日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2014年 04月 21日

十方世界の諸仏は法華経寿量品を師として仏になったと明した書【法蓮抄】三

[法蓮抄 本文] その三
彼の諷誦に云く「慈父閉眼の朝より第十三年の忌辰に至るまで釈迦如来の御前に於て自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向す」等云云、当時日本国の人仏法を信じたるやうには見へて候へども古いまだ仏法のわたらざりし時は仏と申す事も法と申す事も知らず候しを守屋と上宮太子と合戦の後信ずる人もあり又信ぜざるもあり、漢土も此くの如し摩騰・漢土に入つて後・道士と諍論あり道士まけしかば始て信ずる人もありしかども不信の人多し、されば烏竜と申せし能書は手跡の上手なりしかば人之を用ゆ、然れども仏経に於てはいかなる依怙ありしかども書かず最後臨終の時・子息遺竜を召して云く汝我が家に生れて芸能をつぐ我が孝養には仏経を書くべからず殊に法華経を書く事なかれ、我が本師の老子は天尊なり天に二つの日なし而に彼の経に唯我一人と説くきくわい第一なり、若し遺言を違へて書く程ならば忽に悪霊となりて命を断つべしと云つて舌八つにさけて頭七分に破れ五根より血を吐いて死し畢んぬ、されども其の子善悪を弁へざれば我が父の謗法のゆへに悪相現じて阿鼻地獄に堕ちたりともしらず遺言にまかせて仏経を書く事なし況や口に誦する事あらんをや、かく過ぎ行く程に時の王を司馬氏と号し奉る御仏事のありしに書写の経あるべしとて漢土第一の能書を尋ねらるるに遺竜に定まりぬ、召して仰せ付けらるるに再三辞退申せしかば力及ばずして他筆にて一部の経を書かせられけるが、帝王心よからず尚遺竜を召して仰せに云く汝親の遺言とて朕が経を書かざる事其の謂無しと雖も且く之を免ず但題目計りは書くべしと三度勅定あり、遺竜猶辞退申す大王竜顔心よからずして云く天地尚王の進退なり、然らば汝が親は即ち我が家人にあらずや、私をもつて公事を軽んずる事あるべからず、題目計りは書くべし若し然らずんば、仏事の庭なりといへども速に汝が頭を刎ぬべしとありければ題目計り書けり、所謂妙法蓮華経巻第一・乃至巻第八等云云、其の暮に私宅に帰りて歎いて云く我親の遺言を背き王勅術なき故に仏経を書きて不孝の者となりぬ天神も地祇も定んで瞋り不孝の者とおぼすらんとて寝る、夜の夢の中に大光明出現せり朝日の照すかと思へば天人一人庭上に立ち給へり又無量の眷属あり、此の天人の頂上の虚空に仏・六十四仏まします、遺竜・合掌して問うて云く如何なる天人ぞや、答えて云く我は是れ汝が父の烏竜なり仏法を謗ぜし故に舌八つにさけ五根より血を出し頭七分に破れて無間地獄に堕ちぬ、彼の臨終の大苦をこそ堪忍すべしともおぼへざりしに無間の苦は尚百千億倍なり、人間にして鈍刀をもて爪をはなち鋸をもて頚をきられ炭火の上を歩ばせ棘にこめられなんどせし人の苦を此の苦にたとへば・かずならず、如何してか我が子に告げんと思いしかどもかなはず、臨終の時・汝を誡て仏経を書くことなかれと遺言せし事のくやしさ申すばかりなし、後悔先にたたず我が身を恨み舌をせめしかども・かひなかりしに昨日の朝より法華経の始の妙の一字・無間地獄のかなへの上に飛び来つて変じて金色の釈迦仏となる、此の仏三十二相を具し面貌満月の如し、大音声を出して説て云く「仮令法界に遍く善を断ちたる諸の衆生も一たび法華経を聞かば決定して菩提を成ぜん」云云、此の文字の中より大雨降りて無間地獄の炎をけす閻魔王は冠をかたぶけて敬ひ獄卒は杖をすてて立てり、一切の罪人はいかなる事ぞとあはてたり、又法の一字来れり前の如し又蓮・又華・又経・此くの如し六十四字来つて六十四仏となりぬ、無間地獄に仏・六十四体ましませば日月の六十四が天に出たるごとし、天より甘露をくだして罪人に与ふ、抑此等の大善は何なる事ぞと罪人等仏に問い奉りしかば六十四の仏の答に云く我等が金色の身は栴檀宝山よりも出現せず是は無間地獄にある烏竜が子の遺竜が書ける法華経八巻の題目の八八・六十四の文字なり、彼の遺竜が手は烏竜が生める処の身分なり、書ける文字は烏竜が書くにてあるなりと説き給いしかば無間地獄の罪人等は我等も娑婆にありし時は子もあり婦もあり眷属もありき、いかに・とぶらはぬやらん又訪へども善根の用の弱くして来らぬやらんと歎けども歎けども甲斐なし、或は一日・二日・一年二年・半劫・一劫になりぬるにかかる善知識にあひ奉つて助けられぬるとて我等も眷属となりてとう利天にのぼるか、先ず汝をおがまんとて来るなりとかたりしかば、夢の中にうれしさ身にあまりぬ、別れて後又いつの世にか見んと思いし親のすがたをも見奉り仏をも拝し奉りぬ、六十四仏の物語に云く我等は別の主なし汝は我等が檀那なり、今日よりは汝を親と守護すべし汝をこたる事なかれ、一期の後は必ず来つて都率の内院へ導くべしと御約束ありしかば遺竜ことに畏みて誓いて云く今日以後外典の文字を書く可からず等云云、彼の世親菩薩が小乗経を誦せじと誓い日蓮が弥陀念仏を申さじと願せしがごとし、さて夢さめて此の由を王に申す、大王の勅宣に云く此の仏事已に成じぬ此の由を願文に書き奉れとありしかば勅宣の如くにし、さてこそ漢土・日本国は法華経にはならせ給いけれ、此の状は漢土の法華伝記に候。

