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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 03月 12日

末法こそ妙法蓮華経の流布する時であることをあきらかにした書【撰時抄】 その五

[撰時抄 本文] その五
疑つて云く法華経を真言に勝ると申す人は此の釈をばいかがせん用うべきか又すつべきか、答う仏の未来を定めて云く「法に依つて人に依らざれ」竜樹菩薩の云く「修多羅に依れるは白論なり修多羅に依らざれば黒論なり」天台の云く「復修多羅と合せば録して之を用ゆ文無く義無きは信受すべからず」伝教大師云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」等云云、此等の経論釈のごときんば夢を本にはすべからずただついさして法華経と大日経との勝劣を分明に説きたらん経論の文こそたいせちに候はめ、但印真言なくば木画の像の開眼の事・此れ又をこの事なり真言のなかりし已前には木画の開眼はなかりしか、天竺・漢土・日本には真言宗已前の木画の像は或は行き或は説法し或は御物言あり、印・真言をもて仏を供養せしよりこのかた利生もかたがた失たるなり、此れは常の論談の義なり、此の一事にをひては但し日蓮は分明の証拠を余所に引くべからず慈覚大師の御釈を仰いで信じて候なり。

  問うて云く何にと信ぜらるるや、答えて云く此の夢の根源は真言は法華経に勝ると造定めての御ゆめなり、此の夢吉夢ならば慈覚大師の合せさせ給うがごとく真言勝るべし、但日輪を射るとゆめにみたるは吉夢なりというべきか、内典五千七千余巻外典三千余巻の中に日を射るとゆめに見て吉夢なる証拠をうけ給わるべし、少少此れより出し申さん阿闍世王は天より月落るとゆめにみて耆婆大臣に合せさせ給しかば大臣合せて云く仏の御入滅なり須抜多羅天より日落るとゆめにみる我とあわせて云く仏の御入滅なり、修羅は帝釈と合戦の時まづ日月をいたてまつる、夏の桀・殷の紂と申せし悪王は常に日をいて身をほろぼし国をやぶる、摩耶夫人は日をはらむとゆめにみて悉達太子をうませ給う、かるがゆへに仏のわらわなをば日種という、日本国と申すは天照太神の日天にてましますゆへなり、されば此のゆめは天照太神・伝教大師・釈迦仏・法華経をいたてまつれる矢にてこそ二部の疏は候なれ、日蓮は愚癡の者なれば経論もしらず但此の夢をもつて法華経に真言すぐれたりと申す人は今生には国をほろぼし家を失ひ後生にはあび地獄に入るべしとはしりて候。

今現証あるべし日本国と蒙古との合戦に一切の真言師の調伏を行ひ候へば日本かちて候ならば真言はいみじかりけりとおもひ候なん、但し承久の合戦にそこばくの真言師のいのり候しが調伏せられ給し権の大夫殿はかたせ給い。後鳥羽院は隠岐の国へ御子の天子は佐渡の嶋嶋へ調伏しやりまいらせ候いぬ、結句は野干のなきの身にをうなるやうに還著於本人の経文にすこしもたがはず叡山の三千人かまくらにせめられて一同にしたがいはてぬ、しかるに今はかまくらの世さかんなるゆへに東寺・天台・園城・七寺の真言師等と並びに自立をわすれたる法華宗の謗法の人人・関東にをちくだりて頭をかたぶけひざをかがめやうやうに武士の心をとりて、諸寺・諸山の別当となり長吏となりて王位を失いし悪法をとりいだして国土安穏といのれば、将軍家並びに所従の侍已下は国土の安穏なるべき事なんめりとうちをもひて有るほどに法華経を失う大禍の僧どもを用いらるれば国定めてほろびなん。

亡国のかなしさ亡身のなげかしさに身命をすてて此の事をあらわすべし、国主世を持つべきならばあやしとおもひてたづぬべきところにただざんげんのことばのみ用いてやうやうのあだをなす、而るに法華経守護の梵天・帝釈・日月・四天・地神等は古の謗法をば不思議とはをぼせども此れをしれる人なければ一子の悪事のごとくうちゆるして、いつわりをろかなる時もあり又すこしつみしらする時もあり。

