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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 19日

末法の法本尊をあきらかにした書【観心本尊抄】 その三

[観心本尊抄 本文] その三
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 又本門十四品の一経に序正流通有り、涌出品(ゆじゅつほん)の半品を序分と為し寿量品と前後の二半と此れを正宗と為す、其の余(よ)は流通分なり、其の教主を論ずれば始成正覚(しじょうしょうかく)の釈尊に非ず、所説の法門も亦天地の如し、十界久遠の上に国土世間既に顕われ一念三千殆んど竹膜(ちくまつ)を隔(へだ)つ、又迹門並びに前四味・無量義経・涅槃(ねはん)経等の三説は悉(ことごと)く随他意の易信易解(いしんいげ)・本門は三説の外の難信難解・随自意なり。

 又本門に於て序正流通有り。過去大通仏の法華経より乃至現在の華厳(けごん)経乃至迹門十四品・涅槃経等の一代五十余年の諸経、十方三世諸仏の微塵(みじん)の経経は、皆寿量の序分なり、一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相(ふそう)教と名く。

 其の機を論ずれば徳薄垢重(とくはくくじゅう)・幼稚(ようち)・貧窮(びんぐ)・孤露(ころ)にして禽獣(きんじゅう)に同ずるなり、爾前迹門の円教尚仏因に非ず、何(いか)に況(いわん)や大日経等の諸小乗経をや、何に況や華厳・真言等の七宗等の論師・人師の宗をや、与えて之を論ずれば前三教を出でず奪つて之を云えば蔵通(ぞうつう)に同ず、設(たと)い法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず還(かえ)つて灰断(けだん)に同じ、化の始終無しとは是なり、譬えば王女たりと雖も畜種を懐妊(かいにん)すれば其の子尚旃陀羅(せんだら)に劣れるが如し、此等は且(しばら)く之を閣(お)く、迹門十四品の正宗の八品は一往之を見るに二乗を以て正と為し菩薩凡夫を以て傍と為す、再往之を勘(かんが)うれば凡夫・正像末を以て正と為す正像末の三時の中にも末法の始を以て正が中の正と為す、問うて曰く其の証如何(いか)ん、答えて曰く法師品に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉(おんしつ)多し、況や滅度の後をや」宝塔品(ほうとうぼん)に云く「法をして久住せしむ乃至(ないし)来れる所の化仏当(けぶつ・まさ)に此の意を知るべし」等、勧持安楽等之を見る可し、迹門是くの如し、本門を以て之を論ずれば一向に末法の初を以て正機と為す、所謂一往之を見る時は久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至つて等妙に登らしむ、再往之を見れば迹門には似ず、本門は序正流通倶(とも)に末法の始を以て詮(せん)と為す、在世の本門と末法の始は一同に純円(じゅんえん)なり、但し彼は脱此れは種なり、彼は一品二半此れは但(ただ)題目の五字なり。

