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日蓮大聖人『御書』解説

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2024年 09月 24日

末法の法華経流布を予見した釈尊の未来記と合わせ、末法の本仏としての未来記を明かした書【顕仏未来記】

【顕仏未来記(けんぶつみらいき】
■出筆時期:文永十年五月十一日(西暦1273年)、日蓮大聖人52歳御作。
■出筆場所:佐渡ヶ島 一谷(いちのさわ)入道の屋敷にて。
■出筆の経緯:本文中に「世の人・疑い有らば委細の事は弟子に之を問え」とある。本書を出筆された佐渡では同時期、すでに弟子にあてて「開目抄」をしたため、自身が末法の本仏であることを深く掘り下げた法門として示している。恐らく本書は檀那(出家しない世俗の信徒)にあて、より平易に自身が法華経に記されてる末法の本仏であることを示したものと考えられる。
■ご真筆:身延山久遠寺 曽存(明治8年の大火で焼失)

[顕仏未来記 本文] 

 沙門 日蓮 之を勘う

 法華経の第七に云く「我が滅度の後、後の五百歳の中に閻浮提(えんぶだい)に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云云。予・一たびは歎いて云く、仏滅後・既に二千二百二十余年を隔つ。何なる罪業に依つて仏の在世に生れず、正法の四依(しえ)・像法の中の天台・伝教等にも値(あ)わざるやと。亦一たびは喜んで云く、何なる幸ひあつて後五百歳に生れて此の真文(しんもん)を拝見することぞや。在世も無益(むやく)なり、前四味(ぜんしみ)の人は未だ法華経を聞かず、正像も又由し無し。南三北七並びに華厳・真言等の学者は法華経を信ぜず。天台大師云く「後の五百歳遠く妙道に沾(うる)おわん」等云云。広宣流布の時を指すか。伝教大師云く「正像稍(やや)過ぎ已(おわ)つて末法太(はなは)だ近きに有り」等云云。末法の始めを願楽(がんぎょう)するの言(ことば)なり。時代を以て果報を論ずれば竜樹・天親に超過し、天台・伝教にも勝るるなり。

 問うて云く、後五百歳は汝一人に限らず。何ぞ殊に之を喜悦せしむるや。
 答えて云く、法華経の第四に云く「如来の現在にすら猶怨嫉(なお・おんしつ)多し。況んや滅度の後をや」文。天台大師云く「何に況んや未来をや。理・化し難きに在り」文。妙楽大師云く「理在難化(りざいなんげ)とは此の理を明かすことは意(こころ)・衆生の化(け)し難きを知らしむるに在り」文。智度法師云く「俗に良薬・口に苦(にが)しと言うが如く、此の経は五乗の異執(いしゅう)を廃して一極の玄宗を立つ。故に凡を斥(しり)ぞけ聖を呵し、大を排し小を破る・乃至此くの如きの徒・悉く留難を為す」等云云。
 伝教大師云く「代を語れば則ち像の終り・末の始め、地を尋れば唐の東・羯(かつ)の西、人を原(たずぬ)れば則ち五濁の生・闘諍の時なり。経に云く猶多怨嫉(ゆたおんしつ)・況滅度後(きょうめつどご)と。此の言良(ことば・まこと)に以(ゆえ)有るなり」等云云。此の伝教大師の筆跡は其の時に当るに似たれども・意は当時を指すなり。正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有りの釈は心有るかな。
 経に云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉(やしゃ)・鳩槃荼(くはんだ)等、其の便(たよ)りを得ん」云云。言う所の等とは此の経に又云わく「若は夜叉・若は羅刹(らせつ)・若は餓鬼・若は富単那(ふたんな)・若は吉遮(きっしゃ)・若は毘陀羅(びだら)・若は犍駄(けんだ)・若は烏摩勒伽(うまろぎゃ)・若は阿跋摩羅(あばつまら)・若は夜叉吉遮(やしゃきっしゃ)・若は人吉遮(にんきっしゃ)」等云云。此の文の如きは先生(せんしょう)に四味三教・乃至外道(げどう)・人天等の法を持得して今生(こんじょう)に悪魔・諸天・諸人等の身を受けたる者が、円実の行者を見聞して留難を至すべき由を説くなり。

