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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 22日

十方世界の諸仏は法華経寿量品を師として仏になったと明した書【法蓮抄】二

[法蓮抄 本文] その二

 かかる仏なれば木像・画像にうつし奉るに、優填(うでん)大王の木像は歩(あゆみ)をなし、摩騰の画像は一切経を説き給ふ。是れ程に貴き教主釈尊を一時二時ならず・一日二日ならず・一劫が間掌を合せ・両眼を仏の御顔にあて・頭を低(たれ)て・他事を捨て・頭の火を消さんと欲するが如く、渇して水ををもひ・飢えて食を思うがごとく間(ひま)無く供養し奉る功徳よりも、戯論(けろん)に一言・継母(ままはは)の継子(ままこ)をほむるが如く、心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め・供養せん功徳は彼の三業相応の信心にて一劫が間・生身の仏を供養し奉るには百千万億倍すぐべしと説き給いて候。これを妙楽大師は福過十号とは書かれて候なり。十号と申すは仏の十の御名(みな)なり。十号を供養せんよりも末代の法華経の行者を供養せん功徳は勝るとかかれたり。妙楽大師は法華経の一切経に勝れたる事を二十あつむる其の一なり。
 已上・上の二つの法門は仏説にては候へども心えられぬ事なり。争か仏を供養し奉るよりも凡夫を供養するがまさるべきや。而れども是を妄語と云はんとすれば釈迦如来の金言を疑い、多宝仏の証明を軽しめ、十方諸仏の舌相をやぶるになりぬべし。若し爾らば現身に阿鼻地獄に堕つべし。巌石にのぼりて・あら馬を走らするが如し、心肝しづかならず。又信ぜば妙覚の仏にもなりぬべし。如何(いかに)してか今度法華経に信心をとるべき。信なくして此の経を行ぜんは、手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるが如し。
 但し近き現証を引いて遠き信を取るべし。仏の御歳八十の正月一日、法華経を説きおはらせ給て御物語あり。「阿難・弥勒・迦葉、我・世に出でし事は法華経を説かんがためなり。我既に本懐をとげぬ。今は世にありて詮なし。今三月ありて二月十五日に涅槃すべし」云云。一切内外の人人疑ひをなせしかども、仏語むなしからざればついに二月十五日に御涅槃ありき。されば仏の金言は実なりけるかと少し信心はとられて候。又仏・記し給ふ「我滅度の後一百年と申さんに・阿育大王と申す王出現して一閻浮提三分の一が主となりて八万四千の塔を立て、我が舎利を供養すべし」云云。人疑い申さんほどに案の如くに出現して候いき。是よりしてこそ信心をばとりて候いつれ。又云く「我滅後に四百年と申さんに迦弐色迦王(かにしかおう)と申す大王あるべし。五百の阿羅漢を集めて婆沙論を造るべし」と是又仏記のごとくなりき。是等をもつてこそ仏の記文は信ぜられて候へ。
 若し上に挙ぐる所の二の法門・妄語ならば、此の一経は皆妄語なるべし。寿量品に我は過去五百塵点劫のそのかみの仏なりと説き給う。我等は凡夫なり。過ぎにし方は生れてより已来(このかた)すら・なを(尚)おぼへず。況んや一生・二生をや、況んや五百塵点劫の事をば争でか信ずべきや。又舎利弗等に記して云く「汝・未来世に於て無量無辺不可思議劫を過ぎ乃至当に作仏することを得べし。号を華光如来と曰わん」云云。又又摩訶迦葉に記して云く「未来世に於て乃至最後の身に於て仏と成為(なる)ことを得ん。名けて光明如来と曰わん」云云。此等の経文は又未来の事なれば我等凡夫は信ずべしともおぼえず。されば過去未来を知らざらん凡夫は、此の経は信じがたし、又修行しても何の詮かあるべき。是を以て之を思うに・現在に眼前の証拠あらんずる人、此の経を説かん時は信ずる人もありやせん。