 問うて曰く其の証文如何、答えて云く涌出品に云く「爾(そ)の時に他方の国土の諸(もろもろ)の来れる菩薩摩訶薩(まかさつ)の八恒河沙(ごうがしゃ)の数に過ぎたる大衆の中に於て起立し合掌(がっしょう)し礼を作(な)して仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊若し我等に仏の滅後に於て娑婆(しゃば)世界に在つて勤加精進(ごんかしょうじん)して是の経典を護持し読誦し書写し供養せんことを聴(ゆる)し給わば、当に此の土に於て広く之を説きたてまつるべし、爾の時に仏・諸の菩薩摩訶薩衆に告げ給わく、止(やみ)ね善男子・汝等が此の経を護持せんことを須(もち)いじ」等云云、法師より已下五品の経文前後水火なり、宝塔品の末に云く「大音声を以て普(あまね)く四衆に告ぐ、誰か能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かんものなる」等云云、設(たと)い教主一仏為りと雖も之を奨勧(しょうかん)し給わば薬王等の大菩薩・梵帝・日月・四天等は之を重んず可き処に多宝仏・十方の諸仏客仏と為(し)て之を諌暁(かんぎょう)し給う、諸の菩薩等は此の慇懃(おんごん)の付属を聞いて「我不愛身命(がふあいしんみょう)」の誓言を立つ、此等は偏(ひとえ)に仏意に叶わんが為なり、而るに須臾(しゅゆ)の間に仏語相違して過八恒沙(かはちごうじゃ)の此の土の弘経を制止し給う、進退惟(こ)れ谷(きわ)まり凡智に及ばず、天台智者大師前三後三の六釈を作つて之を会し給えり、所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず、末法の初は謗法の国にして悪機なる故に之を止めて地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮(えんぶ)の衆生に授与せしめ給う、又迹化の大衆は釈尊初発心の弟子等に非ざる故なり、天台大師云く「是れ我が弟子なり応(まさ)に我が法を弘むべし」妙楽云く「子父の法を弘む、世界の益有り」、輔正記(ふしょうき)に云く「法是れ久成の法なるを以ての故に久成の人に付す」等云云。
 又弥勒菩薩疑請(みろくぼさつ・ぎしょう)して云く経に云く「我等は復(ま)た仏の随宜(ずいぎ)の所説・仏所出の言未だ曾て虚妄(こもう)ならず・仏の所知は皆悉(ことごと)く通達し給えりと信ずと雖も、然も諸の新発意(しんぽっち)の菩薩・仏の滅後に於て若し是の語を聞かば或は信受せずして法を破する罪業の因縁を起さん、唯然(ただしか)り世尊・願くは為に解説して我等が疑を除き給え及び未来世の諸の善男子此の事を聞き已(おわ)つて亦疑を生ぜじ」等云云、文の意は寿量の法門は滅後の為に之を請ずるなり、寿量品に云く「或は本心を失える或は失わざる者あり乃至心を失わざる者は此の良薬の色香倶に好きを見て即便(すなわち)之を服するに病尽(ことごと)く除癒(のぞこりいえ)ぬ」等云云、久遠下種・大通結縁(けちえん)乃至前四味迹門等の一切の菩薩・二乗・人天等の本門に於て得道する是なり、経に云く「余の心を失える者は其の父の来れるを見て亦歓喜し問訊(もんじん)して病を治せんことを求むと雖も然も其の薬を与うるに而も肯えて服せず、所以(ゆえん)は何(いか)ん毒気深く入つて本心を失えるが故に此の好き色香ある薬に於て美(うま)からずと謂えり乃至我今当(まさ)に方便を設け此の薬を服せしむべし、乃至是の好き良薬を今留めて此に在(お)く汝取つて服す可し、差(いえ)じと憂うること勿れ、是の教を作(な)し已(おわ)つて復(ま)た他国に至つて使を遣わして還つて告ぐ」等云云、分別功徳品に云く「悪世末法の時」等云云。
 問うて曰く、此の経文の遣使還告(けんしげんごう)は如何、答えて曰く四依なり四依に四類有り、小乗の四依は多分は正法の前の五百年に出現す、大乗の四依は多分は正法の後の五百年に出現す、三に迹門の四依は多分は像法一千年・少分(しょうぶん)は末法の初なり、四に本門の四依は地涌千界末法の始に必ず出現す可し、今の遣使還告は地涌なり是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり、此の良薬をば仏猶迹化に授与し給わず、何に況や他方をや。

 神力品に云く「爾の時に千世界微塵(みじん)等の菩薩摩訶薩(まかさつ)の地より涌出せる者皆仏前に於て一心に合掌し尊顔を瞻仰(せんごう)して仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊・我等仏の滅後・世尊分身の所在の国土・滅度の処に於て当に広く此の経を説くべし」等云云、天台の云く「但下方の発誓(ほっせい)のみを見たり」等云云、道暹(どうせん)云く「付属とは此の経をば唯下方涌出の菩薩に付す、何が故に爾(しか)る、法是れ久成の法なるに由るが故に久成の人に付す」等云云、夫(そ)れ文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)は東方金色世界の不動仏の弟子・観音は西方無量寿仏の弟子・薬王菩薩は日月浄明徳仏の弟子・普賢菩薩(ふげんぼさつ)は宝威仏(ほういぶつ)の弟子なり、一往釈尊の行化を扶(たす)けん為に娑婆世界に来入す又爾前迹門(にぜんしゃくもん)の菩薩なり、本法所持の人に非れば末法の弘法に足らざる者か、経に云く「爾(そ)の時に世尊乃至(せそんないし)一切の衆の前に大神力を現じ給う、広長舌を出して上梵世に至らしめ乃至十方世界衆(もろもろ)の宝樹の下師子の座の上の諸仏も亦復(またまた)是くの如く広長舌を出し給う」等云云、夫れ顕密二道・一切の大小乗経の中に釈迦諸仏並び坐し舌相梵天(ぜっそうぼんてん)に至る文之無し、阿弥陀経の広長舌相三千を覆(おお)うは有名無実なり、般若経(はんにゃきょう)の舌相三千光を放つて般若を説きしも全く証明に非ず、此は皆兼帯(けんたい)の故に久遠を覆相(ふそう)する故なり、是くの如く十神力を現じて地涌の菩薩に妙法の五字を嘱累(ぞくるい)して云く、経に曰く「爾(そ)の時に仏上行等の菩薩大衆に告げ給わく諸仏の神力は是くの如く無量無辺不可思議なり、若し我れ是の神力を以て無量無辺百千万億阿僧祇劫(あそうぎこう)に於て嘱累(ぞくるい)の為の故に此の経の功徳を説くとも猶尽すこと能(あた)わじ、要を以て之を言わば如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要(ひよう)の蔵・如来の一切の甚深の事皆此の経に於て宣示顕説(せんじけんぜつ)す」等云云、天台云く「爾時仏告(にじぶつごう)上行より下は第三結要付属(けっちょうふぞく)なり」云云、伝教云く「又神力品に云く以要言之(いようごんし)・如来一切所有之法・乃至宣示顕説已上経文明かに知んぬ果分の一切の所有の法・果分の一切の自在の神力・果分の一切の秘要の蔵・果分の一切の甚深の事皆法華に於て宣示顕説するなり」等云云、此の十神力は妙法蓮華経の五字を以て上行・安立行・浄行・無辺行等の四大菩薩に授与し給うなり、前の五神力は在世の為、後の五神力は滅後の為なり、爾(しか)りと雖も再往之を論ずれば一向に滅後の為なり、故に次下の文に云く「仏滅度の後に能く此の経を持たんを以ての故に諸仏皆歓喜して無量の神力を現じ給う」等云云。
 