 是は書写の功徳なり、五種法師の中には書写は最下の功徳なり、何に況や読誦なんど申すは無量無辺の功徳なり。今の施主・十三年の間・毎朝読誦せらるる自我偈の功徳は唯仏与仏・乃能究尽なるべし。

 夫れ法華経は一代聖教の骨髄なり自我偈は二十八品のたましひなり、三世の諸仏は寿量品を命とし十方の菩薩も自我偈を眼目とす、自我偈の功徳をば私に申すべからず次下に分別功徳品に載せられたり、此の自我偈を聴聞して仏になりたる人人の数をあげて候には小千・大千・三千世界の微塵の数をこそ・あげて候へ
、其の上薬王品已下の六品得道のもの自我偈の余残なり。
 涅槃経四十巻の中に集りて候いし五十二類にも自我偈の功徳をこそ仏は重ねて説かせ給いしか。されば初め寂滅道場に十方世界微塵数の大菩薩・天人等・雲の如くに集りて候いし大集・大品の諸聖も大日経・金剛頂経等の千二百余尊も過去に法華経の自我偈を聴聞してありし人人、信力よはくして三五の塵点を経しかども今度・釈迦仏に値い奉りて法華経の功徳すすむ故に霊山をまたずして爾前の経経を縁として得道なると見えたり。

 されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う世界の人の父母の如し、今法華経・寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり、我が得道なりし経を持つ人を捨て給う仏あるべしや、若し此れを捨て給はば仏還つて我が身を捨て給うなるべし、これを以て思うに田村利仁なんどの様なる兵を三千人生みたらん女人あるべし、此の女人を敵とせん人は此の三千人の将軍をかたきに・うくるにあらずや、法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは三世の諸仏を敵とするになるべし、今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり、たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見・菩薩は種種の色と見・仏種・純熟せる人は仏と見奉る、されば経文に云く「若し能く持つこと有るは・即ち仏身を持つなり」等云云、天台の云く「稽首妙法蓮華経一帙・八軸・四七品・六万九千三八四・一一文文・是真仏・真仏説法利衆生」等と書かれて候。

之を以て之を案ずるに法蓮法師は毎朝口より金色の文字を出現す此の文字の数は五百十字なり、一一の文字変じて日輪となり日輪変じて釈迦如来となり大光明を放つて大地をつきとをし三悪道・無間大城を照し乃至東西南北・上方に向つては非想・非非想へものぼりいかなる処にも過去聖霊のおはすらん処まで尋ね行き給いて彼の聖霊に語り給うらん、我をば誰とか思食す我は是れ汝が子息・法蓮が毎朝誦する所の法華経の自我偈の文字なり、此の文字は汝が眼とならん耳とならん足とならん手とならんとこそ・ねんごろに語らせ給うらめ、其の時・過去聖霊は我が子息・法蓮は子にはあらず善知識なりとて娑婆世界に向つておがませ給うらん、是こそ実の孝養にては候なれ。