 疑つて云く、正像の二時を末法に相対するに、時と機と共に正像は殊に勝るるなり。何ぞ其の時機を捨てて偏(ひとえ)に当時を指すや。
 答えて云く、仏意(ぶっち)測(はか)り難し、予未だ之を得ず。試みに一義を案じ小乗経を以て之を勘(かんが)うるに、正法千年は教行証(きょうぎょうしょう)の三つ具(つぶ)さに之を備う。像法千年には教行のみ有つて証無し。末法には教のみ有つて行証無し等云云。
 法華経を以て之を探るに、正法千年に三事を具するは在世に於て法華経に結縁(けちえん)する者か。其の後・正法に生れて小乗の教行を以て縁と為し、小乗の証を得るなり。像法に於ては在世の結縁微薄(けちえんびはく)の故に、小乗に於て証すること無く、此の人・権大乗を以て縁と為して十方の浄土に生ず。

 末法に於ては大小の益・共に之無し。小乗には教のみ有つて行証無し、大乗には教行のみ有つて冥顕(みょうけん)の証之無し。其の上・正像の時の所立の権小の二宗、漸漸(ぜんぜん)に末法に入って執心・弥(いよいよ)強盛(ごうじょう)にして小を以て大を打ち、
権を以て実を破り、国土に大体謗法の者充満するなり。仏教に依つて悪道に堕する者は大地微塵(みじん)よりも多く、正法を行じて仏道を得る者は爪上(そうじょう)の土よりも少なし。此の時に当つて諸天善神、其の国を捨離(しゃり)し、但邪天・邪鬼等有つて王臣・比丘・比丘尼等の身心に入住し、法華経の行者を罵詈(めり)・毀辱(きにく)せしむべき時なり。

 爾(しか)りと雖も仏の滅後に於て四味・三教等の邪執(じゃしゅう)を捨て実大乗の法華経に帰せば、諸天善神並びに地涌千界等の菩薩・法華の行者を守護せん。此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか。例せば威音王仏(いおんのうぶつ)の像法の時、不軽菩薩・我深敬(がじんきょう)等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し、一国の杖木(じょうもく)等の大難を招きしが如し。彼の二十四字と此の五字と其の語・殊なりと雖も其の意是れ同じ。彼の像法の末と是の末法の初めと全く同じ。彼の不軽菩薩は初随喜(しょずいき)の人、日蓮は名字(みょうじ)の凡夫なり。

