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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 19日

末法の法本尊をあきらかにした書【観心本尊抄】 その二

[観心本尊抄 本文] その二

 夫れ智者の弘法三十年・二十九年の間は玄文(げんもん)等の諸義を説いて五時・八教・百界千如を明かし前き五百余年の間の諸非を責め並びに天竺の論師未だ述べざるを顕す、章安大師云く「天竺(てんじく)の大論尚其の類に非ず震旦(しんたん)の人師何ぞ労(わずら)わしく語るに及ばん、此れ誇耀(こよう)に非ず法相の然らしむるのみ」等云云、墓(はか)ないかな天台の末学等華厳(けごん)真言の元祖の盗人に一念三千の重宝を盗み取られて還つて彼等が門家と成りぬ、章安大師兼ねて此の事を知つて歎いて言く「斯の言若し墜(お)ちなば将来悲む可し」云云。

 問うて曰く百界千如と一念三千と差別如何、答えて曰く百界千如は有情界に限り一念三千は情非情に亘る、不審(ふしん)して云く、非情に十如是亘るならば草木に心有つて有情の如く成仏を為す可きや如何、答えて曰く此の事難信難解(なんしんなんげ)なり、天台の難信難解に二有り、一には教門の難信難解、二には観門の難信難解なり、其の教門の難信難解とは一仏の所説に於て爾前(にぜん)の諸経には二乗闡提(せんだい)・未来に永く成仏せず教主釈尊は始めて正覚を成ず、法華経迹本二門に来至(らいし)し給い彼の二説を壊(やぶ)る、一仏二言水火なり誰人か之を信ぜん、此れは教門の難信難解なり、観門の難信難解は百界千如一念三千・非情の上の色心の二法十如是是なり、爾(しか)りと雖も木画(もくえ)の二像に於ては外典内典共に之を許して本尊と為す、其の義に於ては天台一家より出でたり、草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃(たの)み奉ること無益なり、疑つて云く草木国土の上の十如是の因果の二法は何れの文に出でたるや、答えて曰く止観第五に云く「国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・相・性・体・力」等と云云、釈籤(しゃくせん)第六に云く「相は唯色に在り、性は唯心に在り、体・力・作・縁は義色心を兼ね、因果は唯心・報は唯色に在り」等云云、金錍論(こんぺいろん)に云く「乃(すなわ)ち是れ一草・一木・一礫(りゃく)・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了(えんりょう)を具足す」等云云。

 問うて曰く出処(しゅっしょ)既に之を聞く観心の心如何、答えて曰く観心とは我が己心を観(かん)じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面(じめん)の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し、設い諸経の中に処処(しょしょ)に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述(しょじゅつ)の摩訶止観(まかしかん)等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。

問うて云く法華経は何れの文ぞ天台の釈は如何、答えて曰く法華経第一方便品に云く「衆生をして仏知見(ぶっちけん)を開かしめんと欲す」等云云、是は九界所具の仏界なり、寿量品に云く「是くの如く我成仏してより已来甚(このかた・はなはだ)大に久遠なり寿命(じゅみょう)・無量阿僧祇劫(あそうぎこう)・常住(じょうじゅう)にして滅せず諸の善男子・我本(もと)菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云、此の経文は仏界所具の九界なり、経に云く「提婆達多(だいばだった)乃至天王如来」等云云、地獄界所具の仏界なり、経に云く「一を藍婆(らんば)と名け乃至汝等但能く法華の名を護持する者は福量るべからず」等云云、是れ餓鬼(がき)界所具の十界なり、経に云く「竜女乃至成等正覚(りゅうにょないしじょうとうしょうかく)」等云云、此れ畜生界所具の十界なり、経に云く「婆稚阿修羅王乃至(ばちあしゅらおう・ないし)一偈一句を聞いて・阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得べし」等云云、修羅界(しゅらかい)所具の十界なり、経に云く「若し人仏の為の故に乃至皆已に仏道を成ず」等云云、此れ人界所具の十界なり、経に云く「大梵天王乃至我等も亦是くの如く・必ず当に作仏することを得べし」等云云、此れ天界所具の十界なり、経に云く「舎利弗乃至華光如来(しゃりほつ・ないし・けこうにょらい)」等云云、此れ声聞界所具の十界なり、経に云く「其の縁覚を求むる者・比丘比丘尼乃至合掌し敬心を以て具足の道を聞かんと欲す」等云云、此れ即ち縁覚界所具の十界なり、経に云く「地涌千界乃至真浄大法(しんじょうだいほう)」等云云、此れ即ち菩薩所具の十界なり、経に云く「或説己身或説他身」等云云即ち仏界所具の十界なり。

