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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 29日

『妙法蓮華経』の五字に法華経一部(二十八品)が収まっていることを示した【四信五品抄】

【四信五品抄(ししんごほんしょう】
■出筆時期:建治三年四月十日 五十六歳御作(西暦1277年) 御書10大部の一つ。
■出筆場所:身延山 草庵にて
■出筆の経緯:下総国守護千葉氏の文官で、大聖人立宗当初に入信した最古参の信徒富木常忍より大聖人に「ご本尊に向かって唱題する」ことに関する問いかけがあり、それに答えるべく、本書をしたためておられます。
内容は『妙法蓮華経」の五字に法華経一部(二十八品)が収められていて、これは『日本』の二字に、六十六カ国の人畜財(人・生物・財産)を全て摂尽(含む)していることと同じであると示しされ、さらに法華経一部を収めている題目を唱る功徳は、『小児が乳を含む時に、其の味(栄養分)を知らざれども自然に身を益す』事と同様であると、信徒にも理解できるようわかりやすい比喩を用いて解き明かしておられます。

さらに初心信徒にとって末法の行(修行)は、余文を雑えずひたすら南無妙法蓮華経と唱題することに尽きると本書であかされておられます。
■ご真筆: 中山法華経寺(13紙)所蔵(重要文化財)。古写本:日興上人書写(富士大石寺蔵)
『妙法蓮華経』の五字に法華経一部(二十八品)が収まっていることを示した【四信五品抄】_f0301354_11473797.jpg[真筆本文:下記緑字箇所]





『妙法蓮華経』の五字に法華経一部(二十八品)が収まっていることを示した【四信五品抄】_f0301354_19195471.jpg



















[日目上人筆・古写本(富士大石寺蔵)]


[四信五品抄 本文] 
 
 青鳧一結(せいふ・ひとゆい)送り給び候い了んぬ。
 近来の学者一同の御存知に云く「在世滅後異なりと雖も法華を修行するには必ず三学を具す。一を欠いても成ぜず」云云。余・又年来(としごろ)此の義を存する処、一代聖教は且らく之を置く。法華経に入つて此の義を見聞するに、序正の二段は且らく之を置く、流通の一段は末法の明鏡尤も依用と為すべし。而して流通に於て二有り。一には所謂迹門の中の法師等の五品。二には所謂本門の中の分別功徳の半品より経を終るまで十一品半なり。此の十一品半と五品と合せて十六品半・此の中に末法に入つて法華を修行する相貌(そうみょう)分明なり。是に尚・事行かずんば普賢経・涅槃経等を引き来りて之れを糾明せんに其の隠れ無きか。其の中の分別功徳品の四信と五品とは法華を修行するの大要、在世・滅後の亀鏡なり。

 
荊谿(けいけい)の云「一念信解とは即ち是れ本門立行の首(はじめ)なり」と云云。其の中に現在の四信の初めの一念信解と滅後の五品の第一の初随喜と此の二処は一同に百界千如・一念三千の宝篋(ほうきょう)・十方三世の諸仏の出(いず)る門なり。
 天台妙楽の二(ふた)りの聖賢・此の二処の位を定むるに三の釈有り。所謂或は相似・十信・鉄輪の位、或は観行五品の初品の位、未断見思・或は名字即の位なり。止観に其の不定を会して云く「仏意知り難し。機に赴きて異説す。此を借つて開解せば何ぞ労(わずらわ)しく苦(ねんごろ)に諍(あらそ)わん」云云等。

 予が意に云く、三釈の中・名字即は経文に叶うか。滅後の五品の初めの一品を説いて云く「而も毀呰せずして随喜の心を起す」と。若し此の文・相似(そうじ)の五品に渡らば而不毀呰の言は便ならざるか。就中(なかんずく)寿量品の失心・不失心等は皆名字即なり。涅槃経に「若信・若不信・乃至熈連(きれん)」とあり之を勘えよ。
 又一念信解の四字の中の信の一字は四信の初めに居し、解の一字は後に奪わるる故なり。若し爾らば無解有信(むげうしん)は四信の初位に当る。経に第二信を説いて云く「略解言趣」と云云。記の九に云く「唯初信を除く。初めは解無きが故に」
 随つて次下の随喜品に至つて上の初随喜を重ねて之を分明(ふんみょう)にす。五十人・是皆展転(てんでん)劣なり。第五十人に至つて二の釈有り。一には謂はく、第五十人は初随喜の内なり。二には謂はく、第五十人は初随喜の外なりと云うは名字即なり。「教・弥(いよい)よ実なれば位弥よ下れり」と云う釈は此の意なり。四味三教よりも円教は機を摂し、爾前の円教よりも法華経は機を摂し、迹門よりも本門は機を尽くすなり。「教弥実・位弥下」の六字・心を留めて案ず可し。

