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日蓮大聖人『御書』解説

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2024年 10月 01日

人の心を貫く妙法蓮華経は宇宙に遍満し一体であると明した【三世諸仏総勘文教相廃立】二

[三世諸仏総勘文教相廃立 本文] その二
 二に自行の法とは是れ法華経八箇年の説なり。是の経は寤(うつつ)の本心を説き給う。唯衆生の思い習わせる夢中の心地なるが故に・夢中の言語を借りて寤の本心を訓(おしう)る故に、語は夢中の言語なれども意(こころ)は寤の本心を訓ゆ。法華経の文と釈との意・此くの如し。

 之を明め知らずんば経の文と釈の文とに必ず迷う可きなり。但し此の化他の夢中の法門も寤の本心に備われる徳用の法門なれば・夢中の教を取つて寤の心に摂むるが故に、四十二年の夢中の化他方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に摂まりて心の外には法無きなり。此れを法華経の開会とは云うなり。譬えば衆流を大海に納むるが如きなり。

 仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取つて己心(こしん)に摂むるが故に心の外に法無きなり。己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり。是を経に説いて云く「如是相 応身如来、如是性 報身如来、如是体 法身如来」此れを三如是と云う。此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し、十方法界を心性と為し、十方法界を相好(そうごう)と為す。是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり。法界に周編して一仏の徳用なれば一切の法は皆是仏法なりと説き給いし時、其の座席に列(つらな)りし諸の四衆・八部・畜生・外道等一人も漏れず皆悉く妄想の僻目(ひがめ)・僻思(ひがおもい)・立所(たちどころ)に散止して本覚の寤に還つて皆仏道を成ず。

 仏は寤の人の如く・衆生は夢見る人の如し。故に生死の虚夢(こむ)を醒して本覚の寤に還るを即身成仏とも・平等大慧とも・無分別法とも・皆成仏道とも云う。只一つの法門なり。
 十方の仏土は区(まちまち)に分れたりと雖も通じて法は一乗なり。方便無きが故に無分別法なり。十界の衆生は品品に異なりと雖も・実相の理(ことわり)は一なるが故に無分別なり。百界千如・三千世間の法門殊なりと雖も十界互具するが故に無分別なり。夢と寤と虚と実と各別異(おのおの・べつい)なりと雖も一心の中の法なるが故に無分別なり。過去と未来と現在とは三なりと雖も・一念の心中の理(ことわり)なれば無分別なり。

 一切経の語は夢中の語とは、譬えば扇と樹との如し。法華経の寤の心を顕す言(ことば)とは、譬えば月と風との如し。故に本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照し、実相般若の智慧の風は妄想の塵を払う。故に夢の語の扇と樹とを以て寤の心の月と風とを知らしむ。是の故に夢の余波(なごり)を散じて寤の本心に帰せしむるなり。故に止観に云く「月・重山(じゅうざん)に隠るれば扇を挙げて之に類し、風大虚(たいこ)に息(や)みぬれば樹を動かして之を訓ゆるが如し」文。弘決に云く「真常性(しんじょうしょう)の月煩悩の山に隠る。煩悩一に非ず故に名けて重と為す。円音教(えんのんぎょう)の風は化を息めて寂に帰す。寂理無礙(むげ)なること猶大虚の如し。四依の弘教は扇と樹との如し乃至月と風とを知らしむるなり已上。夢中の煩悩の雲・重畳せること山の如く、其の数八万四千の塵労にて心性本覚の月輪を隠す。扇と樹との如くなる経論の文字言語の教を以て・月と風との如くなる本覚の理を覚知せしむる聖教なり。故に文と語とは扇と樹との如し」文。上釈は一往の釈とて実義に非ざるなり。
 
