2019年 10月 22日
[法蓮抄 本文] その三 彼の諷誦(ふうじゅ)に云く「慈父閉眼の朝(あした)より第十三年の忌辰に至るまで、釈迦如来の御前に於て自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向す」等云云。 当時日本国の人・仏法を信じたるやうには見へて候へども、古(いにしえ)いまだ仏法のわたらざりし時は仏と申す事も・法と申す事も知らず候しを、守屋と上宮太子と合戦の後、信ずる人もあり又信ぜざるもあり。漢土も此くの如し。摩騰(まとう)・漢土に入つて後、道士と諍論あり。道士まけしかば始めて信ずる人もありしかども不信の人多し。 されば烏竜(おりょう)と申せし能書は手跡(しゅせき)の上手なりしかば人之を用ゆ。然れども仏経に於てはいかなる依怙(たのみ)ありしかども書かず。最後臨終の時、子息・遺竜(いりょう)を召して云く、汝・我が家に生れて芸能をつぐ。我が孝養には仏経を書くべからず。殊に法華経を書く事なかれ。我が本師の老子は天尊なり。天に二つの日なし。而(しかる)に彼の経に唯我一人と説く。きくわい(奇怪)第一なり。若し遺言を違へて書く程ならば、忽ちに悪霊となりて命を断つべしと云つて舌八つにさけて・頭(こうべ)七分に破れ、五根より血を吐いて死し畢んぬ。されども其の子善悪を弁へざれば・我が父の謗法のゆへに悪相現じて阿鼻地獄に堕ちたりともしらず。遺言にまかせて仏経を書く事なし。況んや口に誦(ず)する事あらんをや。 かく過ぎ行く程に時の王を司馬氏と号し奉る。御仏事のありしに書写の経あるべしとて漢土第一の能書を尋ねらるるに遺竜に定まりぬ。召して仰せ付けらるるに再三辞退申せしかば、力及ばずして他筆にて一部の経を書かせられけるが、帝王心よからず尚遺竜を召して仰せに云く、汝・親の遺言とて朕(ちん)が経を書かざる事、其の謂(いわれ)無しと雖も且く之を免ず。但題目計りは書くべしと三度勅定あり。遺竜・猶辞退申す。大王竜顔心よからずして云く、天地・尚王の進退なり。然らば汝が親は即ち我が家人にあらずや。私をもつて公事を軽んずる事あるべからず。題目計りは書くべし。若し然らずんば仏事の庭なりといへども速(すみ)やかに汝が頭を刎ぬべしとありければ題目計り書けり。所謂妙法蓮華経巻第一・乃至巻第八等云云。其の暮(たそがれ)に私宅に帰りて歎いて云く、我・親の遺言を背き、王勅術(すべ)なき故に仏経を書きて不孝の者となりぬ。天神も地祇も定んで瞋り、不孝の者とおぼすらんとて寝(いぬ)る。 夜の夢の中に大光明・出現せり。朝日の照すかと思へば天人一人・庭上に立ち給へり、又無量の眷属あり。此の天人の頂上の虚空に仏・六十四仏まします。 遺竜・合掌して問うて云はく、如何なる天人ぞや。 答えて云く、我は是れ汝が父の烏竜(おりゅう)なり。仏法を謗ぜし故に舌八つにさけ、五根より血を出し、頭七分に破れて無間地獄に堕ちぬ。彼の臨終の大苦をこそ堪忍すべしともおぼへざりしに、無間の苦は尚百千億倍なり。人間にして鈍刀をもて爪をはなち、鋸(のこぎり)をもて頚(くび)をきられ、炭火の上を歩(あゆ)ばせ、棘(いばら)にこ(籠)められなんどせし人の苦を此の苦にたとへば・かずならず。如何(いかに)してか我が子に告げんと思いしかども・かなはず。臨終の時・汝を誡(いましめ)て仏経を書くことなかれと遺言せし事のくやしさ申すばかりなし。後悔先にたたず。我が身を恨み・舌をせめしかども・かひなかりしに、昨日の朝より法華経の始めの妙の一字・無間地獄のかなへ(鼎)の上に飛び来たつて変じて金色の釈迦仏となる。 此の仏・三十二相を具し・面貌(めんみょう)満月の如し。大音声を出して説いて云く「仮令(たとい)法界に遍く善を断ちたる諸の衆生も、一たび法華経を聞かば決定(けつじょう)して菩提を成ぜん」云云。