 抑法華経を持つと申すは経は一なれども持つ事は時に随つて色色なるべし、或は身肉をさひて師に供養して仏になる時もあり、又身を牀として師に供養し又身を薪となし、又此の経のために杖木をかほり又精進し又持戒し上の如くすれども仏にならぬ時もあり時に依つて不定なるべし、されば天台大師は適時而已と書かれ、章安大師は「取捨得宜不可一向」等云云。

 問うて云く何なる時か身肉を供養し何なる時か持戒なるべき、答えて云く智者と申すは此くの如き時を知りて法華経を弘通するが第一の秘事なり、たとへば渇者は水こそ用うる事なれ弓箭兵杖はよしなし、裸なる者は衣を求む水は用なし一をもつて万を察すべし、大鬼神ありて法華経を弘通せば身を布施すべし余の衣食は詮なし、悪王あつて法華経を失わば身命をほろぼすとも随うべからず、持戒精進の大僧等・法華経を弘通するやうにて而も失うならば是を知つて責むべし、法華経に云く「我身命を愛せず但だ無上道を惜しむ」云云、涅槃経に云く「寧ろ身命を喪うとも終に王の所説の言教を匿さざれ」等云云、章安大師の云く「寧喪身命不匿教とは身は軽く法は重し身を死して法を弘む」等云云。

 然るに今日蓮は外見の如くば日本第一の僻人なり我が朝六十六箇国・二の島の百千万億の四衆・上下万人に怨まる、仏法・日本国に渡つて七百余年いまだ是程に法華経の故に諸人に悪まれたる者なし、月氏・漢土にもありとも・きこえず又あるべしとも・おぼへず、されば一閻浮提第一の僻人ぞかし、かかるものなれば上には一朝の威を恐れ下には万民の嘲を顧みて親類もとぶらはず外人は申すに及ばず出世の恩のみならず世間の恩を蒙りし人も諸人の眼を恐れて口をふさがんためにや心に思はねども・そしるよしをなす、数度事にあひ両度御勘気を蒙りしかば我が身の失に当るのみならず、行通人人の中にも或は御勘気或は所領をめされ或は御内を出され或は父母兄弟に捨てらる、されば付きし人も捨てはてぬ今又付く人もなし、殊に今度の御勘気には死罪に及ぶべきがいかが思はれけん佐渡の国につかはされしかば彼の国へ趣く者は死は多く生は稀なり、からくして行きつきたりしかば殺害・謀叛の者よりも猶重く思はれたり、鎌倉を出でしより日日に強敵かさなるが如し、ありとある人は念仏の持者なり、野を行き山を行くにもそばひらの草木の風に随つてそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ、やうやく国にも付きぬ北国の習なれば冬は殊に風はげしく雪ふかし衣薄く食ともし、根を移されし橘の自然にからたちとなりけるも身の上につみしられたり、栖にはおばなかるかやおひしげれる野中の三昧ばらにおちやぶれたる草堂の上は雨もり壁は風もたまらぬ傍に昼夜・耳に聞く者はまくらにさゆる風の音、朝に眼に遮る者は遠近の路を埋む雪なり、現身に餓鬼道を経・寒地獄に堕ちぬ、彼の蘇武が十九年の間・胡国に留められて雪を食し李陵が巌窟に入つて六年蓑をきて・すごしけるも我が身の上なりき。

 今適御勘気ゆりたれども鎌倉中にも且くも身をやどし迹を・とどむべき処なければ・かかる山中の石のはざま松の下に身を隠し心を静むれども大地を食とし草木を著ざらんより外は食もなく衣も絶えぬる処にいかなる御心ねにてかくかきわけて御訪のあるやらん、知らず過去の我が父母の御神の御身に入りかはらせ給うか、又知らず大覚世尊の御めぐみにや・あるらん涙こそ・おさへがたく候へ。

 問うて云く抑正嘉の大地震・文永の大彗星を見て自他の叛逆・我が朝に法華経を失う故としらせ給うゆへ如何、答えて云く此の二の天災・地夭は外典三千余巻にも載せられず三墳・五典・史記等に記する処の大長星・大地震は或は一尺二尺・一丈二丈・五丈六丈なりいまだ一天には見へず地震も又是くの如し、内典を以て之を勘うるに仏御入滅・已後はかかる大瑞出来せず、月支には弗沙密多羅王の五天の仏法を亡し十六大国の寺塔を焼き払い僧尼の頭をはねし時もかかる瑞はなし、漢土には会昌天子の寺院・四千六百余所をとどめ僧尼・二十六万五百人を還俗せさせし時も出現せず、我が朝には欽明の御宇に仏法渡りて守屋・仏法に敵せしにも清盛法師・七大寺を焼き失い山僧等・園城寺を焼亡せしにも出現せざる大彗星なり。