 次下の嘱累品に云く「爾の時に釈迦牟尼仏・法座より起つて大神力を現じ給う、右の手を以て無量の菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)の頂を摩(な)で乃至今以て汝等に付属す」等云云、地涌の菩薩を以て頭(はじめ)と為して迹化他方乃至・梵釈・四天等に此の経を嘱累し給う・十方より来る諸の分身の仏各本土に還(かえ)り給う乃至多宝仏の塔還つて故(もと)の如くし給う可し等云云、薬王品已下(いげ)乃至涅槃経等は地涌の菩薩去り了つて迹化の衆他方の菩薩等の為に重ねて之を付属し給う。捃拾遺嘱(くんじゅういぞく)是なり。

 疑つて云く、正像二千年の間に地涌千界閻浮提(えんぶだい)に出現して此の経を流通するや、答えて曰く爾(しか)らず、驚いて云く法華経並びに本門は仏の滅後を以て本と為して先ず地涌に之を授与す、何ぞ正像に出現して此の経を弘通せざるや、答えて云く宣(の)べず、重ねて問うて云く如何、答う之を宣べず、又重ねて問う如何、答えて曰く之を宣ぶれば一切世間の諸人・威音王仏(いおんのうぶつ)の末法の如く又我が弟子の中にも粗(ほぼ)之を説かば皆誹謗(ひぼう)を為す可し黙止せんのみ、求めて云く説かずんば汝慳貪(けんどん)に堕せん、答えて曰く進退惟(こ)れ谷(きわま)れり試みに粗之を説かん、法師品に云く「況んや滅度の後をや」寿量品に云く「今留めて此に在(お)く」分別功徳品に云く「悪世末法の時」薬王品に云く「後の五百歳閻浮提(えんぶだい)に於て広宣流布せん」涅槃経に云く「譬えば七子あり父母平等ならざるに非ざれども然れども病者に於て心則(すなわ)ち偏(ひとえ)に重きが如し」等云云、已前(いぜん)の明鏡を以て仏意を推知(すいち)するに仏の出世は霊山(りょうぜん)八年の諸人の為に非ず正像末の人の為なり、又正像二千年の人の為に非ず末法の始め予が如き者の為なり、然れども病者に於いてと云うは滅後法華経誹謗の者を指すなり、「今留在此(こんるざいし)」とは「於此好色香薬而謂不美(おしこうしきかやくにいふみ)」の者を指すなり。

 地涌千界正像に出でざることは正法一千年の間は小乗権大乗なり、機時共に之れ無く四依の大士小権を以て縁と為して在世の下種之を脱せしむ、謗多くして熟益を破る可き故に之を説かず、例せば在世の前四味の機根の如し、像法の中末に観音(かんのん)・薬王(やくおう)・南岳・天台等と示現し出現して迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して百界千如・一念三千其の義を尽せり、但理具(ただ・りぐ)を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず、所詮円機(えんき)有つて円時(えんじ)無き故なり。

