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日蓮大聖人『御書』解説

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2024年 10月 01日

人の心を貫く妙法蓮華経は宇宙に遍満し一体であると明した【三世諸仏総勘文教相廃立】三

[三世諸仏総勘文教相廃立 本文] その三
 安楽行品には末法に入つて近来(このごろ)・初心の凡夫、法華経を修行して成仏す可き様を説き置かれしなり。身も安楽行なり、口も安楽行なり、意も安楽行なり。自行の三業も・誓願安楽の化他の行も同じく後の末世に於て法の滅せんと欲する時と云云。此は近来(このごろ)の時なり。已上四所に有り。薬王品には二所に説かれ、勧発品には三所に説かれたり。皆近来を指して譲り置かれたる正しき文書を用いずして凡夫の言に付き、愚癡の心に任せて三世諸仏の譲り状に背き奉り、永く仏法に背かば三世の諸仏、何(いか)に本意無く・口惜しく・心憂く・歎き悲しみ思食(おぼしめ)すらん。
 涅槃経に云く「法に依つて人に依らざれ」と云云。痛ましいかな・悲しいかな、末代の学者・仏法を習学して還つて仏法を滅す。弘決に之を悲しんで曰く「此の円頓を聞いて崇重(そうじゅう)せざることは、良(まこと)に近代大乗を習う者の雑濫(ぞうらん)に由るが故なり。況んや像末・情澆(こころ・うす)く・信心寡薄(すくなく)、円頓の教法・蔵に溢れ・函(はこ)に盈(み)つれども暫くも思惟(しゅい)せず、便ち目を瞑(ふさ)ぐに至る。徒(いたず)らに生し徒らに死す。一に何ぞ痛ましき哉」已上
 同四に云く「然も円頓の教は本(も)と凡夫に被(こう)むらしむ。若し凡を益するに擬せずんば仏・何ぞ自ら法性の土に住して・法性の身を以て諸の菩薩の為に此の円頓を説かずして、何ぞ諸の法身の菩薩の与(ため)に凡身を示し・此の三界に現じ給うことを須(もち)いんや。乃至一心凡に在れば即ち修習す可し」已上。

 所詮、己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり。故に弘決に又云く「一切の諸仏、己心は仏心と異ならずと観じ給うに由るが故に仏に成ることを得る」と
已上。此れを観心と云う。実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙(さ)わる可き悪業も有らず、生死に留まる可き妄念も有らず、一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず、思うと思い・言うと言い・為すと為し・儀(ふるま)いと儀う・行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば、過(とが)も無く・障(さわ)りも無き自在の身と成る。此れを自行と云う。此くの如く自在なる自行の行を捨て、跡形も有らざる無明妄想なる僻思(ひがおもい)の心に住して三世の諸仏の教訓に背き奉れば、冥(くら)きより冥きに入り、永く仏法に背くこと・悲しむ可く・悲しむ可し。
 只今打ち返えし・思い直し・悟り返さば、即身成仏は我が身の外には無しと知りぬ。

 我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も・我等は裏に向つて我が性の理を見ず。故に無明と云う。如来は面(おもて)に向つて我が性の理を見たまえり。故に明と無明とは其の体只一なり。
 鏡は一の鏡なりと雖も・向い様に依つて明昧(みょうまい)の差別有り。鏡に裏有りと雖も面(おもて)の障りと成らず。只向い様に依つて得失の二つ有り。相即融通して一法の二義なり。化他の法門は鏡の裏に向うが如く、自行の観心は鏡の面に向うが如し。化他の時の鏡も自行の時の鏡も、我が心性の鏡は只一にして替ること無し。鏡を即身に譬え、面に向うをば成仏に譬え、裏に向うをば衆生に譬う。
 鏡に裏有るをば性悪を断ぜざるに譬え、裏に向う時・面の徳無きをば化他の功徳に譬うるなり。衆生の仏性の顕はれざるに譬うるなり。自行と化他とは得失の力用(りきゆう)なり。