 今・法蓮上人の送り給える諷誦(ふじゅ)の状に云く「慈父幽霊・第十三年の忌辰(きしん)に相当り、一乗妙法蓮華経五部を転読し奉る」等云云。夫れ教主釈尊をば大覚世尊と号したてまつる。世尊と申す尊の一字を高と申す。高と申す一字は又孝と訓ずるなり。一切の孝養の人の中に第一の孝養の人なれば世尊と号し奉る。釈迦如来の御身は金色にして三十二相を備へ給ふ。彼の三十二相の中に無見頂相と申すは・仏は丈六の御身なれども竹杖外道も其の御長(みたけ)をはからず、梵天も其の頂を見ず。故に無見頂相と申す。是れ孝養第一の大人なればかかる相を備へまします。
 孝経と申すに二あり。一には外典の孔子と申せし聖人の書に孝経あり。二には内典、今の法華経是なり。内外異なれども其意は是れ同じ。釈尊・塵点劫の間・修行して仏にならんとはげみしは何事ぞ、孝養の事なり。然るに六道四生の一切衆生は皆父母なり。孝養おへざりしかば仏にならせ給はず。
 今法華経と申すは一切衆生を仏になす秘術まします御経なり。所謂地獄の一人・餓鬼の一人・乃至九界の一人を仏になせば、一切衆生・皆仏になるべきことはり(理)顕る。譬えば竹の節を一つ破(わり)ぬれば余の節亦破るるが如し。囲碁と申すあそびにしちよう(四丁)と云う事あり。一の石・死しぬれば多の石死ぬ。法華経も又此くの如し。金(かね)と申すものは木草を失なう用を備へ、水は一切の火をけす徳あり。法華経も又一切衆生を仏になす用(ゆう)おはします。六道四生の衆生に男女あり。此の男女は皆我等が先生の父母なり。一人もも(漏)れば仏になるべからず。故に二乗をば不知恩の者と定めて永不成仏と説かせ給う。孝養の心あまねからざる故なり。
 仏は法華経をさとらせ給いて六道・四生の父母、孝養の功徳を身に備へ給へり。此の仏の御功徳をば法華経を信ずる人にゆづり給う。例せば悲母の食う物の乳となりて赤子を養うが如し。「今此の三界は・皆是れ我が有なり。其の中の衆生は・悉く是れ吾が子なり」等云云。教主釈尊は此の功徳を法華経の文字となして・一切衆生の口にな(嘗)めさせ給う。赤子の水火をわきまへず、毒薬を知らざれざも、乳を含めば身命をつぐが如し。阿含経を習う事は舎利弗等の如くならざれども、華厳経をさとる事解脱月等の如くならざれども、乃至一代聖教を胸に浮べたる事文殊の如くならざれども、一字一句をも之を聞きし人・仏にならざるはなし。彼の五千の上慢は聞きてさとらず不信の人なり。然れども謗ぜざりしかば三月を経て仏になりにき。「若しは信じ、若しは信ぜざれば即ち不動国に生ぜん」と涅槃経に説かるるは此の人の事なり。法華経は不信の者すら謗ぜざれば聞きつるが不思議にて仏になるなり。所謂七歩蛇(しちぶじゃ)に食(かま)れたる人一歩乃至七歩をすぎず。毒の用の不思議にて八歩をすごさぬなり。又胎内の子の七日の如し。必ず七日の内に転じて余の形となる。八日をすごさず。
 今の法蓮上人も又此くの如し。教主釈尊の御功徳・御身に入りかはらせ給いぬ。法蓮上人の御身は過去聖霊(しょうりょう)の御容貌(ごようみょう)を残しおかれたるなり。たとへば種の苗となり、華の菓となるが如し。其の華は落ちて菓はあり、種はかくれて苗は現に見ゆ。法蓮上人の御功徳は過去聖霊の御財(たから)なり。松さかふれば柏よろこぶ、芝かるれば蘭なく。情(こころ)なき草木すら此くの如し。何に況んや情あらんをや、又父子の契(ちぎり)をや。


by johsei1129 | 2019-10-22 08:42 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
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