 月の如くなる妙法の心性の月輪と・風の如くなる我が心の般若の慧解(えげ)とを訓え知らしむるを妙法蓮華経と名く。故に釈籤(しゃくせん)に云く「声色(しょうしき)の近名(ごんみょう)を尋ねて無相の極理に至る」と已上。声色の近名とは扇と樹との如くなる夢中の一切経論の言説なり。無相の極理とは月と風との如くなる寤の我が身の心性の寂光の極楽なり。
 此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり。四土不二にして法身の一仏なり。十界を身と為すは法身(ほっしん)なり、十界を心と為すは報身なり、十界を形と為すは応身なり。十界の外(ほか)に仏無し・仏の外に十界無くして依正不二(えしょうふに)なり・身土不二なり。一仏の身体なるを以て寂光土と云う。是の故に無相の極理とは云うなり。生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり。法性(ほっしょう)の淵底(えんでい)・玄宗の極地なり、故に極理と云う。此の無相の極理なる寂光の極楽は一切有情の心性の中に有つて清浄無漏(むろ)なり。之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり。是の故に心外無別法と云う。此れを一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり。

 生と死と二つの理は生死の夢の理なり・妄想なり・顛倒なり。本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に・死す可き終りも無し。既に生死を離れたる心法に非ずや。劫火にも焼けず・水災にも朽ちず・剣刀にも切られず・弓箭(きゅうせん)にも射られず・芥子(けし)の中に入るれども芥子も広からず・心法も縮まらず・虚空の中に満つれども虚空も広からず・心法も狭からず、善に背くを悪と云い・悪に背くを善と云う。故に心の外に善無く・悪無し。此の善と悪とを離るるを無記と云うなり。善悪無記・此の外には心無く・心の外には法無きなり。故に善悪も浄穢も、凡夫・聖人も、天地も大小も、東西も南北も、四維(しゅい)も上下も、言語道断し心行所滅す。心に分別して思い・言い顕はす言語なれば心の外には分別も無分別も無し。
 言(ことば)と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり。凡夫は我が心に迷うて知らず覚らざるなり。仏は之を悟り顕わして神通と名づくるなり。神通とは神(たましい)の一切の法に通じて礙(さわり)無きなり。此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり。故に狐狸(こり)も分分に通を現ずること・皆心の神(たましい)の分分の悟りなり。此の心の一法より国土世間も出来する事なり。一代聖教とは此の事を説きたるなり。此れを八万四千の法蔵とは云うなり。是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり。
 然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり。此の八万法蔵を我が心中に孕(はら)み持ち・懐(いだ)き持ちたり。我が身中の心を以て・仏と・法と・浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり。此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり、

 華厳経に云く「心は工(たくみ)なる画師(えし)の種種の五陰を造るが如く、一切世間の中に法として造らざること無し。心の如く・仏も亦爾なり。仏の如く衆生も然なり。三界唯一心なり。心の外に別の法無し。心・仏及び衆生、是の三差別無し」已上
 無量義経に云く「無相・不相の一法より無量義を出生す」已上。無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり。文句に釈して云く「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり。二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」云云。心の不思議を以て経論の詮要と為すなり。此の心を悟り知るを名けて如来と云う。之を悟り知つて後は、十界は我が身なり・我が心なり・我が形なり・本覚の如来は我が身心なるが故なり。之を知らざる時を名けて無明と為す。無明は明かなること無しと読むなり。我が心の有様を明らかに覚らざるなり。之を悟り知る時を名づけて法性(ほっしょう)と云う。故に無明と法性とは一心の異名なり。名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり。斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり。夢の心の無明なるを断ぜば・寤の心を失う可きが故に。総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず。故に一切の法は皆是れ仏法なりと云うなり。
 法華経に云く「如是相 一切衆生の相好・本覚の応身如来・如是性 一切衆生の心性・本覚の報身如来・如是体 一切衆生の身体・本覚の法身如来」此の三如是より後の七如是・出生して合して十如是と成れるなり。此の十如是は十法界なり。此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり。一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し。三世の諸仏の総勘文にして御判・慥(たし)かに印(おし)たる正本の文書なり。仏の御判とは実相の一印なり、印とは判の異名なり。余の一切の経には実相の印無ければ正本の文書に非ず、全く実の仏無し。実の仏無きが故に夢中の文書なり。浄土に無きが故なり。
 十法界は十なれども十如是は一なり。譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し。九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し。仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し。是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば、九法界の十如是の水中の月の如きも・一も闕減(けつげん)無く同時に皆顕れて体と用(ゆう)と一具にして一体の仏と成る。十法界を互に具足し・平等なる十界の衆生なれば虚空の本月も・水中の末月も一人の身中に具足して闕(か)くること無し。故に十如是は本末究竟(ほんまつ・くきょう)して等しく差別無し。本とは衆生の十如是なり。末とは諸仏の十如是なり。諸仏は衆生の一念の心より顕はれ給えば、衆生は是れ本なり・諸仏は是れ末なり。然るを経に云く「今此の三界は皆是我が有(う)なり。其の中の衆生は悉く是吾が子なり」已上
 仏・成道の後に化他の為の故に迹の成道を唱えて生死の夢中にして本覚の寤を説き給うなり。智慧を父に譬え・愚癡を子に譬えて是くの如く説き給えるなり。衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く・心を覆うて生死の夢に入つて本覚の理を忘れ、髪筋(かみすじ)を切る程に過去・現在・未来の三世の虚夢を見るなり。仏は寤の人の如くなれば・生死の夢に入つて衆生を驚かし給える。智慧は夢の中にて父母の如く、夢の中なる我等は子息の如くなり。此の道理を以て悉是吾子と言い給うなり。此の理を思い解けば諸仏と我等とは本の故にも父子なり、末の故にも父子なり。父子の天性(てんせい)は本末是れ同じ。斯れに由つて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に、生死の夢を覚まして本覚の寤に還(か)えるを即身成仏と云うなり。即身成仏は今我が身の上の天性・地体なり。煩(わずらい)も無く、障(さわ)りも無き衆生の運命なり・果報なり・冥加(みょうが)なり。