  問うて曰く自他面(じためん)の六根共に之を見る。彼此の十界に於ては未だ之を見ず如何が之を信ぜん、答えて曰く法華経法師品に云く「難信難解」宝塔品に云く「六難九易(ろくなんくい)」等云云、天台大師云く「二門悉(ことごと)く昔と反すれば難信難解なり」章安大師云く「仏此れを将(もっ)て大事と為す、何ぞ解し易きことを得可けんや」等云云、伝教大師云く「此の法華経は最も為れ難信難解なり、随自意(ずいじい)の故に」等云云、夫(そ)れ在世の正機は過去の宿習厚き上教主釈尊・多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界・文殊(もんじゅ)・弥勒(みろく)等之を扶けて諌暁(かんぎょう)せしむるに猶信ぜざる者之れ有り、五千席を去り人天移さる況(いわん)や正像をや、何(いか)に況(いわん)や末法の初をや、汝之を信ぜば正法に非じ。

 問うて曰く、経文並に天台章安等の解釈(げしゃく)は疑網(ぎもう)無し。但し火を以て水と云い墨を以て白しと云う、設(たと)い仏説為りと雖も信を取り難し。今、数(しばし)ば他面を見るに但人界に限つて余界を見ず、自面も亦復是くの如し。如何が信心を立てんや、答う数(しばし)ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋(いか)り或時は平に或時は貪(むさぼ)り現じ、或時は癡(おろか)現じ或時は諂曲(てんごく)なり。瞋るは地獄・貪(むさぼ)るは餓鬼・癡(おろか)は畜生・諂曲(てんごく)なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り。四聖は冥伏(みょうぶく)して現われざれども委細(いさい)に之を尋ねば之れ有る可し。

 問うて曰く六道に於て分明ならずと雖も粗(ほぼ)之を聞くに之を備うるに似たり、四聖は全く見えざるは如何、答えて曰く前には人界の六道之を疑う、然りと雖も強いて之を言つて相似の言を出だせしなり四聖も又爾(しか)る可きか、試みに道理を添加(てんか)して万か一之を宣べん。所以(ゆえ)に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧(むこ)の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但(ただ)仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」涅槃経(ねはんぎょう)に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云、末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり。

 問うて曰く、十界互具の仏語分明なり、然りと雖も我等が劣心(れっしん)に仏法界を具すること信を取り難き者なり。今時之を信ぜずば必ず一闡提(いっせんだい)と成らん願くば大慈悲を起して之を信ぜしめ阿鼻(あび)の苦を救護(くご)したまえ。

答えて曰く、汝既に唯一大事因縁の経文を見聞して之を信ぜざれば釈尊より已下四依の菩薩並びに、末代理即の我等如何が汝が不信を救護(くご)せんや。然りと雖も試みに之を云わん。仏に値いたてまつつて覚らざる者、阿難等の辺にして得道する者之れ有ればなり。其れ機に二有り、一には仏を見たてまつり法華にして得道す。二には仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり。其の上仏教已前(いぜん)は漢土の道士・月支の外道・儒教・四韋陀(しいだ)等を以て縁と為して正見に入る者之れ有り。又利根の菩薩凡夫等の華厳・方等・般若(はんにゃ)等の諸大乗経を聞きし縁を以て、大通久遠の下種を顕示(けんじ)する者多々なり。例せば独覚(どっかく)の飛花落葉(ひけらくよう)の如し。教外の得道是なり。

過去の下種結縁無き者の権小に執着(しゅうじゃく)する者は、設い法華経に値(あ)い奉れども小権の見を出でず。自見を以て正義と為(す)るが故に還つて法華経を以て或は小乗経に同じ、或は華厳大日経等に同じ或は之を下す。此等の諸師は儒家外道の賢聖より劣れる者なり。此等は且(しば)らく之を置く、十界互具之を立つるは、石中の火、木中の花信じ難けれども、縁に値うて出生すれば之を信ず。人界所具の仏界は、水中の火、火中の水、最も甚だ信じ難し。然りと雖も竜火は水より出で竜水は火より生ず。心得られざれども現証有れば之を用ゆ。