 玄義の一に云く「薩婆悉達(さるばしった)・祖王の弓を彎(ひい)て満つるを名けて力と為す。七つの鉄鼓(てっく)を中(やぶ)り、一つの鉄囲山(てっちせん)を貫ぬき、地を洞(とお)し、水輪に徹(とお)る如きを名けて用(ゆう)と為す 自行の力用なり。諸の方便教は力用(りきゆう)の微弱なること・凡夫の弓箭(きゅうせん)の如し。何となれば昔の縁は化他の二智を禀(う)けて理を照すこと遍からず、信を生ずること深からず、疑ひを除くこと尽さず 已上化他。今の縁は自行の二智を禀(う)けて仏の境界を極め、法界の信を起し、円妙の道を増し、根本の惑を断じ、変易(へんにゃく)の生を損す。但だ生身(しょうしん)及び生身得忍の両種の菩薩、倶(とも)に益するのみに非ず、法身と法身の後心との両種の菩薩も亦以て倶に益す。化の功(こう)広大に利潤弘深(りにん・ぐじん)なる。蓋(けだ)し玆(こ)の経の力用なり 已上自行

 自行と化他との力用勝劣分明なること勿論なり。能く能く之を見よ。一代聖教を鏡に懸(かけ)たる教相なり。
 極仏境界とは十如是の法門なり。十界に互ひに具足して十界・十如の因果・権実の二智・二境は我が身の中に有つて一人も漏るること無しと通達し・解了し・仏語を悟り極むるなり。
 起法界信とは十法界を体と為し、十法界を心と為し、十法界を形と為したまえる本覚の如来は我が身の中に有りけりと信ず。
 増円妙道とは自行と化他との二は相即円融の法なれば、珠と光と宝との三徳は只一の珠の徳なるが如し。片時も相離れず仏法に不足無し。一生の中に仏に成るべしと慶喜(きょうき)の念を増すなり。
 断根本惑とは一念無明の眠を覚まして本覚の寤に還れば、生死も涅槃も倶に昨日の夢の如く・跡形も無きなり。
 損変易生(そんへん・にゃくしょう)とは同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生せる人・彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間・因は移り・果は易(かわ)りて次第に進み昇り、劫数を経て成仏の遠きを待つを変易の生死と云うなり。下位を捨つるを死と云い・上位に進むをば生と云う。是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり、爰(ここ)に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば、十界互具・法界一如なれば浄土の菩薩の変易の生は損し、仏道の行は増して変易の生死を一生の中に促(つづ)めて仏道を成ず故に、生身及び生身得忍の両種の菩薩・増道損生するなり。
 法身の菩薩とは生身を捨てて実報土に居するなり。後心(ごしん)の菩薩とは等覚の菩薩なり。但し迹門には生身及び生身得忍の菩薩を利益するなり。本門には法身と後身との菩薩を利益す。但し今は迹門を開して本門に摂(おさ)めて一の妙法と成す故に、凡夫の我等・穢土の修行の行の力を以て浄土の十地等覚の菩薩を利益する行なるが故に、化の功広大なり 化他の徳用。
 利潤弘深とは 自行の徳用 円頓の行者は自行と化他と一法をも漏(もら)さず一念に具足して、横に十方法界に遍するが故に弘きなり。竪には三世に亘つて法性の淵底を極むるが故に深きなり。此の経の自行の力用、此くの如し。
 化他の諸経は自行を具せざれば鳥の片翼(へんよく)を以て空を飛ばざるが如し。故に成仏の人も無し。今、法華経は自行・化他の二行を開会して不足無きが故に・鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く成仏・滞(とどこお)り無し。

 薬王品には十喩を以て自行と化他との力用(りきゆう)の勝劣を判ぜり。第一の譬に云く、諸経は諸水の如く・法華は大海の如し云云
取意。実に自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水(しゅすい)を入るること・昼夜に絶えず入ると雖も増ぜず・減ぜず・不可思議の徳用(とくゆう)を顕はす。諸経の衆水は片時の程も法華経の大海を納るること無し。自行と化他との勝劣是くの如し。
 一を以て諸(しょ)を例せよ。上来の譬喩は皆仏の所説なり、人の語を入れず。此の旨を意得(こころう)れば一代聖教・鏡に懸けて陰(くも)り無し。此の文釈(もんしゃく)を見て誰の人か迷惑せんや。三世の諸仏の総勘文なり。敢へて人の会釈を引き入る可からず。三世諸仏の出世の本懐なり。一切衆生・成仏の直道なり。