此の文字の中より大雨降りて無間地獄の炎をけす。閻魔王は冠をかたぶけて敬ひ、獄卒は杖をすてて立てり。一切の罪人はいかなる事ぞとあはて(周章)たり。又法の一字来たれり前の如し。又蓮・又華・又経・此くの如し。六十四字来つて六十四仏となりぬ。無間地獄に仏・六十四体ましませば日月の六十四が天(そら)に出でたるごとし。天より甘露をくだして罪人に与ふ。 抑(そもそも)此等の大善は何(いか)なる事ぞと罪人等・仏に問い奉りしかば、六十四の仏の答へに云はく、我等が金色の身は栴檀宝山(せんだん・ほうざん)よりも出現せず。是は無間地獄にある烏竜が子の遺竜が書ける法華経八巻の題目の八八・六十四の文字なり。彼の遺竜が手は烏竜が生める処の身分なり。書ける文字は烏竜が書くにてあるなりと説き給いしかば、無間地獄の罪人等は我等も娑婆にありし時は子もあり・婦(つま)もあり・眷属もありき、いかに・とぶらはぬやらん、又訪(とぶら)へども善根の用の弱くして来たらぬやらんと歎けども・歎けども甲斐なし。或は一日・二日・一年二年・半劫・一劫になりぬるに、かかる善知識にあひ奉つて助けられぬるとて、我等も眷属となりて忉利天(とうりてん)にのぼるか。先ず汝をおがまんとて来たるなりと・かたりしかば、夢の中にうれしさ身にあまりぬ。別れて後・又いつの世にか見んと思いし親のすがたをも見奉り、仏をも拝し奉りぬ。 六十四仏の物語に云く、我等は別の主なし。汝は我等が檀那なり。今日よりは汝を親と守護すべし。汝をこたる事なかれ。一期の後は必ず来たつて都率(とそつ)の内院へ導くべしと御約束ありしかば、遺竜ことに畏(かしこ)みて誓いて云く、今日以後・外典の文字を書く可からず等云云。彼の世親菩薩が小乗経を誦せじと誓い、日蓮が弥陀念仏を申さじと願(がん)せしがごとし。 さて夢さめて此の由を王に申す。大王の勅宣に云く、此の仏事・已に成じぬ。此の由を願文に書き奉れとありしかば勅宣の如くにし、さてこそ漢土・日本国は法華経にはならせ給いけれ。此の状は漢土の法華伝記に候。
是は書写の功徳なり、五種法師の中には書写は最下の功徳なり。何に況んや読誦(どくじゅ)なんど申すは無量無辺の功徳なり。今の施主・十三年の間、毎朝・読誦せらるる自我偈の功徳は唯仏与仏・乃能究尽なるべし。 夫れ法華経は一代聖教の骨髄なり。自我偈は二十八品のたましひなり。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。自我偈の功徳をば私に申すべからず。次下に分別功徳品に載せられたり。此の自我偈を聴聞して仏になりたる人人の数をあげて候には、小千・大千・三千世界の微塵の数をこそ・あげて候へ。其の上・薬王品已下の六品得道のもの、自我偈の余残なり。 涅槃経四十巻の中に集りて候いし五十二類にも自我偈の功徳をこそ仏は重ねて説かせ給いしか。されば初め寂滅道場に十方世界微塵数の大菩薩・天人等・雲の如くに集りて候いし大集・大品の諸聖も、大日経・金剛頂経等の千二百余尊も、過去に法華経の自我偈を聴聞してありし人人、信力よはくして三五の塵点(じんでん)を経しかども、今度・釈迦仏に値い奉りて法華経の功徳すすむ故に・霊山をまたずして爾前の経経を縁として得道なると見えたり。 されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う。世界の人の父母の如し。今法華経・寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり。我が得道なりし経を持つ人を・捨て給う仏あるべしや。若し此れを捨て給はば仏還つて我が身を捨て給うなるべし。これを以て思うに田村利仁(としひと)なんどの様なる兵(つわもの)を三千人生みたらん女人あるべし。