 夫れ以(おもんみ)れば夢の時の心を迷いに譬え、寤の時の心を悟りに譬う。之を以て一代聖教を覚悟するに跡形も無き虚夢を見て心を苦しめ・汗水と成つて驚きぬれば、我が身も家も臥所(ふしど)も一所にて異らず。夢の虚(こ)と寤の実との二事を目にも見、心にも思えども所は只一所なり。身も只一身にて二の虚(こ)と実との事有り。之を以て知んぬ可し、九界の生死の夢見る我が心も・仏界常住の寤の心も異ならず、九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変らず、心法も替らず、在所も差わざれども夢は皆虚事なり、寤は皆実事なり。
 止観に云く「昔荘周と云うもの有り。夢に胡蝶と成つて一百年を経たり。苦は多く楽は少なく、汗水と成つて驚きぬれば胡蝶にも成らず百年をも経ず、苦も無く・楽も無く、皆虚事なり皆妄想なり」已上取意。弘決に云く「無明は夢の蝶の如く三千は百年の如し。一念実無きは猶蝶に非ざるが如く、三千も亦無きこと年(とし)を積むに非ざるが如し」已上
 此の釈は即身成仏の証拠なり。夢に蝶と成る時も荘周は異ならず、寤に蝶と成らずと思う時も別の荘周無し。我が身を生死の凡夫なりと思う時は・夢に蝶と成るが如く僻目(ひがめ)・僻思(ひがおもい)なり。我が身は本覚の如来なりと思う時は本(もと)の荘周なるが如し、即身成仏なり。蝶の身を以て成仏すと云うに非ざるなり。蝶と思うは虚事なれば成仏の言は無し、沙汰の外の事なり。無明は夢の蝶の如しと判ずれば我等が僻思(ひがおもい)は猶昨日の夢の如く・性体無き妄想なり。誰の人か虚夢の生死を信受して疑ひを常住涅槃の仏性に生ぜんや。
 止観に云く「無明の癡惑(ちわく)本より是れ法性なり。癡迷(ちめい)を以ての故に法性(ほっしょう)変じて無明と作り、諸の顛倒(てんどう)の善・不善等を起す。寒来りて水を結べば変じて堅冰(けんぴょう)と作るが如く、又眠り来たりて心を変ずれば種種の夢有るが如し。今当に諸の顛倒は即ち是法性なり。一ならず異ならずと体すべし。顛倒起滅すること旋火輪(せんかりん)の如しと雖も・顛倒の起滅を信ぜずして唯此の心・但是れ法性なりと信ず。起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅なり。其れを体するに実には起滅せざるを妄りに起滅すと謂えり。只妄想を指すに悉く是れ法性なり。法性を以て法性に繋け、法性を以て法性を念ず。常に是れ法性なり、法性ならざる時無し」已上。