 当に知るべし是よりも大事なる事の一閻浮提の内に出現すべきなりと勘えて立正安国論を造りて最明寺入道殿に奉る、彼の状に云く詮取此の大瑞は他国より此の国をほろぼすべき先兆なり、禅宗・念仏宗等が法華経を失う故なり、彼の法師原が頚をきりて鎌倉ゆゐの浜にすてずば国正に亡ぶべし等云云、其の後文永の大彗星の時は又手ににぎりて之を知る、去文永八年九月十二日の御勘気の時重ねて申して云く予は日本国の棟梁なり我を失うは国を失うなるべしと今は用いまじけれども後のためにとて申しにき、又去年の四月八日に平左衛門尉に対面の時蒙古国は何比かよせ候べきと問うに、答えて云く経文は月日をささず但し天眼のいかり頻りなり今年をばすぐべからずと申したりき、是等は如何にして知るべしと人疑うべし予不肖の身なれども法華経を弘通する行者を王臣人民之を怨む間法華経の座にて守護せんと誓をなせる地神いかりをなして身をふるひ天神身より光を出して此の国をおどす、いかに諌むれども用いざれば結局は人の身に入つて自界叛逆せしめ他国より責むべし。

 問うて云く此の事何たる証拠あるや、答う経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行わず」等云云、夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く「聖人去らん時は七難必ず起る」等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を。

 問うて云く先代に仏寺を失ひし時何ぞ此の瑞なきや、答えて云く瑞は失の軽重によりて大小あり此の度の瑞は怪むべし、一度二度にあらず一返二返にあらず年月をふるままに弥盛なり、之を以て之を察すべし先代の失よりも過ぎたる国主に失あり、国主の身にて万民を殺し又万臣を殺し又父母を殺す失よりも聖人を怨む事・彼に過ぐる事を、今日本国の王臣並びに万民には月氏・漢土総じて一閻浮提に仏滅後・二千二百二十余年の間いまだなき大科・人ごとにあるなり、譬えば十方世界の五逆の者を一処に集めたるが如し、此の国の一切の僧は皆提婆・瞿伽利が魂を移し国主は阿闍世王・波瑠璃王の化身なり、一切の臣民は雨行大臣・月称大臣・刹陀耆利等の悪人をあつめて日本国の民となせり、古は二人・三人・逆罪不孝の者ありしかばこそ其の人の在所は大地も破れて入りぬれ、今は此の国に充満せる故に日本国の大地・一時にわれ無間に堕ち入らざらん外は一人二人の住所の堕つべきやうなし、例せば老人の一二の白毛をば抜けども老耄の時は皆白毛なれば何を分けて抜き捨つべき只一度に剃捨る如くなり、問うて云く汝が義の如きは我が法華経の行者なるを用いざるが故に天変地夭等ありと、法華経第八に云く「頭破れて七分と作らん」と、第五に云く「若し人悪み罵れば口則ち閉塞す」等云云、如何ぞ数年が間・罵とも怨とも其の義なきや、答う反詰して云く不軽菩薩を毀しし罵詈し打擲せし人は口閉頭破ありけるか如何、問う然れば経文に相違する事如何、答う法華経を怨む人に二人あり、一人は先生に善根ありて今生に縁を求めて菩提心を発して仏になるべき者は或は口閉ぢ或は頭破る、一人は先生に謗人なり今生にも謗じ生生に無間地獄の業を成就せる者あり是はのれども口則ち閉塞せず、譬えば獄に入つて死罪に定まる者は獄の中にて何なる僻事あれども死罪を行うまでにて別の失なし、ゆりぬべき者は獄中にて僻事あれば・これをいましむるが如し、問うて云く此の事第一の大事なり委細に承わるべし、答えて云く涅槃経に云く法華経に云く云云。
                                         日蓮花押





by johsei1129 | 2014-04-21 20:07 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://nichirengs.exblog.jp/tb/21854527
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。


<< 人の心を貫く妙法蓮華経は宇宙に...      十方世界の諸仏は法華経寿量品を... >>