此の女人を敵(かたき)とせん人は此の三千人の将軍をかたきに・うくるにあらずや。法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは、三世の諸仏を敵とするになるべし。 今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼なれば文字と見るなり。たとへば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり。此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず、肉眼は黒色と見る、二乗は虚空と見、菩薩は種種の色と見、仏種・純熟せる人は仏と見奉る。されば経文に云く「若し能く持つこと有るは即ち仏身を持つなり」等云云。天台の云く「稽首・妙法蓮華経一帙(いっちつ)・八軸・四七品・六万九千三八四・一一文文・是真仏・真仏説法利衆生」等と書かれて候。 之を以て之を案ずるに法蓮法師は毎朝口より金色の文字を出現す。此の文字の数は五百十字なり。一一の文字変じて日輪となり、日輪変じて釈迦如来となり、大光明を放つて大地をつきとをし、三悪道・無間大城を照し、乃至東西南北・上方に向つては非想・非非想へものぼり、いかなる処にも過去聖霊のおはすらん処まで尋ね行き給いて彼の聖霊に語り給うらん。我をば誰とか思食(おぼしめ)す。我は是れ汝が子息・法蓮が毎朝誦する所の法華経の自我偈の文字なり。此の文字は汝が眼とならん、耳とならん、足とならん、手とならんとこそ、ねんごろに語らせ給うらめ。其の時・過去聖霊は我が子息・法蓮は子にはあらず、善知識なりとて娑婆世界に向つておがませ給うらん。是こそ実の孝養にては候なれ。 抑・法華経を持つと申すは、経は一なれども持つ事は時に随つて色色なるべし。或は身肉をさひて師に供養して仏になる時もあり、又身を牀(ゆか)として師に供養し又身を薪(たきぎ)となし、又此の経のために杖木をかほり又精進し又持戒し、上の如くすれども仏にならぬ時もあり。時に依つて不定なるべし。されば天台大師は「時に適(かな)う而已(のみ)」と書かれ、章安大師は「取捨宜しきを得て一向にすべからず」等云云。 問うて云く、何なる時か身肉を供養し、何なる時か持戒なるべき。 答えて云く、智者と申すは此くの如き時を知りて法華経を弘通するが第一の秘事なり。たとへば渇者(かっしゃ)は水こそ用うる事なれ、弓箭兵杖(きゅうせん・へいじょう)はよしなし。裸(はだか)なる者は衣を求む・水は用なし。一をもつて万を察すべし。大鬼神ありて法華経を弘通せば身を布施すべし、余の衣食は詮なし。悪王あつて法華経を失わば身命をほろぼすとも随うべからず。持戒精進の大僧等・法華経を弘通するやうにて而も失うならば是を知つて責むべし。法華経に云く「我身命を愛せず但(た)だ無上道を惜しむ」云云。涅槃経に云く「寧ろ身命を喪うとも終に王の所説の言教を匿(かく)さざれ」等云云。章安大師の云く「寧喪(にょそう)身命・不匿教(ふのくきょう)とは身は軽く法は重し。身を死(ころ)して法を弘む」等云云。 然るに今日蓮は外見の如くば日本第一の僻人(びゃくにん)なり。我が朝六十六箇国・二の島の百千万億の四衆・上下万人に怨まる。仏法・日本国に渡つて七百余年、いまだ是程(これほど)に法華経の故に諸人に悪まれたる者なし。月氏・漢土にもありとも・きこえず又あるべしとも・おぼへず。されば一閻浮提第一の僻人(びゃくにん)ぞかし。かかるものなれば上には一朝の威を恐れ、下には万民の嘲(あざけり)を顧みて親類もとぶらはず、外人(よそびと)は申すに及ばず。出世の恩のみならず世間の恩を蒙りし人も諸人の眼を恐れて口をふさがんためにや、心に思はねども・そしるよしをなす。