日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 04月 11日

妙法蓮華経と唱えることで己心中の仏性が呼ばれて必ず顕れる事を明らかにした書【法華初心成仏抄】三

[法華初心成仏抄 本文] その三
 浄土宗の人人・末法万年には余経悉く滅し弥陀一教のみと云ひ又当今末法は是れ五濁の悪世唯浄土の一門のみ有て通入す可き路なりと云つて虚言して大集経に云くと引ども彼の経に都て此文なし、其の上あるべき様もなし仏の在世の御言に当今末法五濁の悪世には但浄土の一門のみ入るべき道なりとは説き給うべからざる道理顕然なり本経には「当来の世・経道滅尽し特り此の経を留めて止住する事百歳ならん」と説けり、末法一万年の百歳とは全く見えず、然るに平等覚経・大阿弥陀経を見るに仏滅後一千年の後の百歳とこそ意えられたれ、然るに善導が惑へる釈をば尤も道理と人・皆思へり是は諸僻案の者なり、但し心あらん人は世間のことはりをもつて推察せよ、大旱魃のあらん時は大海が先にひるべきか小河が先にひるべきか仏是を説き給うには法華経は大海なり観経・阿弥陀経等は小河なり、されば念仏等の小河の白法こそ先にひるべしと経文にも説き給いて候ひぬれ、大集経の五箇の五百歳の中の第五の五百歳・白法隠没と云と雙観経に経道滅尽と云とは但一つ心なり、されば末法には始めより雙観経等の経道滅尽すと聞えたり経道滅尽と云は経の利生の滅すと云う事なり、色の経巻有るにはよるべからず、されば当時は経道滅尽の時に至つて二百歳に余れり、此の時は但法華経のみ利生得益あるべし。

 されば此経を受持して南無妙法蓮華経と唱え奉るべしと見えたり。薬王品には「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむることなけん」と説き給ひ、天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾ん」と釈し、妙楽大師は「且らく大経の流行す可き時に拠る」と釈して後の五百歳の間に法華経弘まりて其の後は閻浮提の内に絶え失せる事有るべからずと見えたり。
安楽行品に云く「後の末世の法滅せんと欲せん時に於て斯の経典を受持し読誦せん者」文 神力品に云く「爾の時に仏上行等の菩薩大衆に告げたまわく、属累の為の故に此の経の功徳を説くとも猶尽すこと能わじ。

要を以て之を云わば如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要の蔵・如来の一切の甚深の事皆此経に於て宣示顕説す」と云云、此等の文の心は釈尊入滅の後・第五の五百歳と説くも来世と云うも濁悪世と説くも正像二千年過ぎて末法の始二百余歳の今時は唯法華経計り弘まるべしと云う文なり、其の故は人既にひがみ法も実にしるしなく仏神の威験もましまさず今生後生の祈りも叶はず、かからん時は・たよりを得て天魔・波旬乱れ入り国土常に飢渇して天下も疫癘し他国侵逼難・自界叛逆難とて我が国に軍合戦常にありて、後には他国より兵どもをそひ来りて此の国を責むべしと見えたり、此くの如き闘諍堅固の時は余経の白法は験し失せて法華経の大良薬を以て此の大難をば治すべしと見えたり。

 法華経を以て国土を祈らば上一人より下万民に至るまで悉く悦び栄へ給うべき鎮護国家の大白法なり、但し阿闍世王・阿育大王は始めは悪王なりしかども耆婆大臣の語を用ひ夜叉尊者を信じ給いて、後にこそ賢王の名をば留め給いしか。

南三・北七を捨てて智ぎ法師を用ひ給いし陳主・六宗の碩徳を捨てて最澄法師を用ひ給いし桓武天皇は、今に賢王の名を留め給へり、智ぎ法師と云うは後には天台大師と号し奉る、最澄法師は後には伝教大師と云う是なり、今の国主も又是くの如し、現世安穏後生善処なるべき此の大白法を信じて国土に弘め給はば、万国に其の身を仰がれ後代に賢人の名を留め給うべし。知らず、又無辺行菩薩の化身にてやましますらん。

又妙法の五字を弘め給はん智者をばいかに賤くとも上行菩薩の化身か、又釈迦如来の御使かと思うべし。又薬王菩薩・薬上菩薩・観音勢至の菩薩は、正像二千年の御使なり。此等の菩薩達の御番は早過たれば上古の様に利生有るまじきなり。されば当世の祈を御覧ぜよ一切叶はざる者なり。

末法今の世の番衆は上行・無辺行等にてをはしますなり。此等を能能明らめ信じてこそ法の験も仏菩薩の利生も有るべしとは見えたれ。譬えばよき火打とよき石のかどと・よきほくちと此の三寄り合いて火を用ゆるなり、祈も又是くの如しよき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり。