 
問う、末法に入つて初心の行者必ず円の三学を具するや不や。答えて曰く、此の義大事たる故に経文を勘え出して貴辺に送付す。所謂五品の初・二・三品には仏・正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧又堪へざれば信を以て慧に代え、信の一字を詮と為す。不信は一闡提・謗法の因、信は慧の因・名字即の位なり。天台云く「若し相似の益は隔生(きゃくしょう)すれども忘れず。名字観行の益は隔生すれば即ち忘る。或は忘れざるも有り。忘るる者も・若し知識に値えば宿善還つて生ず。若し悪友に値えば則ち本心を失う」云云。恐らくは中古の天台宗の慈覚・智証の両大師も天台・伝教の善知識に違背して心、無畏・不空等の悪友に遷(うつ)れり。末代の学者・慧心の往生要集の序に誑惑せられて法華の本心を失い・弥陀の権門に入る。退大取小の者なり。過去を以て之を推するに、未来無量劫を経て三悪道に処せん。若し悪友に値えば即ち本心を失うとは是なり。

 問うて曰く、其の証如何。答えて曰く、止観第六に云く「前教に其の位を高うする所以は方便の説なればなり。円教の位・下(ひく)きは真実の説なればなり」
 弘決に云く「前教と云うより下は正く権実を判ず。教・弥よ実なれば位・弥よ下(ひく)く、教・弥よ権なれば位・弥よ高き故に」と。又記の九に云く「位を判ずることをいわば観境弥よ深く・実位弥よ下きを顕す」と云云。他宗は且らく之を置く、天台一門の学者等・何ぞ実位弥下(じついみげ)の釈を閣(さしお)いて慧心僧都の筆を用ゆるや。畏・智・空と覚・証との事は追つて之を習え。大事なり大事なり。一閻浮提第一の大事なり。心有らん人は聞いて後に我を外(うと)め。

 問うて云く、末代初心の行者・何物をか制止するや。答えて曰く、檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解・初随喜の気分(けぶん)と為すなり。是れ則ち此の経の本意なり。
 疑つて云く、此の義未だ見聞せず、心を驚かし耳を迷わす。明かに証文を引て請う・苦(ねんごろ)に之を示せ。答えて云く、経に云く「須く我が為に復た塔寺を起て及び僧坊を作り、四事を以て衆僧を供養することをもちいざれ」此の経文明らかに初心の行者に檀戒等の五度を制止する文なり。
 疑つて云く、汝が引く所の経文は但寺塔と衆僧と計りを制止して未だ諸の戒等に及ばざるか。答えて曰く、初を挙げて後を略す。
 問て曰く、何を以て之を知らん。答えて曰く次下の第四品の経文に云く「況んや復人有つて能く是の経を持ちて兼ねて布施・持戒等を行ぜんをや」云云。経文分明(ふんみょう)に初・二・三品の人には檀戒等の五度を制止し、第四品に至つて始めて之を許す。後に許すを以て知んぬ、初めに制する事を。

 問うて曰く、経文一往相似たり。将た又疏釈(じょしゃく)有りや。答えて曰く、汝が尋ぬる所の釈とは月氏四依の論か、将(は)た又漢土日本の人師の書か。本を捨て末を尋ね、体を離れて影を求め、源を忘れて流れを貴ぶ、分明なる経文を閣(さしお)いて論釈を請い尋ぬ。本経に相違する末釈有らば・本経を捨てて末釈に付く可きか。然りと雖も好みに随て之を示さん。文句の九に云く「初心は縁に紛動せられて正業を修するを妨げんことを畏る。直ちに専ら此の経を持つ、即ち上供養なり。事を廃して理を存するは所益弘多(しょやく・ぐた)なり」と。此の釈に縁と云うは五度なり。初心の者・兼ねて五度を行ずれば正業の信を妨ぐるなり。譬えば小船に財(たから)を積んで海を渡るに財と倶に没するが如し。「直専持此経」と云うは一経に亘るに非ず。専ら題目を持つて余文を雑えず。尚一経の読誦だも許さず、何に況んや五度をや。「廃事存理」と云うは戒等の事を捨てて題目の理を専らにす云云。「所益弘多」とは初心の者・諸行と題目と並び行ずれば所益全く失うと云云。

 
文句に云く「問う、若し爾らば経を持つは即ち是れ第一義の戒なり。何が故ぞ復能く戒を持つ者と言うや。答う、此は初品を明かす。後を以て難を作すべからず」等云云。当世の学者・此の釈を見ずして末代の愚人を以て南岳天台の二聖に同ず。誤りの中の誤りなり。妙楽重ねて之を明かして云く「問う、若し爾らば若し事の塔及び色身の骨を須(もち)いずば、亦事の戒を持つことを須(もち)ひざるべし。乃至事の僧を供養することを須いざるや」等云云。伝教大師の云く「二百五十戒忽ちに捨て畢んぬ」唯・教大師一人に限るに非ず、鑒真(がんじん)の弟子・如宝(じょほう)・道忠並びに七大寺等・一同に捨て了んぬ。又教大師・未来を誡めて云く「末法の中に持戒の者有らば、是れ怪異(けい)なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ず可き」云云。