 四十二年の化他の経を以て立つる所の宗宗は華厳・真言・達磨・浄土・法相・三論・律宗・倶舎・成実等の諸宗なり。此等は皆悉く法華より已前の八教の中の教なり。皆是方便なり。
兼・但・対・帯の方便誘引なり、三世諸仏の説教の次第なり。此の次第を糾して法門を談ず。若し次第に違わば仏法に非ざるなり。一代教主の釈迦如来も三世諸仏の説教の次第を糾して一字も違わず、我も亦是くの如しとて経に云く「三世諸仏の説法の儀式の如く、我も今・亦是くの如く無分別の法を説く」已上。
 若し之に違えば永く三世の諸仏の本意に背く。他宗の祖師・各我が宗を立て法華宗と諍うこと・誤りの中の誤り、迷いの中の迷いなり。

 徴佗学(ちょうたがく)の決に之を破して云く 山王院「凡そ八万法蔵・其の行相を統(す)ぶるに四教を出でず。
頭辺(はじめ)に示すが如し。蔵通別円は即ち声聞・縁覚・菩薩・仏乗なり。真言・禅門・華厳・三論・唯識・律業・成倶(じょうく)の二論等の能所の教理争でか此の四を過ぎん。若し過ぐると言わば豈外邪(あに・げじゃ)に非ずや。若し出でずと言わば便ち他の所期(しょご)を問い得よ 即ち四乗の果なり。然して後に答へに随つて極理を推(たず)ね徴(せ)めよ。我が四教の行相を以て並べ検(かんが)えて決定せよ。彼の所期の果に於て、若し我と違わば随つて即ち之を詰めよ。且く華厳の如きは五教に各各に修因・向果有り。初・中・後の行・一ならず。一教一果是れ所期なるべし。若し蔵通別円の因と果とに非ざれば是れ仏教ならざるのみ。三種の法輪・三時の教等・中(なか)に就て定む可し。汝(なんじ)何者を以てか所期の乗と為(す)るや。若し仏乗なりと言わば未だ成仏の観行を見ず。若し菩薩と言わば此れ亦即離の中道の異なるなり。汝正しく何れを取るや。設(も)し離の辺を取らば果として成ず可き無し。如(も)し即是を要とせば仏に例して之を難ぜよ。謬つて真言を誦すとも三観一心の妙趣を会せずんば、恐くは別人に同じて妙理を証せじ。所以(ゆえ)に他の所期の極を逐うて理に準じて 我が宗の理なり 徴(せむ)べし。因明(いんみょう)の道理は外道と対す。多くは小乗及以(およ)び別教に在り。若し法華・華厳・涅槃等の経に望むれば接引門(しょういんもん)なり。権(か)りに機に対して設けたり、終に以て引進するなり。邪小の徒をして会して真理に至らしむるなり。所以(ゆえ)に論ずる時は四依撃目(しえ・きゃくもく)の志を存して之を執着すること莫れ。又須らく他の義を将(も)つて自義に対検して随つて是非を決すべし。執して之を怨むこと莫れ 大底・他は多く三教に在り。円旨至つて少きのみ
 先徳大師の所判是の如し。諸宗の所立(しょりゅう)鏡に懸けて陰り無し。末代の学者何ぞ之を見ずして妄りに教門を判ぜんや。大綱の三教を能く能く学す可し。

 頓と漸と円とは三教なり。是れ一代聖教の総の三諦なり。頓・漸の二は四十二年の説なり、円教の一は八箇年の説なり、合して五十年なり。此の外に法無し。何に由つてか之に迷わん。衆生に有る時には此(これ)を三諦と云い、仏果を成ずる時には此れを三身と云う。一物の異名なり。之を説き顕すを一代聖教と云い、之を開会(かいえ)して只一の総の三諦と成ずる時に成仏す。此(こ)こを開会と云い此を自行と云う。又他宗所立の宗宗は此の総の三諦を分別して八と為す。各各に宗を立つるに依つて円満の理を闕(か)いて成仏の理無し。是の故に余宗には実の仏無きなり。故に之を嫌う意(こころ)は不足なりと嫌うなり。
 円教を取つて一切諸法を観ずること円融・円満して十五夜の月の如く・不足無く満足し究竟すれば善悪をも嫌わず、折節をも撰ばず、静処をも求めず、人品(じんぴん)をも択(えら)ばず、一切諸法は皆是れ仏法なりと知りぬれば諸法を通達す。即ち非道を行うとも仏道を成ずるが故なり。天地水火風は是れ五智の如来なり。一切衆生の身心の中に住在して片時も離るること無きが故に、世間と出世と和合して心中に有つて心外(しんげ)には全く別の法無きなり。故に之を聞く時・立所(たちどころ)に速かに仏果を成ずること・滞り無き道理至極なり。