今は謗法を用いたるだに不思議なるにまれまれ諌暁する人をかへりてあだをなす、一日二日・一月・二月・一年・二年ならず数年に及ぶ、彼の不軽菩薩の杖木の難に値いしにもすぐれ、覚徳比丘の殺害に及びしにもこえたり。而る間・梵釈の二王・日月・四天・衆星・地神等やうやうにいかり度度いさめらるれども・いよいよあだをなすゆへに天の御計いとして、隣国の聖人にをほせつけられて此れをいましめ大鬼神を国に入れて人の心をたぼらかし自界反逆せしむ。吉凶につけて瑞大なれば難多かるべきことわりにて、仏滅後・二千二百三十余年が間いまだいでざる大長星いまだふらざる大地しん出来せり。

漢土・日本に智慧すぐれ才能いみじき聖人は度度ありしかどもいまだ日蓮ほど法華経のかたうどして国土に強敵多くまうけたる者なきなり。まづ眼前の事をもつて日蓮は閻浮提第一の者としるべし。

仏法日本にわたて七百余年・一切経は五千七千・宗は八宗十宗・智人は稲麻のごとし弘通は竹葦ににたり、しかれども仏には阿弥陀仏・諸仏の名号には弥陀の名号ほどひろまりてをはするは候はず、此の名号を弘通する人は慧心は往生要集をつくる日本国・三分が一は一同の弥陀念仏者・永観は十因と往生講の式をつくる扶桑三分が二分は一同の念仏者・法然せんちやくをつくる本朝一同の念仏者、而れば今の弥陀の名号を唱うる人人は一人が弟子にはあらず、此の念仏と申すは雙観経・観経・阿弥陀経の題名なり権大乗経の題目の広宣流布するは実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや、心あらん人は此れをすひしぬべし、権経流布せば実経流布すべし権経の題目流布せば実経の題目も又流布すべし、欽明より当帝にいたるまで七百余年いまだきかずいまだ見ず南無妙法蓮華経と唱えよと他人をすすめ我と唱えたる智人なし、日出でぬれば星かくる賢王来れば愚王ほろぶ実経流布せば権経のとどまり智人・南無妙法蓮華経と唱えば愚人の此れに随はんこと影と身と声と響とのごとくならん、日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、これをもつてすいせよ漢土月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず。

 問うて云く正嘉の大地しん文永の大彗星はいかなる事によつて出来せるや答えて云く天台云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、問て云く心いかん、答えて云く上行菩薩の大地より出現し給いたりしをば弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等の四十一品の無明を断ぜし人人も元品の無明を断ぜざれば愚人といはれて寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、此の菩薩を召し出されたるとはしらざりしという事なり、問うて云く日本漢土月支の中に此の事を知る人あるべしや、答えて云く見思を断尽し四十一品の無明を尽せる大菩薩だにも此の事をしらせ給はずいかにいわうや一毫の惑をも断ぜぬ者どもの此の事を知るべきか、問うて云く智人なくばいかでか此れを対治すべき例せば病の所起を知らぬ人の病人を治すれば人必ず死す、此の災の根源を知らぬ人人がいのりをなさば国まさに亡びん事疑いなきか、あらあさましやあらあさましや、答えて云く蛇は七日が内の大雨をしり烏は年中の吉凶をしる此れ則ち大竜の所従又久学のゆへか、日蓮は凡夫なり、此の事をしるべからずといえども汝等にほぼこれをさとさん、彼の周の平王の時・禿にして裸なる者出現せしを辛有といゐし者うらなつて云く百年が内に世ほろびん同じき幽王の時山川くづれ大地ふるひき白陽と云う者勘えていはく十二年の内に大王事に値せ給うべし、今の大地震・大長星等は国王・日蓮をにくみて亡国の法たる禅宗と念仏者と真言師をかたふどせらるれば天いからせ給いていださせ給うところの災難なり。