数度事にあひ・両度御勘気を蒙りしかば、我が身の失(とが)に当るのみならず、行通(ゆきこう)人人の中にも或は御勘気、或は所領をめされ、或は御内(みうち)を出だされ、或は父母兄弟に捨てらる。されば付きし人も捨てはてぬ、今又付く人もなし。 殊に今度の御勘気には死罪に及ぶべきが、いかが思はれけん、佐渡の国につかはされしかば、彼の国へ趣く者は・死は多く、生は稀なり。からくして行きつきたりしかば殺害・謀叛の者よりも猶重く思はれたり。鎌倉を出でしより日日に強敵かさなるが如し。ありとある人は念仏の持者なり。野を行き・山を行くにも・そばひら(岨坦)の草木の風に随つてそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ。 やうやく国にも付きぬ。北国の習ひなれば冬は殊に風はげしく・雪ふかし。衣(ころも)薄く・食とも(乏)し。根を移されし橘(たちばな)の自然にからたち(枳)となりけるも身の上につみしられたり。栖にはおばな(尾花)・かるかや(苅萱)おひしげれる野中の三昧ばらに、おちやぶれたる草堂の上は雨もり、壁は風もたまらぬ傍(かたわ)らなり。昼夜・耳に聞く者はまくら(枕)にさゆる風の音、朝に眼に遮(さえぎ)る者は遠近(おちこち)の路を埋む雪なり。現身に餓鬼道を経、寒地獄に堕ちぬ。彼の蘇武が十九年の間・胡国に留められて雪を食し、李陵が巌窟に入つて六年・蓑をきて・すごしけるも我が身の上なりき。 今適(たまたま)御勘気ゆりたれども鎌倉中にも且くも身をやどし、迹(あと)を・とどむべき処なければ、かかる山中の石(いわ)のはざま(間)、松の下に身を隠し・心を静むれども、大地を食とし・草木を著(き)ざらんより外は食もなく・衣(ころも)も絶えぬる処に、いかなる御心ねにて・かく・かきわ(掻分)けて御訪(とぶら)ひのあるやらん。知らず過去の我が父母の御神(みたましい)の・御身に入りかはらせ給うか。又知らず大覚世尊の御めぐみにや・あるらん。涙こそ・おさへがたく候へ。 問うて云く、抑(そもそも)正嘉の大地震・文永の大彗星を見て自他の叛逆、我が朝に法華経を失う故としらせ給うゆへ如何。 答えて云く、此の二の天災・地夭は外典三千余巻にも載せられず。三墳・五典・史記等に記する処の大長星・大地震は或は一尺二尺・一丈二丈・五丈六丈なり。いまだ一天には見へず、地震も又是くの如し。内典を以て之を勘うるに、仏御入滅・已後はかかる大瑞出来せず。月支には弗沙密多羅(ほっしゃみったら)王の五天の仏法を亡し、十六大国の寺塔を焼き払い、僧尼の頭をはねし時もかかる瑞はなし。漢土には会昌(えしょう)天子の寺院・四千六百余所をとどめ、僧尼・二十六万五百人を還俗せさせし時も出現せず。我が朝には欽明の御宇に仏法渡りて守屋・仏法に敵せしにも、清盛法師・七大寺を焼き失い・山僧等・園城寺を焼亡(しょうもう)せしにも出現せざる大彗星なり。 当に知るべし、是よりも大事なる事の一閻浮提の内に出現すべきなりと勘えて立正安国論を造りて最明寺入道殿に奉る。彼の状に云く 詮取 此の大瑞は他国より此の国をほろぼすべき先兆なり。禅宗・念仏宗等が法華経を失う故なり。彼の法師原が頚(くび)をきりて鎌倉ゆゐ(由比)の浜にすてずば・国正に亡ぶべし等云云。其の後・文永の大彗星の時は又手ににぎりて之を知る。去(いぬる)文永八年九月十二日の御勘気の時・重ねて申して云く、予は日本国の棟梁なり、我を失うは国を失うなるべしと。今は用いまじけれども後のためにとて申しにき。又去年(こぞ)の四月八日に平左衛門尉に対面の時、蒙古国は何比(いつごろ)かよせ候べきと問うに、答えて云く、経文は月日をささず。但し天眼のいかり頻りなり。今年をばすぐべからずと申したりき。是等は如何にして知るべしと人疑うべし。