既に人界の八界之を信ず、仏界何ぞ之を用いざらん。尭舜(ぎょうしゅん)等の聖人の如きは、万民に於て偏頗(へんぱ)無し。人界の仏界の一分なり。不軽菩薩は所見の人に於て仏身を見る。悉達太子(しったたいし)は人界より仏身を成ず、此等の現証を以て之を信ず可きなり。

  問うて曰く教主釈尊は此れより堅固に之を秘す三惑已断の仏なり又十方世界の国主・一切の菩薩・二乗・人天等の主君なり。行(みゆき)の時は梵天左に在り帝釈右に侍(は)べり、四衆八部後(しりえ)に聳(したが)い金剛(こんごう)前に導びき、八万法蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ。

是くの如き仏陀何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや、又迹門爾前の意を以て之を論ずれば教主釈尊は始成正覚の仏なり。過去の因行を尋ね求れば或は能施太子或は儒童菩薩(じゅどうぼさつ)或は尸毘王(しびおう)或は薩埵王子(さったおうじ)或は三祇(さんぎ)・百劫(ひゃっこう)或は動喩塵劫(どうゆじんこう)或は無量阿僧祇劫(あそうぎこう)或は初発心時或は三千塵点等の間七万・五千・六千・七千等の仏を供養し劫を積み行満じて今の教主釈尊と成り給う。
是くの如き因位の諸行は皆我等が己身所具の菩薩界の功徳か。果位を以て之を論ずれば教主釈尊は始成正覚の仏四十余年の間、四教の色身を示現し爾前(にぜん)・迹門(しゃくもん)・涅槃経等を演説して一切衆生を利益し給う。所謂華蔵(けぞう)の時・十方台上の盧舎那(るしゃな)・阿含(あごん)経の三十四心・断結成道(だんけつじょうどう)の仏、方等般若の千仏等、大日・金剛頂(こんごうちょう)の千二百余尊、並びに迹門宝塔品の四土色身、涅槃経の或は丈六(じょうろく)と見る或は小身大身と現じ、或は盧舎那と見る或は身虚空に同じと見る。

四種の身乃至八十御入滅舎利(しゃり)を留めて正像末を利益し給う、本門を以て之れを疑わば教主釈尊は五百塵点已前(ごひゃくじんてんいぜん)の仏なり因位も又是くの如し、其れより已来十方世界に分身し一代聖教を演説して塵数(じんじゅ)の衆生を教化し給う。本門の所化(しょけ)を以て迹門の所化に比校(ひきょう)すれば一渧(たい)と大海と一塵と大山となり、本門の一菩薩を迹門十方世界の文殊観音等に対向(たいこう)すれば猴猿(こうえん)を以て帝釈(たいしゃく)に比するに尚及ばず、其の外十方世界の断惑証果(だんなくしょうか)の二乗並びに梵天・帝釈・日月・四天・四輪王・乃至無間大城の大火炎等此等は皆我が一念の十界か己身の三千か。仏説為りと雖も之を信ず可からず。

 此れを以て之を思うに爾前の諸経は実事なり実語なり。華厳経に云く「究竟(くきょう)して虚妄を離れ染無きこと虚空の如し」と仁王経に云く「源を窮め性を尽して妙智存せり」金剛般若経に云く「清浄の善のみ有り」馬鳴菩薩(めみょう)の起信論に云く「如来蔵の中に清浄の功徳のみ有り」天親菩薩の唯識論(ゆいしきろん)に云く「謂く余の有漏(うろ)と劣の無漏(むろ)と種は金剛喩定(こんごうゆじょう)が現在前する時、極円明純浄(ごくえんみょうじゅんじょう)の本識を引く、彼の依に非ざるが故に皆永く棄捨(きしゃ)す」等云云、爾前の経経と法華経と之を校量するに彼の経経は無数なり時説既に長し一仏二言彼に付く可し。