  問うて云くなにをもつてか此れを信ぜん、答えて云く最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行われず」等云云、此の経文のごときんば此国に悪人のあるを王臣此れを帰依すという事疑いなし、又此の国に智人あり国主此れをにくみてあだすという事も又疑いなし、又云く「三十三天の衆咸忿怒の心を生じ変怪流星堕ち二の日倶時に出で他方の怨賊来りて国人喪乱に遭わん」等云云、すでに此の国に天変あり地夭あり他国より此れをせむ三十三天の御いかり有こと又疑いなきか、仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王太子王子の前に於て自ら破仏法の因縁破国の因縁を説く其王別ずして信じて此語を聴く」等云云、又云く「日月度を失い時節反逆し或は赤日出で或は黒日出で二三四五の日出で或は日蝕して光無く或は日輪一重二重四五重輪現ず」等云云。

文の心は悪比丘等・国に充満して国王・太子・王子等をたぼらかして破仏法・破国の因縁をとかば其の国の王等此の人にたぼらかされてをぼすやう、此の法こそ持仏法の因縁・持国の因縁とをもひ此の言ををさめてをこなうならば日月に変あり大風と大雨と大火等出来し次には内賊と申して親類より大兵乱おこり我がかたうどしぬべき者をば皆打ち失いて後には他国にせめられて或は自殺し或はいけどりにせられて或は降人となるべし。
是れ偏に仏法をほろぼし国をほろぼす故なり、守護経に云く「彼の釈迦牟尼如来所有の教法は一切の天魔外道悪人五通の神仙皆乃至少分をも破壊せず而るに此の名相の諸の悪沙門皆悉く毀滅して余り有ること無からしむ須弥山を仮使三千界の中の草木を尽して薪と為し長時に焚焼すとも一毫も損すること無し若し劫火起りて火内従り生じ須臾も焼滅せんには灰燼をも余す無きが如し」等云云、蓮華面経に云く「仏阿難に告わく譬えば師子の命終せんに若しは空若しは地若しは水若しは陸所有の衆生敢て師子の身の宍を食わず唯師子自ら諸の虫を生じて自ら師子の宍を食うが如し阿難我が之の仏法は余の能く壊るに非ず是れ我法の中の諸の悪比丘我が三大阿僧祇劫積行勤苦し集むる所の仏法を破らん」等云云、経文の心は過去の迦葉仏釈迦如来の末法の事を訖哩枳王にかたらせ給い釈迦如来の仏法をばいかなるものがうしなうべき、大族王の五天の堂舎を焼き払い十六大国の僧尼を殺せし漢土の武宗皇帝の九国の寺塔四千六百余所を消滅せしめ僧尼二十六万五百人を還俗せし等のごとくなる悪人等は釈迦の仏法をば失うべからず、三衣を身にまとひ一鉢を頚にかけ八万法蔵を胸にうかべ十二部経を口にずうせん僧侶が彼の仏法を失うべし、譬へば須弥山は金の山なり三千大千世界の草木をもつて四天六欲に充満してつみこめて一年二年百千万億年が間やくとも一分も損ずべからず、而るを劫火をこらん時須弥の根より豆計りの火いでて須弥山をやくのみならず三千大千世界をやき失うべし、若し仏記のごとくならば十宗・八宗・内典の僧等が仏教の須弥山をば焼き払うべきにや、小乗の倶舎・成実・律僧等が大乗をそねむ胸の瞋恚は炎なり真言の善無畏・禅宗の三階等・浄土宗の善導等は仏教の師子の肉より出来せる蝗虫の比丘なり、伝教大師は三論・法相・華厳等の日本の碩徳等を六虫とかかせ給へり、日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく、又天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり。

