂受(しょうじゅ)・折伏(しゃくぶく)時によるべし譬(たとえ)ば世間の文・武二道の如し、されば昔の大聖は時によりて法を行ず、雪山(せっせん)童子・薩埵(さった)王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時、身を捨つ可きや、紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし。
 破戒・無戒を毀(そし)り持戒・正法を用ん世には諸戒を堅く持(たもつ)べし、儒教・道教を以て釈教を制止せん日には道安(どうあん)法師・慧遠(えおん)法師・法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし。
 釈教の中に小乗大乗権経実経・雑乱(ぞうらん)して明珠と瓦礫(がりゃく)と牛驢(ごろ)の二乳を弁へざる時は、天台大師・伝教大師等の如く大小・権実・顕密を強盛(ごうじょう)に分別すべし。畜生の心は弱きをおどし強きをおそる、当世の学者等は畜生の如し、智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣(ゆしん)と申すは是なり、強敵を伏して始て力士をしる。
 
 悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人(かたうど)をなして智者を失はん時は、師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し
、これおごれるにはあらず正法を惜(おし)む心の強盛なるべし、おご(傲)れる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅(しゅら)のおごり帝釈(たいしゃく)にせめられて無熱池(むねっち)の蓮(はちす)の中に小身と成て隠れしが如し、正法は一字・一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道な(成)るべし、千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。

 宝治の合戦すでに二十六年今年二月十一日十七日又合戦あり、外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食(はむ)等云云、大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、薬師経に云く「自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)」と是なり、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起らん」云云、金光明経に云く「三十三天各瞋恨(しんこん)を生ずるは其の国王悪を縦(ほしいまま)にし治せざるに由る」等云云、日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し又世間の作法兼(かね)て知るによて注し置くこと是違う可らず、現世に云(いい)をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず、日蓮は此関東の御一門の棟梁(とうりょう)なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙(こうむ)りし時、大音声を放(はなち)てよばはりし事これなるべし、纔(わずか)に六十日乃至百五十日に此事起るか、是は華報(けほう)なるべし実果の成ぜん時いかがなげ(歎)かはしからんずらん、
 世間の愚者の思に云く日蓮智者ならば何ぞ王難に値哉(あうや)なんと申す、日蓮兼ての存知なり父母を打子(うつこ)あり阿闍世(あじゃせ)王なり、仏阿羅漢を殺し血を出す者あり提婆達多是なり、六臣これをほ(讃)め瞿伽利(くぎゃり)等これを悦ぶ、日蓮当世には此御一門の父母なり仏阿羅漢の如し、然(しかる)を流罪し主従共に悦びぬる、あはれに無慚(むざん)なる者なり、謗法の法師等が自ら禍の既に顕るるを歎きしがか(斯)くなるを一旦は悦ぶなるべし、後には彼等が歎き日蓮が一門に劣るべからず、例せば泰衡(やすひら)がせうと(弟)を討(うち)九郎判官(ほうがん)を討て悦しが如し、既に一門を亡す大鬼の此国に入なるべし、法華経に云く「悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)」と是なり。

 日蓮も又かくせ(責)めらるるも先業なきにあらず、不軽品に云く「其罪畢已(ございひっち)」等云云。不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲(めりちょうちゃく)せられしも先業の所感なるべし。
 何(いか)に況(いわん)や日蓮、今生には貧窮下賤(びんぐげせん)の者と生れ旃陀羅(せんだら)が家より出(いで)たり。心こそすこし法華経を信じたる様なれども、身は人身に似て畜身なり、魚鳥を混丸して赤白二
渧とせり、其中に識神(しきしん)をやどす。濁水に月のうつれるが如し、糞嚢(ふんのう)に金をつつ(包)めるなるべし。
 
 心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず、身は畜生の身なり、色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり、心も又身に対すればこそ月金にもたと(譬)ふれ、又過去の謗法を案ずるに誰かしる勝意比丘が魂(たましい)にもや大天が神にもや不軽軽毀(きょうき)の流類なるか失心の余残なるか五千上慢の眷属なるか大通第三の余流にもやあるらん宿業はかりがたし、鉄(くろがね)は炎(きたい)打てば剣となる賢聖は罵詈(めり)して試みるなるべし、我今度の御勘気は世間の失(とが)一分もなし、偏(ひとえ)に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし。

 般泥洹(はつないおん)経に云く「当来の世仮りに袈裟(けさ)を被(き)て我が法の中に於て出家学道し懶惰懈怠(らんだけたい)にして此れ等の方等契経(ほうどうがいきょう)を誹謗すること有らん、当に知るべし此等は皆是今日の諸の異道の輩(やから)なり」等云云、此経文を見ん者自身をは(恥)づべし今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり、法然が一類大日が一類念仏宗禅宗と号して法華経に捨閉閣抛(しゃへいかくほう)の四字を副(そ)へて制止を加て権教の弥陀称名計りを取立教外別伝(とりたてきょうげべつでん)と号して法華経を月をさす指只(ただ)文字をかぞ(算)ふるなんど笑ふ者は六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし、うれへなるかなや涅槃経に仏光明を放て地の下一百三十六地獄を照し給に罪人一人もなかるべし法華経の寿量品にして皆成仏せる故なり但し一闡提人と申て謗法の者計り地獄守(もり)に留られたりき彼等がう(生)みひろ(広)げて今の世の日本国の一切衆生となれるなり。