 今末法の初小を以て大を打ち権を以て実を破し、東西共に之を失し天地顛倒(てんとう)せり。迹化の四依は隠れて現前せず、諸天其の国を棄(す)て之を守護せず、此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ「謗に因(よ)って悪に堕つは必ず因って益を得(う)」とは是なり。
 我が弟子之を惟(おも)え、地涌千界は教主釈尊の初発心(しょほっしん)の弟子なり、寂滅道場に来らず雙林(そうりん)最後にも訪わず不孝の失之れ有り、迹門の十四品にも来らず本門の六品には座を立つ但八品の間に来還(らいげん)せり、是くの如き高貴の大菩薩・三仏に約束して之を受持す末法の初に出で給わざる可きか。
当(まさ)に知るべし此の四菩薩、折伏(しゃくぶく)を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責(かいしゃく)し、摂受(しょうじゅ)を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。
 
 問うて曰く仏の記文は云何(いかん)、答えて曰く「後の五百歳閻浮提(えんぶだい)に於て広宣流布せん」と、天台大師記して云く「後の五百歳遠く妙道に沾(うる)おわん」妙楽記して云く「末法の初冥利(みょうり)無きにあらず」伝教大師云く「正像稍(やや)過ぎ已(おわ)つて末法太だ近きに有り」等云云、末法太有近の釈は我が時は正時に非ずと云う意なり、伝教大師日本にして末法の始を記して云く「代を語れば像の終り末の初・地を尋れば唐の東・羯(かつ)の西・人を原(たずぬ)れば則ち五濁の生・闘諍(とうじょう)の時なり、経に云く猶多怨嫉(ゆたおんしつ)・況滅度後(きょうめつどご)と此の言良(まこ)とに以(ゆえ)有るなり」

 此の釈に闘諍(とうじょう)の時と云云、今の自界叛逆(じかいほんぎゃく)・西海侵逼(さいかいしんぴつ)の二難を指すなり、此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提(いちえんぶだい)第一の本尊此の国に立つ可し、月支震旦(がっし・しんたん)に未だ此の本尊有(ましま)さず、日本国の上宮・四天王寺を建立して未だ時来らざれば阿弥陀・他方を以て本尊と為す、聖武天皇・東大寺を建立す華厳経の教主なり未だ法華経の実義を顕さず、伝教大師粗(ほぼ)法華経の実義を顕示す、然りと雖も時未だ来らざるの故に東方の鵝王(がおう)を建立して本門の四菩薩を顕わさず、所詮地涌千界の為に此れを譲(ゆず)り与え給う故なり、此の菩薩仏勅(ぶっちょく)を蒙りて近く大地の下に在り正像に未だ出現せず末法にも又出で来り給わずば大妄語の大士なり、三仏の未来記も亦泡沫(ほうまつ)に同じ。
 此れを以て之を惟(おも)うに正像に無き大地震・大彗星等出来す、此等は金翅鳥(こんじちょう)・修羅(しゅら)・竜神(りゅうじん)等の動変に非ず偏(ひとえ)に四大菩薩を出現せしむ可き先兆(せんちょう)なるか、天台云く「雨の猛(たけ)きを見て竜の大なるを知り花の盛なるを見て池の深きことを知る」等云云、妙楽云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識(し)る」等云云、天晴れぬれば地明かなり、法華を識る者は世法を得可きか。

 一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹(つつ)み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、四大菩薩の此の人を守護し給わんこと太公周公(たいこう・しゅうこう)の文王を摂扶(しょうぶ)し、四皓(しこう)が恵帝(けいてい)に侍奉(じぶ)せしに異ならざる者なり。

文永十年太歳癸酉卯月二十五日    日蓮之を註す



【観心本尊抄送状】
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 帷(かたびら)一つ・墨三長(挺)・筆五官(管)給び候い了んぬ。
 観心の法門少少之を注して大田殿・教信御房等に奉る、此の事日蓮身に当るの大事なり之を秘す、無二の志を見ば之を開拓(かいたく)せらる可きか、此の書は難多く答少し未聞の事なれば人耳目(じもく)を驚動(きょうどう)す可きか、設(たと)い他見に及ぶとも三人四人坐を並べて之を読むこと勿(なか)れ。
 仏滅後二千二百二十余年未だ此の書の心有らず、国難を顧(かえり)みず五五百歳を期して之を演説す乞い願くば一見を歴(へ)来るの輩は師弟共に霊山浄土に詣でて三仏の顔貌(げんみょう)を拝見したてまつらん、恐恐謹言。

文永十年太歳癸酉卯月廿六日       日 蓮 花 押   
富木殿御返事




by johsei1129 | 2019-10-19 21:32 | 観心本尊抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)
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