 此等の大謗法の根源をただす日蓮にあだをなせば天神もをしみ地祇もいからせ給いて災夭も大に起るなり、されば心うべし一閻浮提第一の大事を申すゆへに最第一の瑞相此れをこれり、あわれなるかなや・なげかしきかなや日本国の人皆無間大城に堕ちむ事よ、悦しきかなや・楽かなや不肖の身として今度心田に仏種をうえたる、いまにしもみよ大蒙古国・数万艘の兵船をうかべて日本をせめば上一人より下万民にいたるまで一切の仏寺一切の神寺をばなげすてて各各声をつるべて南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え掌を合せてたすけ給え、日蓮の御房・日蓮の御房とさけび候はんずるにや、例せば月支のいう大族王は幻日王に掌をあはせ日本の宗盛はかぢわらをうやまう、大慢のものは敵に随うという・このことわりなり、彼の軽毀大慢の比丘等は始めには杖木をととのへて不軽菩薩を打ちしかども後には掌をあはせて失をくゆ、提婆達多は釈尊の御身に血をいだししかども臨終の時には南無と唱えたりき、仏とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりしを業ふかくして但南無とのみとなへて仏とはいはず、今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん。

 外典に曰く未萠をしるを聖人という、内典に云く三世を知るを聖人という。余に三度のかうみようあり一には去し文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時宿谷の入道に向つて云く禅宗と念仏宗とを失い給うべしと申させ給へ此の事を御用いなきならば此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給うべし、二には去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ、第三には去年文永十一年四月八日左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑いなし、殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師・調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば頼綱問うて云くいつごろよせ候べき、予言く経文にはいつとはみへ候はねども天の御気色いかりすくなからず・きうに見へて候よも今年はすごし候はじと語りたりき。

此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず只偏に釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり、経に云く所謂諸法如是相と申すは何事ぞ十如是の始の相如是が第一の大事にて候へば仏は世にいでさせ給う、智人は起をしる蛇みづから蛇をしるとはこれなり、衆流あつまりて大海となる微塵つもりて須弥山となれり。日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一たい・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ。

  問うて云く第二の文永八年九月十二日の御勘気の時はいかにとして我をそんせば自他のいくさをこるべしとはしり給うや、答う大集経五十に云く「若し復諸の刹利国王諸の非法を作し世尊の声聞の弟子を悩乱し若しは以て毀罵し刀杖をもて打斫し及び衣鉢種種の資具を奪い若しは他の給施に留難を作す者有らば我等彼をして自然に卒に他方の怨敵を起さしめ及び自界の国土にも亦兵起り飢疫飢饉非時の風雨闘諍言訟譏謗せしめ、又其の王をして久しからずして復当に己れが国を亡失せしむべし」等云云、夫れ諸経に諸文多しといえども此の経文は身にあたり時にのぞんで殊に尊くをぼうるゆへにこれをせんしいだす、此の経文に我等とは梵王と帝釈と第六天の魔王と日月と四天等の三界の一切の天竜等なり、此等の上主・仏前に詣して誓つて云く仏の滅後・正法・像法・末代の中に正法を行ぜん者を邪法の比丘等が国主にうつたへば王に近きもの王に心よせなる者・我がたつとしとをもう者のいうことなれば理不尽に是非を糾さず・彼の智人をさんざんとはぢにをよばせなんどせば、其の故ともなく其の国ににわかに大兵乱・出現し後には他国にせめらるべし其の国主もうせ其の国もほろびなんずととかれて候、いたひとかゆきとはこれなり、予が身には今生にはさせる失なし但国をたすけんがため生国の恩をほうぜんと申せしを御用いなからんこそ本意にあらざるに、あまさへ召し出して法華経の第五の巻を懐中せるをとりいだしてさんざんとさいなみ、結句はこうぢをわたしなんどせしかば申したりしなり、日月天に処し給いながら日蓮が大難にあうを今度かわらせ給はずば一つには日蓮が法華経の行者ならざるか忽に邪見をあらたむべし。
若し日蓮・法華経の行者ならば忽に国にしるしを見せ給へ若ししからずば今の日月等は釈迦・多宝・十方の仏をたぶらかし奉る大妄語の人なり、提婆が虚誑罪・倶伽利が大妄語にも百千万億倍すぎさせ給へる大妄語の天なりと声をあげて申せしかば忽に出来せる自界反逆難なり、されば国土いたくみだれば我身はいうにかひなき凡夫なれども御経を持ちまいらせ候分斉は当世には日本第一の大人なりと申すなり。