日蓮も過去の種子(しゅし)已に謗法の者なれば今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一(みういちにんとくしゃせんちゅうむいつ)等と笑(わらい)しなり、今謗法の酔(よい)さめて見れば酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎(なげき)しが如し、歎けども甲斐なし此罪消がたし、何(いか)に況(いわん)や過去の謗法の心中にそ(染)みけんをや、経文を見候へば烏(からす)の黒きも鷺(さぎ)の白きも先業のつよくそみけるなるべし、外道は知らずして自然(じねん)と云い今の人は謗法を顕して扶(たす)けんとすれば我身に謗法なき由をあなが(強)ちに陳答して法華経の門を閉よと法然が書けるをとかく(左右)あらか(争)ひなんどす、念仏者はさてをきぬ天台真言等の人人彼が方人(かたうど)をあながちにするなり、今年正月(むつき)十六日十七日に佐渡の国の念仏者等数百人印性(いんしょう)房と申すは念仏者の棟梁(とうりょう)なり、日蓮が許(もと)に来て云く法然上人は法華経を抛(なげうて)よとかかせ給には非ず一切衆生に念仏を申させ給いて候此の大功徳に御往生疑なしと書付て候を山僧等の流されたる並に寺法師等・善哉善哉(よきかなよきかな)とほめ候をいかがこれを破し給と申しき、鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ無慚(むざん)とも申す計りなし。

いよいよ日蓮が先生今生先日の謗法おそろし、か(斯)かりける者の弟子と成けんかかる国に生れけんいかになるべしとも覚えず、般泥洹(はつないおん)経に云く「善男子過去に無量の諸罪・種種の悪業を作らんに是の諸の罪報・或は軽易せられ或は形状醜陋衣服足(ぎょうじょうしゅうるえぶくた)らず飲食麤疎(おんじきそそ)財を求めて利あらず貧賤の家及び邪見の家に生れ或は王難に遇(あ)う」等云云、又云く「及び余の種種の人間の苦報現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり」等云云、此経文は日蓮が身なくば殆(ほとん)ど仏の妄語となりぬべし、一には或被軽易(わくきょい)二には或形状醜陋(わくぎょうじょうしゅうる)三には衣服不足(えぶくふそく)四には飲食麤疎(おんじきそそ)五には求財不利(くざいふり)六には生貧賤家(しょうひんせんけ)七には及邪見家(ぎゅうじゃけんけ)八には或遭王難(わくぞうおうなん)等云云、此八句は只日蓮一人が身に感ぜり、高山に登る者は必ず下(くだ)り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん、形状端厳(ぎょうじょうたんごん)をそしれば醜陋の報いを得、人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる、持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず、正法の家をそしれば邪見の家に生ず、善戒を笑へば国土の民となり王難に遇(あ)ふ、是は常の因果の定れる法なり、日蓮は此因果にはあらず、法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を、或は上(あ)げ或は下(くだし)て嘲弄(ちょうろう)せし故に此八種の大難に値るなり、此八種は尽未来際(じんみらいさい)が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚(あつま)り起せるなり、譬ば民の郷郡なんどにあるにはいかなる利銭を地頭等におほ(債)せたれどもいた(甚)くせ(責)めず年年にのべゆく、其所を出る時に競起(きそいおこる)が如し、斯れ護法の功徳力に由る故なり等は是なり、法華経には「諸の無智の人有り悪口罵詈(あっくめり)等し刀杖瓦石(がしゃく)を加うる乃至国王・大臣・婆羅門(ばらもん)・居士に向つて乃至数数擯出(ひんずい)せられん」等云云、獄卒が罪人を責ずば地獄を出る者かたかりなん、当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し、日蓮は過去の不軽の如く当世の人人は彼の軽毀(きょうき)の四衆の如し人は替(かわ)れども因は是一なり、父母を殺せる人異なれども同じ無間(むげん)地獄におつ、いかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき又彼諸人は跋陀婆羅(ばっだばら)等と云はれざらんや但(ただ)千劫阿鼻地獄にて責られん事こそ不便にはおぼゆれ是をいかんとすべき、彼軽毀(かのきょうき)の衆は始は謗ぜしかども後には信伏随従せりき、罪多分は滅して少分有しが父母千人殺したる程の大苦をうく、当世の諸人は翻(ひるがえ)す心なし譬喩品の如く無数劫をや経んずらん三五の塵点をやおくらんずらん。

 これはさてをきぬ日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がか(斯)くなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢(かしこ)しと思はん僻人(びゃくにん)等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし、修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ外道が云く仏は一究竟道(くきょうどう)我は九十五究竟道と云いしが如く、日蓮御房は師匠にておはせども余(あまり)にこはし我等はやは(柔)らかに法華経を弘むべしと云んは、螢火(ほたるび)が日月をわらひ、蟻塚(ありづか)が華山(かざん)を下し、井江が河海をあなづり、烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)をわらふなるべしわらふなるべし。南無妙法蓮華経。

文永九年太歳壬申三月二十日          日 蓮 花 押
日蓮弟子檀那等御中

 佐渡の国は紙候はぬ上面面に申せば煩(わずらい)あり一人ももるれば恨(うらみ)ありぬべし、此文(ふみ)を心ざしあらん人人は寄合(よりあう)て御覧じ料簡(りょうけん)候て心なぐさませ給へ、世間にまさる歎きだにも出来すれば劣る歎きは物ならず、当時の軍に死する人人実不実は置く幾(いくばく)か悲しかるらん、いざは(伊沢)の入道さかべ(酒部)の入道いかになりぬらん、かはのべ(河辺)山城得行寺(やましろとくぎょうじ)殿等の事いかにと書付て給べし、外典書の貞観政要(じょうがんせいよう)すべて外典の物語八宗の相伝等此等がなくしては消息もかかれ候はぬに、かまへてかまへて給(たび)候べし。





by johsei1129 | 2019-10-12 21:17 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
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