 疑つて云く、何を以て之を知る。汝を末法の初めの法華経の行者なりと為すと云うことを。
 答えて云く、法華経に云く「況んや滅度の後をや」又云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈(あっくめり)等し・及び刀杖(とうじょう)を加うる者あらん」又云く「数数擯出(しばしばひんずい)せられん」又云く「一切世間怨(あだ)多くして信じ難し」又云く「杖木瓦石(じょうもく・がしゃく)をもつて之を打擲(ちょうちゃく)す」又云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉(やしゃ)・鳩槃荼(くはんだ)等・其の便りを得ん」等云云。
 此の明鏡に付いて仏語を信ぜしめんが為に・日本国中の王臣・四衆の面目に引き向えたるに、予よりの外には一人も之無し。時を論ずれば末法の初め一定(いちじょう)なり。然る間・若し日蓮無くんば仏語は虚妄(こもう)と成らん。
 難じて云く、汝は大慢の法師にして大天に過ぎ、四禅比丘にも超えたり如何。
 答えて云く、汝・日蓮を蔑如(べつじょ)するの重罪又提婆達多(だいばだった)に過ぎ・無垢論師(むくろんし)にも超えたり。我が言は大慢に似たれども仏記(ぶっき)を扶(たす)け、如来の実語を顕はさんが為なり。然りと雖も日本国中に日蓮を除いては・誰人を取り出して法華経の行者と為さん。汝・日蓮を謗(そし)らんとして仏記を虚妄にす。豈(あに)大悪人に非ずや。
 疑って云はく、如来の未来記・汝に相当れり。但し五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之有るか如何。
 答えて云く、四天下(してんげ)の中に全く二の日無し、四海の内・豈(あに)両主有らんや。
 疑つて云く、何を以て汝之を知る。
 答えて云く、月は西より出でて東を照し、日は東より出でて西を照す。仏法も又以て是くの如し。正像には西より東に向い、末法には東より西に往く。妙楽大師(みょうらくだいし)の云く「豈中国に法を失いて之を四維(しい)に求むるに非ずや」等云云。天竺に仏法無き証文なり。漢土に於て高宗(こうそう)皇帝の時、北狄東京(ほくてき・とんきん)を領して今に一百五十余年。仏法・王法共に尽き了んぬ。漢土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く、大乗経は多分之を失す。日本より寂照(じゃくしょう)等少少之を渡す。然りと雖も伝持の人無れば猶木石(もくせき)の衣鉢(えはつ)を帯持(たいじ)せるが如し。故に遵式(じゅんしき)の云く「始め西より伝う、猶月の生ずるが如し。今復(また)東より返る、猶日の昇るが如し」等云云。此等の釈の如くんば天竺・漢土に於て仏法を失せること勿論なり。
 問うて云く、月氏・漢土に於て仏法無きことは之を知れり。東西北の三洲に仏法無き事は何を以て之を知る。
 答えて云く、法華経の第八に云く「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云。内の字は三洲を嫌う文なり。
 問うて曰く、仏記・既に此くの如し。汝が未来記如何。
 答えて曰く、仏記に順じて之を勘うるに、既に後五百歳の始めに相当れり。仏法必ず東土の日本より出づべきなり。其の前相必ず正像に超過せる天変地夭(てんぺんちよう)之れ有るか。所謂仏生(ぶっしょう)の時・転法輪の時・入涅槃の時、吉瑞(きちずい)・凶瑞(きょうずい)共に前後に絶えたる大瑞なり。
 仏は此れ聖人の本なり。経経の文を見るに仏の御誕生の時は五色の光気・四方に遍くして夜も昼の如し。仏御入滅の時には十二の白虹(はくこう)・南北に亘り、大日輪光り無くして闇夜の如くなりし。其の後・正像二千年の間・内外(ないげ)の聖人・生滅有れども此の大瑞(だいずい)には如かず。
 而るに去ぬる正嘉(しょうか)年中より今年に至るまで、或は大地震・或は大天変・宛(あた)かも仏陀(ぶつだ)の生滅の時の如し。当に知るべし、仏の如き聖人生れたまわんか。大虚(おおぞら)に亘つて大彗星(ほうきぼし)出づ、誰の王臣を以て之に対せん。当瑞(とうずい)大地を傾動して三たび振裂(しんれつ)す、何れの聖賢を以て之に課(おお)せん。当に知るべし、通途(つうず)世間の吉凶の大瑞には非ざるべし。惟(こ)れ偏(ひとえ)に此の大法興廃の大瑞なり。天台云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り、華の盛んなるを見て池の深きを知る」等云云。妙楽の云く「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を識る」等云云。
 日蓮此の道理を存して既に二十一年なり。日来(ひごろ)の災・月来(つきごろ)の難・此の両三年の間の事・既に死罪に及ばんとす。今年・今月万が一も脱がれ難き身命(しんみょう)なり。世の人・疑い有らば委細(いさい)の事は弟子に之を問え。
 幸ひなるかな一生の内に無始(むし)の謗法(ほうぼう)を消滅せんことを、悦ばしいかな未だ見聞せざる教主釈尊に侍(つか)え奉らんことよ。願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん、我を扶(たす)くる弟子等をば釈尊に之を申さん。我を生める父母等には未だ死せざる已前(いぜん)に此の大善を進めん。
 但し今、夢の如く宝塔品(ほうとうほん)の心を得たり。此の経に云く「若し須弥(しゅみ)を接(と)つて他方の無数の仏土に擲(な)げ置かんも亦未だ為(これ)難しとせず・乃至若し仏の滅後に悪世の中に於て能く此の経を説かん。是れ則ち為(これ)難し」等云云。 
 伝教大師云く「浅きは易く・深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し・法華宗を助けて震旦(しんたん)に敷揚(ふよう)し、叡山の一家は天台に相承し・法華宗を助けて日本に弘通す」等云云。
 安州の日蓮は恐くは三師に相承し・法華宗を助けて末法に流通(るつう)す。三に一を加えて三国四師と号(なず)く。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

文永十年 太歳癸酉 後(たいさい・みずのととり・のちの)五月十一日   桑門日蓮之を記す




by johsei1129 | 2024-09-24 11:55 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)


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