 問うて云く慢煩悩は七慢・九慢・八慢あり汝が大慢は仏教に明すところの大慢にも百千万億倍すぐれたり、彼の徳光論師は弥勒菩薩を礼せず・大慢婆羅門は四聖を座とせり、大天は凡夫にして阿羅漢となのる・無垢論師が五天第一といゐし、此等は皆阿鼻に堕ちぬ無間の罪人なり汝いかでか一閻浮提第一の智人となのれる地獄に堕ちざるべしやおそろしおそろし、答えて云く汝は七慢・九慢・八慢等をばしれりや大覚世尊は三界第一となのらせ給う一切の外道が云く只今天に罰せらるべし大地われて入りなんと、日本国の七寺・三百余人が云く最澄法師は大天が蘇生か鉄腹が再誕か等云云、而りといえども天も罰せずかへて左右を守護し地もわれず金剛のごとし、伝教大師は叡山を立て一切衆生の眼目となる結句七大寺は落ちて弟子となり諸国は檀那となる、されば現に勝れたるを勝れたりという事は慢ににて大功徳なりけるか、伝教大師云く「天台法華宗の諸宗に勝れたるは所依の経に拠るが故に自讃毀他ならず」等云云法華経第七に云く「衆山の中に須弥山これ第一なり此の法華経も亦復かくの如し諸経の中に於て最もこれ其の上なり」等云云、此の経文は已説の華厳・般若・大日経等、今説の無量義経、当説の涅槃経等の五千・七千・月支・竜宮・四王天・とう利天・日月の中の一切経・尽十方界の諸経は土山・黒山・小鉄囲山・大鉄囲山のごとし日本国にわたらせ給える法華経は須弥山のごとし。

 又云く「能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是くの如し、一切衆生の中に於て亦これ第一なり」等云云、此の経文をもつて案ずるに華厳経を持てる普賢菩薩・解脱月菩薩等・竜樹菩薩・馬鳴菩薩・法蔵大師・清涼国師・則天皇后・審祥大徳・良弁僧正・聖武天皇・深密般若経を持てる勝義生菩薩・須菩提尊者・嘉祥大師・玄奘三蔵・太宗・高宗・観勒・道昭・孝徳天皇、真言宗の大日経を持てる金剛薩た・竜猛菩薩・竜智菩薩・印生王・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・玄宗・代宗・慧果・弘法大師・慈覚大師、涅槃経を持てる迦葉童子菩薩・五十二類・曇無懺三蔵、光宅寺の法雲南三北七の十師等よりも末代悪世の凡夫の一戒も持たず一闡提のごとくに人には思はれたれども、経文のごとく已今当にすぐれて法華経より外は仏になる道なしと強盛に信じて而も一分の解なからん人人は、彼等の大聖には百千万億倍のまさりなりと申す経文なり、彼の人人は或は彼の経経に且く人を入れて法華経へうつさんがためなる人もあり、或は彼の経に著をなして法華経へ入らぬ人もあり、或は彼の経経に留逗のみならず彼の経経を深く執するゆへに法華経を彼の経に劣るという人もあり、されば今法華経の行者は心うべし、譬えば「一切の川流江河の諸水の中に海これ第一なるが如く法華経を持つ者も亦復是くの如し、又衆星の中に月天子最もこれ第一なるが如く法華経を持つ者も亦復是くの如し」等と御心えあるべし、当世日本国の智人等は衆星のごとし日蓮は満月のごとし。

