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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 26日

末法において報恩とは「妙法蓮華経」を説き仏身に入らしめる事であることをあかした書『報恩抄』 その一

【報恩抄(ほうおんしょう】
■出筆時期:建治二年七月二十一日(西暦1276年)、日蓮大聖人55歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵
■出筆の経緯:幼少時代に修行した清澄寺時代の師である道善房への供養のため、当時兄弟子(後に大聖人の弟子となる)である「浄顕房と義浄房」宛に、弟子日向を使者として本書を持参させ、あわせて故道善房の墓前で本抄を拝読させている。八万四千宝蔵といわれる仏法のなかで、最第一の『法』である『妙法蓮華経』を流布し、一切衆生を救済することこそが、師への報恩であることを明かしておられる。

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■御真筆:池上本門寺、ほか五箇所に断簡所蔵。

[報恩抄 本文] その一        

                日蓮之を撰す

 夫れ老狐は塚をあとにせず、白亀(はくき)は毛宝が恩をほうず。畜生すらかくのごとし、いわうや人倫をや。されば古への賢者・予譲といゐし者は剣をのみて智伯が恩にあて、こう(弘)演と申せし臣下は腹をさ(割)ひて衛の懿公(いこう)が肝を入れたり。いかにいわうや仏教をならはん者、父母・師匠・国恩をわするべしや。此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ、智者とならで叶うべきか。譬へば衆盲をみちびかんには生盲(いきめくら)の身にては橋河をわたしがたし、方風を弁えざらん大舟は諸商を導きて宝山にいたるべしや。

 仏法を習い極めんとをもはば・いとまあらずば・叶うべからず。いとまあらんとをもはば父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず。是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随うべからず。この義は諸人をもはく、顕にもはづれ・冥にも叶うまじと・をもう。しかれども外典の孝経にも父母主君に随はずして忠臣・孝人なるやうもみえたり。内典の仏経に云く「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」等云云。比干(ひかん)が王に随わずして賢人のな(名)をとり、悉達(しった)太子の浄飯(じょうぼん)大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。

 かくのごとく存して父母・師匠等に随わずして仏法をうかがひし程に、一代聖教をさとるべき明鏡十あり。所謂(いわゆ)る倶舎・成実(じょうじつ)・律宗・法相(ほっそう)・三論・真言・華厳・浄土・禅宗・天台法華宗なり。此の十宗を明師として一切経の心をしるべし。
 世間の学者等おもえり、此の十の鏡はみな正直に仏道の道を照らせりと。小乗の三宗はしばらく・これををく、民の消息の是非につけて他国へわたるに用なきがごとし。大乗の七鏡こそ生死の大海をわたりて浄土の岸につく大船なれば、此を習いほどひて我がみ(身)も助け・人をも・みちびかんとおもひて習ひみるほどに、大乗の七宗いづれも・いづれも自讃あり。我が宗こそ一代の心は・え(得)たれ・えたれ等云云。

 所謂・華厳宗の杜順・智儼(ちごん)・法蔵・澄観等、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭等、三論宗の興皇・嘉祥(かじょう)等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等、禅宗の達磨(だるま)・慧可・慧能等、浄土宗の道綽(どうしゃく)・善導・懐感(えかん)・源空等。此等の宗宗みな本経・本論によりて我も我も一切経をさとれり、仏意をきはめたりと云云。

 彼の人人云く・一切経の中には華厳経第一なり、法華経・大日経等は臣下のごとし。真言宗の云く・一切経の中には大日経第一なり、余経は衆星のごとし。禅宗が云く・一切経の中には楞伽経(りょうがきょう)第一なり・乃至余宗かくのごとし。而も上に挙ぐる諸師は世間の人人・各各おもえり。諸天の帝釈をうやまひ、衆星の日月に随うがごとし。我等凡夫はいづれの師師なりとも信ずるならば不足あるべからず。仰いでこそ信ずべけれども日蓮が愚案は(晴)れがたし。
 世間をみるに各各・我も我もといへども国主は但一人なり。二人となれば国土おだやかならず。家に二の主あれば其の家必ずやぶる。一切経も又かくのごとくや有るらん。何(いずれ)の経にても・をはせ、一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ。

 而るに十宗七宗まで各各・諍論して随はず。国に七人・十人の大王ありて万民をだやかならじ。いかんがせんと疑うところに一(ひとつ)の願を立つ。我れ八宗十宗に随はじ。天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく・一切経を開きみるに、涅槃経と申す経に云く「法に依つて人に依らざれ」等云云。依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉りて外(ほか)の普賢菩薩・文殊師利菩薩・乃至上(かみ)にあぐるところの諸の人師なり。
 此の経に又云く「了義経に依つて不了義経に依らざれ」等云云。此の経に指すところ、了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり。されば仏の遺言(ゆいごん)を信ずるならば、専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか。


[報恩抄 本文] その二に続く




by johsei1129 | 2019-10-26 17:12 | 報恩抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)


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