 是くの如く法性ならざる時の隙(ひま)も無き理の法性に、夢の蝶の如く無明に於て実有(じつう)の思ひを生じて之に迷うなり。止観の九に云く「譬えば眠りの法・心を覆うて一念の中に無量世の事を夢みるが如し・乃至寂滅真如に何の次位か有らん・乃至一切衆生即大涅槃なり・復(また)滅す可からず。何の次位・高下・大小有らんや。不生不生(ふしょう・ぶしょう)にして不可説なれども因縁有るが故に亦説くことを得可し。十因縁の法・生の為に因と作(な)る。虚空に画き、方便して樹を種(うゆ)るが如し。一切の位を説くのみ」已上
 十法界の依報・正報は法身の仏・一体三身の徳なりと知つて・一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する。是を名字即と為す。名字即の位より即身成仏す。故に円頓の教には次位の次第無し。故に玄義に云く「末代の学者多く経論の方便の断伏を執して諍闘す。水の性の冷やゝかなるが如きも飲まずんば安(いずく)んぞ知らん」已上
 天台の判に云く「次位の綱目は仁王・瓔珞に依り、断伏の高下は大品・智論に依る」已上。仁王・瓔珞(ようらく)・大品・大智度論、是の経論は皆法華已前の八教の経論なり。権教の行は無量劫を経て昇進する次位なれば位の次第を説けり。
 今法華は八教に超えたる円なれば速疾頓成にして心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば、下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る。一と多と相即すれば一位に一切の位・皆是れ具足せり。故に一生に入るなり。下根すら是くの如し、況んや中根の者をや、何に況んや上根をや。実相の外に更に別の法無し。実相には次第無きが故に位無し。

 総じて一代の聖教は一人の法なれば・我が身の本体を能く能く知る可し。之を悟るを仏と云い、之に迷うは衆生なり。此れは華厳経の文の意なり。弘決の六に云く「此の身の中に具(つぶ)さに天地に倣(なら)うことを知る。頭の円(まど)かなるは天に象(かたど)り、足の方なるは地に象ると知り、身の内の空種(うつろ)なるは即ち是れ虚空なり、腹の温かなるは春夏に法(のっ)とり、背の剛(こわ)きは秋冬に法とり、四体は四時に法とり、大節の十二は十二月に法とり、小節の三百六十は三百六十日に法とり、鼻の息の出入は山沢渓谷(さんたくけいこく)の中の風に法とり、口の息の出入は虚空の中の風に法とり、眼は日月に法とり、開閉は昼夜に法とり、髪は星辰に法とり眉は北斗に法とり、脈は江河に法とり、骨は玉石に法とり、皮肉は地土に法とり、毛は叢林(そうりん)に法とり、五臓は天に在つては五星に法とり、地に在つては五岳に法とり、陰・陽(おん・よう)に在つては五行に法とり、世に在つては五常に法とり、内に在つては五神に法とり、行を修するには五徳に法とり、罪を治むるには五刑に法とる。謂く・墨(ぼく)・劓(ぎ)・剕(ひ)・宮(きゅう)・大辟(たいへき) 此の五刑は人を様様に之を傷ましむ・其の数三千の罰有り此を五刑と云う 主領(しゅりょう)には五官と為す、五官は下の第八の巻に博物誌を引くが如し。謂く・苟萠(こうぼう)等なり。
 天に昇つては五雲と曰い・化して五竜と為る。心を朱雀(すざく)と為し・腎(じん)を玄武と為し・肝を青竜と為し・肺を白虎(びゃっこ)と為し・脾(ひ)を勾陳(こうちん)と為す」又云く「五音・五明・六藝(りくげい)・皆此れより起る。亦復当に内治の法を識るべし。覚心(かくしん)内に大王と為つては百重の内に居り、出でては則ち五官に侍衛(じえい)せ為(ら)る。肺をば司馬と為し・肝をば司徒と為し・脾をば司空と為し・四支をば民子(みんし)と為し・左をば司命と為し・右をば司録と為し・人命を主司(しゅし)す。乃至臍(ほぞ)をば太一君(たいいっくん)等と為すと。禅門の中に広く其の相を明す」已上
 人身の本体・委(くわし)く検(けん)すれば是くの如し。然るに此の金剛不壊(ふえ)の身を以て生滅無常の身なりと思う僻思(ひがおもい)は、譬えば荘周が夢の蝶の如しと釈し給えるなり。