 総の三諦とは譬えば珠(たま)と光と宝との如し。此の三徳有るに由つて如意宝珠と云う。故に総の三諦に譬う。若し亦・珠の三徳を別別に取り放さば、何の用にも叶う可からず。隔別(きゃくべつ)の方便教の宗宗も亦是(か)くの如し。珠をば法身(ほっしん)に譬え、光をば報身に譬え、宝をば応身に譬う。此の総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌うなり。之を丸(がん)じて一と為すを総の三諦と云う。此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり。
 又寂光をば鏡に譬え、同居(どうこ)と方便と実報の三土をば鏡に遷る像(かたち)に譬う。四土も一土なり。三身も一仏なり。今は此の三身と四土と和合して仏の一体の徳なるを寂光(じゃっこう)の仏と云う。寂光の仏を以て円教の仏と為し、円教の仏を以て寤の実仏と為す。余の三土の仏は夢中の権仏なり。
 此れは三世の諸仏の只同じ語に勘文し給える総の教相なれば人の語も入らず・会釈も有らず、若し之に違わば三世の諸仏に背き奉る大罪の人なり・天魔外道なり、永く仏法に背くが故に之を秘蔵して他人には見せざれ。若し秘蔵せずして妄りに之を披露せば、仏法に証理無く、二世に冥加(みょうが)無からん。謗ずる人出来せば三世の諸仏に背くが故に・二人乍(なが)ら倶に悪道に堕(おち)んと識るが故に之を誡むるなり。能く能く秘蔵して深く此の理(ことわり)を証し、三世の諸仏の御本意に相い叶い、二聖(にしょう)・二天・十羅刹の擁護を蒙むり、滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ、須臾の間に九界生死の夢の中に還り来たつて身を十方法界の国土に遍じ、心を一切有情の身中に入れて、内よりは勧発し・外よりは引導し、内外相応し・因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し、広く衆生を利益すること滞り有る可からず。

 三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食(おぼしめ)して世間に出現し給えり。一とは中道なり・法華なり、大とは空諦なり・華厳なり、事とは仮諦なり・阿含・方等・般若なり。已上一代の総の三諦なり。之を悟り知る時・仏果を成ずるが故に出世の本懐・成仏の直道なり。因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり、此れを総じて因と云うなり。縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず・知らず・顕はれず。善知識の縁に値えば必ず顕はるるが故に縁と云うなり。
 然るに今・此の一と大と事と因と縁との五事和合して値い難き善知識の縁に値いて、五仏性を顕さんこと・何の滞りか有らんや。春の時来りて風雨の縁に値いぬれば、無心の草木も皆悉く萠え・出生して華敷(はな・さ)き栄えて世に値う気色なり。秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば、草木皆悉く実成熟(み・じょうじゅく)して一切の有情を養育し、寿命を続きて長養し、終に成仏の徳用を顕す。之を疑い・之を信ぜざる人有る可しや。無心の草木すら猶以て是くの如し、何に況んや人倫に於てをや。
 我等は迷の凡夫なりと雖も一分の心も有り・解(げ)も有り、善悪も分別し・折節を思ひ知る。然るに宿縁に催されて生を仏法流布の国土に受けたり。善知識の縁に値いなば因果を分別して成仏す可き身を以て善知識に値(あ)うと雖も、猶草木にも劣つて身中の三因仏性を顕さずして黙止(もだ)せる謂(いわ)れ・有る可きや。此の度必ず必ず生死の夢を覚まし、本覚の寤に還つて生死の紲(きづな)を切る可し。今より已後は夢中の法門を心に懸(か)く可からざるなり。三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し、障(さわ)り無く開悟す可し。
 自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰(くも)り無し。三世の諸仏の勘文是くの如し。秘す可し・秘す可し。

 弘安二年己卯(つちのとう)十月 日   日蓮  花押




by johsei1129 | 2024-10-01 15:26 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)


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