予・不肖の身なれども法華経を弘通する行者を王臣・人民之を怨む間、法華経の座にて守護せんと誓ひをなせる地神・いかりをなして身をふるひ、天神・身より光を出して此の国をおどす。いかに諌むれども用いざれば、結局は人の身に入つて自界叛逆せしめ・他国より責むべし。 問うて云く、此の事・何なる証拠あるや。 答う、経に云く「悪人を愛敬し・善人を治罰するに由るが故に、星宿及び風雨・皆時を以て行わず」等云云。夫れ天地は国の明鏡なり。今此の国に天災地夭あり。知るべし国主に失ありと云う事を。鏡にうかべたれば之を諍うべからず。国主・小禍のある時は天鏡に小災見ゆ、今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を。仁王経には小難は無量なり・中難は二十九・大難は七とあり。此の経をば一には仁王と名づけ、二には天地鏡(てんじきょう)と名づく。此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり。又此の経文に云く「聖人去らん時は七難必ず起る」等云云。当に知るべし此の国に大聖人有りと。又知るべし、彼の聖人を国主信ぜずと云う事を。 問うて云く、先代に仏寺を失ひし時、何ぞ此の瑞なきや。 答えて云く、瑞は失(とが)の軽重によりて大小あり。此の度の瑞は怪むべし。一度二度にあらず・一返二返にあらず、年月をふるままに弥(いよいよ)盛んなり。之を以て之を察すべし。先代の失よりも過ぎたる国主に失あり。国主の身にて万民を殺し・又万臣を殺し・又父母を殺す失よりも聖人を怨む事・彼に過ぐる事を。今日本国の王臣並びに万民には月氏・漢土総じて一閻浮提に仏滅後・二千二百二十余年の間、いまだなき大科・人(ひと)ごとにあるなり。譬えば十方世界の五逆の者を一処に集めたるが如し。 此の国の一切の僧は皆提婆・瞿伽利(くぎゃり)が魂を移し、国主は阿闍世王・波瑠璃王の化身なり。一切の臣民は雨行(うぎょう)大臣・月称(がっしょう)大臣・刹陀(せつだ)・耆利(ぎり)等の悪人をあつめて日本国の民となせり。古は二人・三人・逆罪不孝の者ありしかばこそ・其の人の在所は大地も破れて入りぬれ。今は此の国に充満せる故に日本国の大地・一時にわれ無間に堕ち入らざらん外は、一人二人の住所の堕つべきやうなし。例せば老人の一二の白毛(しらが)をば抜けども、老耄(ろうもう)の時は皆白毛なれば何を分けて抜き捨つべき、只一度に剃捨(そりすつ)る如くなり。 問うて云く、汝が義の如きは我が法華経の行者なるを用いざるが故に天変地夭等ありと。法華経第八に云く「頭破れて七分と作らん」と。第五に云く「若し人悪(にく)み罵れば口・則ち閉塞す」等云云。如何ぞ数年が間・罵(のる)とも怨(あだむ)とも其の義なきや。 答う、反詰して云く、不軽菩薩を毀訾(きし)し罵詈し打擲(ちょうちゃく)せし人は口閉頭破(こうへい・ずは)ありけるか如何。 問う、然れば経文に相違する事如何。 答う、法華経を怨む人に二人あり。一人は先生(せんじょう)に善根ありて・今生に縁を求めて菩提心を発して仏になるべき者は、或は口閉ぢ・或は頭破(わ)る。 一人は先生に謗人なり、今生にも謗じ、生生に無間地獄の業を成就せる者あり。是はのれども口則ち閉塞せず。譬えば獄に入つて死罪に定まる者は、獄の中にて何なる僻事あれども、死罪を行うまでにて別の失なし。ゆり(免)ぬべき者は獄中にて僻事(ひがごと)あれば・これをいましむるが如し。 問うて云く、此の事第一の大事なり、委細に承わるべし。 答えて云く、涅槃経に云く、法華経に云く云云。 日蓮 花押
by johsei1129
| 2019-10-22 09:12
| 重要法門(十大部除く)
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