馬鳴菩薩は付法蔵第十一にして仏記に之れ有り天親は千部の論師・四依の大士なり、天台大師は辺鄙(へんぴ)の小僧にして一論をも宣べず誰か之を信ぜん、其の上多を捨て小に付くとも法華経の文分明ならば少し恃怙(じこ)有らんも法華経の文に何れの所にか十界互具・百界千如・一念三千の分明なる証文之れ有りや、随つて経文を開拓(かいたく)するに「断諸法中悪」等云云、天親菩薩の法華論・堅慧(けんね)菩薩の宝性論に十界互具之れ無く漢土南北の諸大人師・日本七寺の末師の中にも此の義無し但(ただ)天台一人の僻見(びゃっけん)なり伝教一人の謬伝(みょうでん)なり、故に清涼国師の云く「天台の謬(あやま)りなり」慧苑(えおん)法師の云く「然るに天台は小乗を呼んで三蔵教と為し其の名謬濫(みょうらん)するを以て」等云云。
了洪(りょうこう)が云く「天台独り未だ華厳の意を尽さず」等云云、得一が云く「咄(つたな)いかな智公汝は是れ誰が弟子ぞ、三寸に足らざる舌根を以て覆面舌(ふめんぜつ)の所説の教時を謗ず」等云云、弘法大師の云く「震旦(しんたん)の人師等諍(あらそ)つて醍醐(だいご)を盗んで各自宗に名く」等云云、夫れ一念三千の法門は一代の権実に名目を削(けず)り四依の諸論師其の義を載せず漢土日域の人師も之を用いず、如何が之を信ぜん。

 答えて曰く此の難最も甚し最も甚し、但し諸経と法華との相違は経文より事起つて分明なり未顕(みけん)と已顕(いけん)と証明と舌相と二乗の成不と始成と久成と等之を顕わす、諸論師の事、天台大師云く「天親竜樹・内鑒冷然(ないがんれいねん)たり外には時の宜きに適(かな)い各権に拠(よ)る所あり、而るに人師偏に解し学者苟(いやしく)も執し遂に矢石を興し各一辺を保ちて大に聖道に乖(そむ)けり」等云云。

章安大師云く「天竺の大論尚(なお)其の類に非ず真旦(しんたん)の人師何ぞ労(わずら)わしく語るに及ばん、此れ誇耀(こよう)に非ず法相の然らしむるのみ」等云云、天親・竜樹・馬鳴・堅慧(けんね)等は内鑒冷然なり、然りと雖も時未だ至らざるが故に之を宣(の)べざるか、人師に於ては天台已前は或は珠を含み或は一向に之を知らず、已後の人師或は初に之を破して後に帰伏する人有り或は一向用いざる者も之れ有り但し断諸法中悪の経文を会す可きなり、彼は法華経に爾前の経文を載するなり往いて之を見るに経文分明に十界互具之を説く、所謂「欲令衆生開仏知見」等云云、天台此の経文を承けて云く「若し衆生に仏の知見無んば何ぞ開を論ずる所あらん、当に知るべし仏の知見衆生に蘊在(うんざい)することを」云云、章安大師の云く「衆生に若し仏の知見無くんば何ぞ開悟する所あらん、若し貧女に蔵無んば何ぞ示す所あらんや」等云云。

但し会(え)し難き所は上の教主釈尊等の大難なり、此の事を仏遮会(しゃえ)して云く「已今当説最為難信難解(いこんとうせつさいいなんしんなんげ)」と次下の六難九易是なり、天台大師云く「二門悉(ことごと)く昔と反すれば信じ難く解し難し鉾(ほこ)に当るの難事なり」章安大師の云く「仏此れを将(も)つて大事と為す何ぞ解し易きことを得可(うべ)けんや」伝教(でんぎょう)大師云く「此の法華経は最も為(こ)れ難信難解なり随自意(ずいじい)の故に」等云云。

夫(そ)れ仏滅後に至つて一千八百余年・三国に経歴して但三人のみ有つて始めて此の正法を覚知(かくち)せり所謂月支(がっし)の釈尊・真旦(しんたん)の智者大師・日域の伝教此の三人は内典の聖人なり、問うて曰く竜樹天親等は如何、答えて曰く此等の聖人は知つて之を言わざる仁なり、或は迹門の一分之を宣(の)べて本門と観心とを云わず或は機有つて時無きか或は機と時と共に之れ無きか、天台伝教已後(いご)は之を知る者多多なり二聖の智を用ゆるが故なり所謂三論の嘉祥(かじょう)・南三北七の百余人・華厳宗の法蔵・清涼等・法相宗の玄奘(げんじょう)三蔵・慈恩大師等・真言宗の善無畏三蔵・金剛智(こんごうち)三蔵・不空三蔵等・律宗の道宣(どうせん)等初には反逆を存し後には一向に帰伏せしなり。