 問う、汝・何ぞ一念三千の観門を勧進せず・唯題目許りを唱えしむるや。答えて曰く、日本の二字に六十六国の人畜財を摂尽(しょうじん)して一つも残さず。月氏の両字に豈(あに)七十ケ国無からんや。妙楽の云く「略して経題を挙ぐるに・玄(はるか)に一部を収む」又云く「略して界如を挙ぐるに・具(つぶ)さに三千を摂す」。文殊師利菩薩・阿難尊者・三会八年の間の仏語之を挙げて妙法蓮華経と題し・次下に領解して云く「如是我聞」と云云。

 問う、其の義を知らざる人・唯南無妙法蓮華経と唱うるに・解義の功徳を具するや否や。答う、小児・乳を含むに其の味を知らざれども自然に身を益(やく)す、耆婆が妙薬・誰か弁えて之を服せん。水(みず)心無けれども火を消し、火・物を焼く、豈(あに)覚(さとり)有らんや。竜樹・天台皆此の意なり・重ねて示す可し。

 問う、何が故ぞ題目に万法を含むや。答う、章安の云く「蓋し序王とは経の玄意(げんに)を叙す。玄意は文の心を述す。文の心は迹本に過ぎたるは莫し」妙楽の云く「法華の文心を出して諸教の所以(ゆえん)を弁ず」云云。濁水心無けれども月を得て自ら清(す)めり。草木雨を得、豈覚り有つて花さくならんや。妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意なるのみ。初心の行者・其の心を知らざれども・而も之を行ずるに自然に意に当るなり。

 問う、汝が弟子・一分の解(げ)無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位・如何。答う、此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず、将(は)た又真言等の諸宗の元祖・畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出(しょうしゅつ)すること百千万億倍なり。請う国中の諸人・我が末弟等を軽(かろん)ずる事勿れ、進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり。豈・熈連一恒(あに・きれんいちごう)の者に非ずや。退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し。天子の襁褓(むつき)に纒(まとわ)れ・大竜の始めて生ずるが如し。蔑如(べつじょ)すること勿れ・蔑如すること勿れ。
 妙楽の云く「若し悩乱する者は頭(こうべ)七分に破(わ)れ、供養すること有る者は福十号に過ぐ」と。優陀延(うだえん)王は賓頭盧(びんずる)尊者を蔑如して七年の内に身を喪失し、相州は日蓮を流罪して百日の内に兵乱に遇えり。経に云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出さん。若は実にもあれ・若は不実にもあれ、此の人現世に白癩(びゃくらい)の病を得ん、乃至諸悪重病あるべし」又云く「当に世世に眼無かるべし」等云云。明心と円智とは現に白癩を得、道阿弥は無眼の者と成りぬ。国中の疫病(やくびょう)は頭破七分(ずは・しちぶん)なり。罰を以て徳を推するに、我が門人等は福過十号疑い無き者なり。

 
夫れ人王三十代・欽明の御宇に始めて仏法渡りし以来(このかた)、桓武の御宇に至るまで・二十代二百余年の間、六宗有りと雖も仏法・未だ定まらず。爰(ここ)に延暦年中に一(ひと)りの聖人有つて此の国に出現せり、所謂伝教大師是なり。此の人・先きより弘通する六宗を糾明し七寺を弟子と為して終に叡山を建てて本寺と為し、諸寺を取つて末寺と為す。日本の仏法・唯一門なり。王法も二に非ず、法定まり・国清(す)めり。其の功を論ぜば源(みなもと)已今当の文より出でたり。其の後、弘法・慈覚・智証の三大師、事(こと)を漢土に寄せて大日の三部は法華経に勝ると謂い、剰(あまつ)さえ教大師の削(け)ずる所の真言宗の宗の一字・之を副(そ)えて八宗と云云。

 三人一同に勅宣を申し下して日本に弘通し・寺毎(てらごと)に法華経の義を破る。是偏に已今当の文を破らんと為して釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵と成りぬ。然して後・仏法漸く廃れ、王法次第に衰え、天照太神・正八幡等の久住の守護神は力を失い、梵帝・四天は国を去つて已に亡国と成らんとす。情(こころ)有らん人・誰か傷(いた)み・嗟(なげ)かざらんや。所詮三大師の邪法の興る所は所謂東寺と叡山の総持院と園城寺との三所なり。禁止せずんば国土の滅亡と衆生の悪道と疑い無き者か。予(よ)粗此の旨を勘え、国主に示すと雖も敢て叙用無し。悲む可し悲む可し。

[四信五品抄 本文] 完




by johsei1129 | 2019-10-29 22:18 | 御書十大部(五大部除く) | Trackback
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