 問うて云く古へかくのごとくいえる人ありや、答えて云く伝教大師の云く「当に知るべし他宗所依の経は未だ最為第一ならず其の能く経を持つ者も亦未だ第一ならず天台法華宗は所持の経最為第一なるが故に能く法華を持つ者も亦衆生の中に第一なり、已に仏説に拠る豈自歎ならんや」等云云、夫れ麒麟の尾につけるだにの一日に千里を飛ぶといゐ、転王に随える劣夫の須臾に四天下をめぐるというをば難ずべしや疑うべしや、豈自歎哉の釈は肝にめいずるか若し爾らば法華経を経のごとくに持つ人は梵王にもすぐれ帝釈にもこえたり、修羅を随へば須弥山をもになひぬべし竜をせめつかはば大海をもくみほしぬべし、伝教大師云く「讃むる者は福を安明に積み謗る者は罪を無間に開く」等云云、法華経に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」等云云、教主釈尊の金言まことならば多宝仏の証明たがずば十方の諸仏の舌相一定ならば今日本国の一切の衆生・無間地獄に堕ちん事疑うべしや、法華経の八の巻に云く「若し後の世に於て是の経典を受持し読誦せん者は乃至諸願虚しからず、亦現世に於て其の福報を得ん」又云く「若し之を供養し讃歎すること有らん者は当に今世に於て現の果報を得べし」等云云、此の二つの文の中に亦於現世・得其福報の八字・当於今世・得現果報の八字・已上十六字の文むなしくして日蓮今生に大果報なくば如来の金言は提婆が虚言に同じく多宝の証明は倶伽利が妄語に異ならじ、謗法の一切衆生も阿鼻地獄に堕つべからず、三世の諸仏もましまさざるか。
されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して此の度仏法を心みよ、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

 抑此の法華経の文に「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」、涅槃経に云く「譬えば王使の善能談論して方便に巧なる命を他国に奉るに寧ろ身命を喪うとも終に王所説の言教を匿さざるが如し智者も亦爾なり凡夫中に於て身命を惜まずかならず大乗方等如来の秘蔵一切衆生に皆仏性有りと宣説すべし」等云云。いかやうな事のあるゆへに身命をすつるまでにてあるやらん委細にうけ給わり候はん、答えて云く予が初心の時の存念は伝教・弘法・慈覚・智証等の勅宣を給いて漢土にわたりし事の我不愛身命にあたれるか、玄奘三蔵の漢土より月氏に入りしに六生が間・身命をほろぼししこれ等か、雪山童子の半偈のために身をなげ、薬王菩薩の七万二千歳が間・臂をやきし事かなんどをもひしほどに経文のごときんば此等にはあらず、経文に我不愛身命と申すは上に三類の敵人をあげて彼等がのりせめ刀杖に及んで身命をうばうともみへたり、又涅槃経の文に寧喪身命等ととかれて候は次下の経文に云く「一闡提有り羅漢の像を作し空処に住し方等経典を誹謗す、諸の凡夫人見已つて皆真の阿羅漢是れ大菩薩なりと謂わん」等云云。

彼の法華経の文に第三の敵人を説いて云く「或は阿蘭若に納衣にして空閑に在つて乃至世に恭敬せらるること六通の羅漢の如き有らん」等云云、般泥〓経に云く「羅漢に似たる一闡提有つて悪業を行ず」等云云、此等の経文は正法の強敵と申すは悪王悪臣よりも外道魔王よりも破戒の僧侶よりも、持戒有智の大僧の中に大謗法の人あるべし、されば妙楽大師かいて云く「第三最も甚し後後の者は転識り難きを以ての故なり」等云云、法華経の第五の巻に云く「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり、諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云、此の経文に最在其上の四字あり。

されば此の経文のごときんば法華経を一切経の頂にありと申すが法華経の行者にてはあるべきか、而るを又国王に尊重せらるる人人あまたありて、法華経にまさりてをはする経経ましますと申す人にせめあひ候はん時、かの人は王臣に御帰依あり法華経の行者は貧道なるゆへに、国こぞつてこれをいやしみ候はん時、不軽菩薩のごとく賢愛論師がごとく申しつをらば身命に及ぶべし、此れが第一の大事なるべしとみへて候此の事は今の日蓮が身にあたれり、予が分斉として弘法大師・慈覚大師・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵なんどを法華経の強敵なり経文まことならば無間地獄は疑なしなんど申すは裸形にて大火に入るはやすし須弥を手にとてなげんはやすし大石を負うて大海をわたらんはやすし日本国にして此の法門を立てんは大事なるべし云云。

  霊山浄土の教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩等・梵釈・日月・四天等・冥に加し顕に助け給はずば一時一日も安穏なるべしや。

[撰時抄 本文] 完




by johsei1129 | 2014-03-12 22:29 | 撰時抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)
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