 但し初の大難を遮(しゃ)せば無量義経に云く「譬えば国王と夫人と新たに王子を生ぜん若は一日若は二日若は七日に至り若は一月若は二月若は七月に至り若は一歳若は二歳若は七歳に至り復(また)国事を領理(りょうり)すること能わずと雖も已に臣民に宗敬せられ諸の大王の子以て伴侶(はんりょ)と為らん、王及び夫人の愛心偏(ひとえ)に重くして常に与共(とも)に語らん、所以は何ん、稚小なるを以ての故にと云うが如く、善男子是の持経者も亦復是くの如し、諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生ず、若し菩薩是の経を聞くことを得て若しは一句若しは一偈若しは一転若しは二転若しは十若しは百若しは千若しは万若しは億万恒河沙(おくまんごうがしゃ)・無量無数転せば復真理の極を体すること能わずと雖も、乃至已に一切の四衆八部に宗仰(しゅうごう)せられ諸の大菩薩を以て眷属(けんぞく)と為し乃至常に諸仏に護念せられ慈愛偏(ひとえ)に覆われん、新学なるを以ての故なり」等云云。

普賢(ふげん)経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵十方三世の諸仏の眼目なり乃至三世の諸の如来を出生する種なり乃至汝大乗を行じて仏種を断ぜざれ」等云云、又云く「此の方等経は是れ諸仏の眼なり諸仏是に因(よ)つて五眼を具することを得・仏の三種の身は方等従(よ)り生ず是れ大法印にして涅槃海に印す此(か)くの如き海中能く三種の仏の清浄身(しょうじょうしん)を生ず此の三種の身は人天の福田なり」等云云。

 夫(そ)れ以(おもんみ)れば・釈迦如来の一代・顕密・大小の二教・華厳・真言等の諸宗の依経往いて之を勘うるに或は十方台葉(じっぽうだいよう)・毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)・大集雲集(たいしゅううんじゅう)の諸仏如来・般若染浄(はんにゃせんじょう)の千仏示現・大日金剛頂等の千二百尊・但其の近因近果を演説して其の遠因果を顕さず、速疾頓成(そきしつとんじょう)之を説けども三五の遠化を亡失し化導の始終跡を削りて見えず、華厳経・大日経等は一往之を見るに別円四蔵(べつえんしぞう)等に似たれども再往之を勘うれば蔵通(ぞうつう)二教に同じて未だ別円にも及ばず本有の三因之れ無し何を以てか仏の種子を定めん、而るに新訳の訳者等漢土(かんど)に来入するの日・天台の一念三千の法門を見聞して或は自ら所持の経経に添加(てんか)し或は天竺より受持するの由之を称す、天台の学者等或は自宗に同ずるを悦び或は遠きを貴んで近きを蔑(さげす)みし或は旧を捨てて新を取り魔心・愚心出来す、然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり。

問うて曰く上の大難未だ其の会通(えつう)を聞かず如何。
答えて曰く無量義経に云く「未だ六波羅蜜(はらみつ)を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然(じねん)に在前す」等云云、法華経に云く「具足の道を聞かんと欲す」等云云、涅槃経に云く「薩とは具足に名く」等云云、竜樹菩薩云く「薩とは六なり」等云云、無依無得大乗四論・玄義記に云く「沙(さ)とは訳して六と云う胡法(こほう)には六を以て具足の義と為すなり」吉蔵疏(きちぞうのじょ)に云く「沙とは翻(ほん)じて具足と為す」天台大師云く「薩とは梵語(ぼんご)なり此には妙と翻(ほん)ず」等云云、私に会通を加えば本文を黷(けがす)が如し爾(しか)りと雖も文の心は釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、四大声聞の領解(りょうげ)に云く「無上宝聚(ほうじゅ)・不求自得(ふぐじとく)」云云、我等が己心の声聞界なり、「我が如く等くして異なる事無し我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」。

妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄(こつずい)に非ずや、宝塔品に云く「其れ能く此の経法を護る事有らん者は則ち為れ我及び多宝を供養するなり、乃至亦復諸(また・もろもろ)の来り給える化仏の諸の世界を荘厳し光飾(こうしょく)し給う者を供養するなり」等云云、釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり其の跡を継紹(けいしょう)して其の功徳を受得す「須臾(しゅゆ)も之を聞く・即阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を究竟するを得」とは是なり、寿量品に云く「然るに我実に成仏してより已来・無量無辺百千万億那由佗劫なり」等云云、我等が己心の釈尊は五百塵点(じんでん)乃至所顕の三身にして無始の古仏なり、経に云く「我本菩薩の道を行じて・成ぜし所の寿命・今猶未だ尽きず・復上の数に倍せり」等云云、我等が己心の菩薩等なり、地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属(けんぞく)なり、例せば大公・周公旦(しゅうこうたん)等は周武(しゅうぶ)の臣下・成王

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[真筆第十紙本文:下記緑字箇所(本尊の相貌を顕しておられる)]

幼稚の眷属・武内の大臣は神功皇后の棟梁(とうりょう)・仁徳王子の臣下なるが如し、上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩なり、妙楽(みょうらく)大師云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍(あまね)し」等云云。

夫れ始め寂滅道場・華蔵(けぞう)世界より沙羅林(しゃらりん)に終るまで五十余年の間・華蔵・密厳・三変・四見等の三土四土は皆成劫(じょうこう)の上の無常の土に変化する所の方便・実報・寂光・安養(あんよう)・浄瑠璃(じょうるり)・密厳等なり能変の教主涅槃(ねはん)に入りぬれば所変の諸仏随つて滅尽(めつじん)す土も又以て是くの如し。
今本時の娑婆(しゃば)世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同体なり此れ即ち己心の三千具足・三種の世間なり迹門十四品には未だ之を説かず法華経の内に於ても時機未熟の故なるか。

 此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何(いか)に況(いわん)や其の已外をや但(ただ)地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔(ほうとう)空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士(きょうじ)上行等の四菩薩・文殊弥勒(みろく)等は四菩薩の眷属
として末座に居(こ)し、迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿(うんかくげっけい)を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う、迹仏迹土を表する故なり、是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る、正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉(かしょう)・阿難(あなん)を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門(しゃくもん)等の釈尊は文殊普賢(ふげん)等を以て脇士と為す、此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。

 問う正像二千余年の間は四依の菩薩並びに人師等余仏・小乗・権大乗・爾前・迹門の釈尊等の寺塔を建立すれども本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば三国の王臣倶(とも)に未だ之を崇重せざる由之を申す、此の事粗(ほぼ)之を聞くと雖も前代未聞(みもん)の故に耳目を驚動(きょうどう)し心意を迷惑す、請う重ねて之を説け委細に之を聞かん。

答えて曰く、法華経一部八巻二十八品・進んでは前四味・退いては涅槃経等の一代の諸経惣じて之を括(くく)るに但一経なり、始め寂滅道場より終り般若(はんにゃ)経に至るまでは序分なり無量義経・法華経・普賢経(ふげんきょう)の十巻は正宗なり涅槃経等は流通分なり、正宗十巻の中に於て亦序正流通有り、無量義経並に序品は序分なり、方便品より分別功徳品の十九行の偈に至るまで十五品半は正宗分なり、分別功徳品の現在の四信より普賢経に至るまでの十一品半と一巻は流通分なり。

又法華経等の十巻に於ても二経有り各序正流通を具するなり、無量義経と序品は序分なり方便品より人記品に至るまでの八品は正宗分なり、法師品より安楽行品に至るまでの五品は流通分なり、其の教主を論ずれば始成正覚の仏・本無今有の百界千如を説いて已今当(いこんとう)に超過(ちょうか)せる随自意・難信難解の正法なり、過去の結縁を尋れば大通十六の時仏果の下種を下し、進んでは華厳経等の前四味を以て助縁と為して大通の種子を覚知(かくち)せしむ、此れは仏の本意に非ず但毒発(どくほつ)等の一分なり、二乗凡夫等は前四味を縁と為し漸漸(ぜんぜん)に法華に来至して種子を顕わし開顕を遂ぐるの機是なり、又在世に於て始めて八品を聞く人天等或は一句一偈等を聞て下種とし或は熟し或は脱し或は普賢(ふげん)・涅槃(ねはん)等に至り或は正像末等に小権等を以て縁と為して法華に入る、例せば在世の前四味の者の如し。

[観心本尊抄 本文] その三に続く



by johsei1129 | 2019-10-19 18:10 | 観心本尊抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)
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