よき師とは指したる世間の失無くして聊のへつらうことなく少欲知足にして慈悲有らん僧の経文に任せて法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をば仏は一切の僧の中に吉第一の法師なりと讃められたり、吉檀那とは貴人にもよらず賤人をもにくまず上にもよらず下をもいやしまず一切・人をば用いずして一切経の中に法華経を持たん人をば一切の人の中に吉人なりと仏は説給へり。吉法とは此の法華経を最為第一の法と説かれたり、已説の経の中にも今説の経の中にも当説の経の中にも此の経第一と見えて候へば吉法なり。

禅宗・真言宗等の経法は第二・第三なり殊に取り分けて申せば真言の法は第七重の劣なり、然るに日本国には第二・第三乃至第七重の劣の法をもつて御祈祷あれども未だ其の証拠をみず、最上第一の妙法をもつて御祈祷あるべきか、是を正直捨方便・但説無上道・唯此一事実と云へり誰か疑をなすべきや。

 問うて云く無智の人来りて生死を離るべき道を問わん時は何れの経の意をか説くべき仏如何が教へ給へるや。
答えて云く法華経を説くべきなり、所以に法師品に云く「若し人有つて何等の衆生か未来世に於て当に作仏することを得べきと問わば応に示すべし、是の諸人等未来世に於て必ず作仏することを得ん」と云云、安楽行品に云く「難問する所有らば小乗の法を以て答えず但大乗を以て而も為に解説せよ」云云、此等の文の心は何なる衆生か仏になるべきと問わば法華経を受持し奉らん人必ず仏になるべしと答うべきなり是れ仏の御本意なり。

之に付て不審あり衆生の根性区にして念仏を聞かんと願ふ人もあり法華経を聞かんと願ふ人もあり、念仏を聞かんと願ふ人に法華経を説いて聞かせんは何の得益かあるべき、又念仏を聞かんが為に請じたらん時にも強て法華経を説くべきか、仏の説法も機に随いて得益有るをこそ本意とし給うらんと不審する人あらば云うべし、元より末法の世には無智の人に機に叶ひ叶はざるを顧みず但強いて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり、其の故は釈迦仏・昔不軽菩薩と云はれて法華経を弘め給いしには男女・尼法師がおしなべて用ひざりき、或は罵られ毀られ或は打れ追はれ一しなならず、或は怨まれ嫉まれ給いしかども少しもこりもなくして強いて法華経を説き給いし故に今の釈迦仏となり給いしなり、不軽菩薩を罵りまいらせし人は口もゆがまず打ち奉りしかいなもすくまず、付法蔵の師子尊者も外道に殺されぬ。
又法道三蔵も火印を面にあてられて江南に流され給いしぞかし、まして末法にかひなき僧の法華経を弘めんにはかかる難あるべしと経文に正く見えたり、されば人是を用ひず機に叶はずと云へども強いて法華経の五字の題名を聞かすべきなり、是ならでは仏になる道はなきが故なり、又或人不審して云く、機に叶はざる法華経を強いて説いて謗ぜさせて・悪道に人を堕さんよりは、機に叶へる念仏を説いて・発心せしむべし、利益もなく謗ぜさせて返つて地獄に堕さんは法華経の行者にもあらず邪見の人にてこそ有るらめと不審せば、云うべし経文には何体にもあれ末法には強いて法華経を説くべしと仏の説き給へるをばさていかが心うべく候や。

釈迦仏・不軽菩薩・天台・妙楽・伝教等はさて邪見の人・外道にて・おはしまし候べきか、又悪道にも堕ちず三界の生を離れたる二乗と云う者をば仏のの給はく設ひ犬野干の心をば発すとも二乗の心をもつべからず五逆十悪を作りて地獄には堕つとも二乗の心をばもつべからずなんどと禁められしぞかし、悪道におちざる程の利益は争でか有るべきなれども其れをば仏の御本意とも思し食さず地獄には堕つるとも仏になる法華経を耳にふれぬれば是を種として必ず仏になるなり。

されば天台妙楽も此の心を以て強いて法華経を説くべしとは釈し給へり。譬えば、人の地に依りて倒れたる者の返つて地をおさへて起が如し、地獄には堕つれども疾く浮んで仏になるなり。

当世の人・何となくとも法華経に背く失に依りて地獄に堕ちん事疑いなき故に、とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり。
何にとしても仏の種は法華経より外になきなり、権教をもつて仏になる由だにあらば、なにしにか仏は強いて法華経を説いて謗ずるも信ずるも利益あるべしと説き我不愛身命とは仰せらるべきや、よくよく此等を道心ましまさん人は御心得あるべきなり。


by johsei1129 | 2014-04-11 20:00 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)


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