日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 04月 10日

妙法蓮華経と唱えることで己心中の仏性が呼ばれて必ず顕れる事を明らかにした書【法華初心成仏抄】二

[法華初心成仏抄 本文] その二
 問うて云く釈迦一期の説法は皆衆生のためなり衆生の根性万差なれば説法も種種なり何れも皆得道なるを本意とす、然れば我が有縁の経は人の為には無縁なり人の有縁の経は我が為には無縁なり故に余経の念仏によりて得道なるべき者の為には観経等はめでたし法華経等は無用なり、法華によりて成仏得道なるべき者の為には余経は無用なり法華経はめでたし、四十余年・未顕真実と説くも雖示種種道・其実為仏乗と云うも正直捨方便・但説無上道と云うも法華得道の機の前の事なりと云う事世こぞつてあはれ然るべき道理かななんど思へり如何心うべきや、若し爾らば大乗・小乗の差別もなく権教・実教の不同もなきなり何れをか仏の本意と説き何れをか成仏の法と説き給えるや甚だいぶかし・いぶかし、答えて云く凡そ仏の出世は始めより妙法を説かんと思し食ししかども衆生の機縁・万差にして・ととのをらざりしかば三七日の間・思惟し四十余年の程こしらへ・おおせて最後に此の妙法を説き給う、故に「若し但仏乗を讃せば衆生・苦に没在し是の法を信ずること能わず、法を破して信ぜざるが故に三悪道に墜ちん」と説き「世尊の法は久くして後要らず当に真実を説きたまうべし」とも云へり、此の文の意は始めより此の仏乗を説かんと思し食ししかども仏法の気分もなき衆生は信ぜずして定めて謗りを至さん、故に機をひとしなに誘へ給うほどに初めに華厳・阿含・方等・般若等の経を四十余年の間とき最後に法華経をとき給う時、四十余年の座席にありし身子・目連等の万二千の声聞・文殊・弥勒等の八万の菩薩・万億の輪王等・梵王・帝釈等の無量の天人・各爾前に聞きし処の法をば如来の無量の知見を失えりと云云、法華経を聞いては無上の宝聚求めざるに自ら得たりと悦び給ふ、されば「我等昔より来数世尊の説を聞きたてまつるに未だ曾つて是くの如き深妙の上法を聞かず」とも、「仏・希有の法を説き給う昔より未だ曾つて聞かざる所なり」とも説き給う、此等の文の心は四十余年の程・若干の説法を聴聞せしかども法華経の様なる法をば総てきかず又仏も終に説かせ給はずと法華経を讃たる文なり四十二年の聴と今経の聴とをばわけたくらぶべからず、然るに今経をそれ法華経得道の人の為にして爾前得道の者の為には無用なりと云う事・大なる誤りなり、をのづから四十二年の経の内には一機・一縁の為にしつらう処の方便なれば設い有縁無縁の沙汰はありとも法華経は爾前の経経の座にして得益しつる機どもを押ふさねて一純に調えて説き給いし間有縁無縁の沙汰あるべからざるなり、悲しいかな大小・権実みだりがわしく仏の本懐を失いて爾前得道の者のためには法華経無用なりと云へる事を能能慎むべし・恐るべし、古の徳一大師と云いし人・此の義を人にも教へ我が心にも存して・さて法華経を読み給いしを伝教大師・此の人を破し給ふ言に「法華経を讃すと雖も還つて法華の心を死す」と責め給いしかば徳一大師は舌八にさけて失せ給ひき。

 問うて云く天台の釈の中に菩薩処処得入と云う文は法華経は但二乗の為にして菩薩の為ならず菩薩は爾前の経の中にしても得道なると見えたり・若し爾らば未顕真実も正直捨方便等も総じて法華経八巻の内・皆以て二乗の為にして菩薩は一人も有るまじきと意うべきか如何、答えて云く法華経は但二乗の為にして菩薩の為ならずと云う事は天台より已前・唐土に南三・北七と申して十人の学匠の義なり、天台は其の義を破し失て今は弘まらず若し菩薩なしと云はば菩薩是の法を聞いて疑網皆已に除くと云える豈是れ菩薩の得益なしと云わんや、それに尚鈍根の菩薩は二乗とつれて得益あれども利根の菩薩は爾前の経にて得益すと云はば「利根鈍根等しく法雨を雨す」と説き「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆此経に属せり」と説くは何に、此等の文の心は利根にてもあれ鈍根にてもあれ持戒にてもあれ破戒にてもあれ貴もあれ賤もあれ一切の菩薩・凡夫・二乗は法華経にて成仏得道なるべしと云う文なるをや、又法華得益の菩薩は皆鈍根なりと云はば普賢・文殊・弥勒・薬王等の八万の菩薩をば鈍根なりと云うべきか、其の外に爾前の経にて得道する利根の菩薩と云うは何様なる菩薩ぞや、抑爾前に菩薩の得道と云うは法華経の如き得道にて候か、其ならば法華経の得道にて爾前の得分にあらず、又法華経より外の得道ならば已今当の中には何れぞや、いかさまにも法華経ならぬ得道は当分の得道にて真実の得道にあらず、故に無量義経には「是の故に衆生の得道差別せり」と云い又「終に無上菩提を成ずることを得じ」と云へり、文の心は爾前の経経には得道の差別を説くと云へども終に無上菩提の法華経の得道はなしとこそ仏は説き給いて候へ。

 問うて云く当時は釈尊入滅の後・今に二千二百三十余年なり、一切経の中に何の経が時に相応して弘まり利生も有るべきや大集経の五箇の五百歳の中の第五の五百歳に当時はあたれり、其の第五の五百歳をば闘諍堅固・白法隠没と云つて人の心たけく腹あしく貪欲・瞋恚・強盛なれば軍・合戦のみ盛にして仏法の中に先き先き弘りし所の真言・禅宗・念仏・持戒等の白法は隠没すべしと仏説き給へり、第一の五百歳・第二の五百歳・第三の五百歳・第四の五百歳を見るに成仏の道こそ未顕真実なれ世間の事法は仏の御言一分も違はず是を以て之を思うに当時の闘諍堅固・白法隠没の金言も違う事あらじ、若爾らば末法には何の法も得益あるべからず何れの仏菩薩も利生あるべからずと見えたり如何、さてもだして何の仏菩薩にもつかへ奉らず何の法をも行ぜず憑む方なくして候べきか、後世をば如何が思い定め候べきや、答えて云く末法当時は久遠実成の釈迦仏・上行菩薩・無辺行菩薩等の弘めさせ給うべき法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まりて利生得益もあり上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり、其の故は経文明白なり道心堅固にして志あらん人は委く是を尋ね聞くべきなり。

[法華初心成仏抄 本文] その三に続く




by johsei1129 | 2014-04-10 21:33 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
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