 五行とは地水火風空なり。五大種とも・五薀(おん)とも・五戒とも・五常とも・五方とも・五智とも・五時とも云う。只一物・経経の異説なり、内典・外典・名目の異名なり。今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり。是則ち妙法蓮華経の五字なり。此の五字を以て人身の体を造るなり。本有常住なり・本覚の如来なり。是を十如是と云う。此を唯仏与仏・乃能究尽と云う。不退の菩薩と極果の二乗と少分(すこし)も知らざる法門なり。然るを円頓の凡夫は初心より之を知る故に即身成仏するなり、金剛不壊(ふえ)の体なり。
 是を以て明らかに知んぬ可し、天崩(くず)れば我が身も崩る可し、地裂(さ)けば我が身も裂く可し、地水火風・滅亡せば我が身も亦滅亡すべし。然るに此の五大種は過去・現在・未来の三世は替ると雖も五大種は替ること無し。

 正法と像法と末法との三時殊なりと雖も五大種は是れ一にして盛衰転変無し。薬草喩品の疏(しょ)には円教の理は大地なり、円頓の教は空の雨なり、亦三蔵教・通教・別教の三教は三草と二木となり。其の故は此の草木は円理の大地より生じて円教の空の雨に養われて五乗の草木は栄うれども、天地に依つて我栄えたりと思ひ知らざるに由るが故に三教の人天・二乗・菩薩をば草木に譬えて不知恩と説かれたり。故に草木の名を得(う)。今法華に始めて五乗の草木は円理の母と円教の父とを知るなり。一地の所生なれば母の恩を知るが如く、一雨の所潤(しょにん)なれば父の恩を知るが如し。薬草喩品の意(こころ)・是くの如くなり。

 釈迦如来・五百塵点劫の当初(そのかみ)・凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知(しろ)しめして即座に悟(さとり)を開き給いき。後に化他の為に世世・番番に出世・成道し、在在・処処に八相作仏し、王宮に誕生し、樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す。其の後・方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して・其の中に四十二年の方便の諸経を丸(まろ)かし納れて一仏乗と丸(がん)し、人一(にんいち)の法と名く。一人が上の法なり。
 多人の綺(いろ)えざる正しき文書を造つて慥(たし)かな御判の印あり。三世諸仏の手継(てつ)ぎの文書(もんじょ)を釈迦仏より相伝せられし時に、三千三百万億那由佗の国土の上の虚空の中に満ち塞(ふさ)がれる若干(そこばく)の菩薩達の頂を摩(な)で尽して、時を指して末法近来(このごろ)の我等衆生の為に、慥(たし)かに此の由を説き聞かせて仏の譲状(ゆずりじょう)を以て末代の衆生に慥かに授与す可しと・慇懃(おんごん)に三度まで同じ御語に説き給いしかば、若干の菩薩達・各(おのおの)数を尽して身を曲げ、頭を低(た)れ、三度まで同じ言に各我も劣らじと事請(ことうけ)を申し給いしかば、仏・心安く思食(おぼしめ)して本覚の都に還えり給う。
 三世の諸仏の説法の儀式・作法には只同じ御言に時を指したる末代の譲状なれば、只一向に後五百歳を指して此の妙法蓮華経を以て成仏す可き時なりと、譲状の面(おもて)に載せられたる手継(てつ)ぎ証文なり。





by johsei1129 | 2024-10-01 11:01 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)


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