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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 03月 05日

末法の法本尊をあきらかにした書【観心本尊抄】 その一

【如来滅後五五百歳始観心本尊抄(にょらいめつご・ごのごひゃくさいにはじむ・かんじんのほんぞんしょう】
■出筆時期:文永十年(西暦1273年)四月二十五日出筆完了。
■出筆場所:佐渡ヶ島 塚原三昧堂
■出筆の経緯:日蓮大聖人52歳の時、末法の衆生救済のため、信仰の対象としての法本尊をあきらかにした。流罪となった佐渡にて文永九年、ご自身が末法の本仏であることを『開目抄』であらわし、引き続き末法の衆生救済のため、信仰の対象としての『本尊』の姿、及びその確たる根拠を、経文(法華経並びに天台大師著作の摩訶止観等)に基づいて明らかにした書。さらに『観心本尊抄』出筆後の文永十年七月八日、大聖人自ら始めて筆で『御本尊』をしたためている。

【日蓮大聖人御図現された御本尊の一覧】
http://juhoukai.la.coocan.jp/mandara/mandaraitiran.html

末法の法本尊をあきらかにした書【観心本尊抄】 その一_f0301354_224161.jpg

<観心本尊抄 ご真筆 法華経寺(千葉県市川市)所蔵 国宝>

[観心本尊抄 本文] その一

 摩訶止観第五に云く 世間と如是と一なり。開合の異なり。「夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千、一念の心に在り。若し心無(なく)んば而已(やみなん)、介爾(けに)も心有れば即ち三千を具す・乃至所以(ゆえ)に称して不可思議境と為す。意(こころ)此に在り」等云云。或本に云く、一界に三種の世間を具す。
 問うて云く、玄義に一念三千の名目を明かすや。
 答えて曰く、妙楽云く明かさず。
 問うて曰く、文句に一念三千の名目を明かすや。
 答えて曰く、妙楽云く明かさず。
 問うて曰く、其の妙楽の釈・如何。
 答えて曰く、並びに未だ一念三千と云わず等云云。
 問うて曰く、止観の一二三四等に一念三千の名目を明かすや。
 答えて曰く、之れ無し。
 問うて曰く、其の証如何。
 答えて曰く、妙楽云く「故に止観に至つて正しく観法を明かす並びに三千を以て指南と為す」等云云。
 疑つて曰く、玄義(げんぎ)第二に云く「又一法界に九法界を具すれば百法界に千如是(にょぜ)」等云云。
 文句第一に云く「一入に十法界を具すれば一界又十界なり。十界各(おのおの)十如是あれば即ち是れ一千」等云云。
 観音玄に云く「十法界交互なれば即ち百法界有り。千種の性相・冥伏(みょうぶく)して心に在り。現前せずと雖も宛然(おんねん)として具足す」等云云。
 問うて曰く、止観の前の四に一念三千の名目を明かすや。
 答えて曰く、妙楽云く明さず。
 問うて云く、其の釈・如何。
 答う、弘決第五に云く「若し正観に望めば全く未だ行を論ぜず、亦二十五法に歴(へ)て事に約して解を生ず。方(まさ)に能く正修(しょうしゅう)の方便と為すに堪えたり。是の故に前の六をば皆解(げ)に属す」等云云。
 又云く「故に止観の正しく観法を明かすに至つて並びに三千を以て指南と為す。乃(すなわ)ち是れ終窮究竟(しゅうぐ・くきょう)の極説なり。故に序の中に、説己心中・所行法門と云う。良(まこと)に以所(ゆえ)有るなり。請う・尋ね読まん者、心に異縁無れ」等云云。
 夫れ智者の弘法三十年、二十九年の間は玄文等の諸義を説いて五時・八教・百界千如を明かし、前(さき)五百余年の間の諸非を責め、並びに天竺の論師・未だ述べざるを顕す。
 章安大師云く「天竺の大論・尚其の類に非ず、震旦の人師何ぞ労(わずら)わしく語るに及ばん。此れ誇耀(こよう)に非ず・法相(ほっそう)の然らしむるのみ」等云云。
 墓ないかな天台の末学等、華厳真言の元祖の盗人に一念三千の重宝を盗み取られて還つて彼等が門家と成りぬ。章安大師兼ねて此の事を知つて歎いて言く「斯の言(ことば)若し墜ちなば・将来悲む可し」云云。
 問うて曰く、百界千如と一念三千と差別如何。
 答えて曰く、百界千如は有情界に限り、一念三千は情・非情に亘る。
 不審して云く、非情に十如是亘るならば草木に心有つて有情の如く成仏を為す可きや如何。
 答えて曰く、此の事難信難解なり。天台の難信難解に二有り。一には教門の難信難解。二には観門の難信難解なり。
 其の教門の難信難解とは一仏の所説に於て爾前の諸経には二乗闡提・未来に永く成仏せず、教主釈尊は始めて正覚を成ず。法華経・迹本二門に来至し給い・彼の二説を壊(やぶ)る。一仏二言・水火なり、誰人か之を信ぜん。此れは教門の難信難解なり。
 観門の難信難解は百界千如一念三千、非情の上の色心の二法・十如是是なり。爾りと雖も木画の二像に於ては外典・内典共に之を許して本尊と為す。其の義に於ては天台一家より出でたり。草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃(たの)み奉ること無益なり。
 疑つて云く、草木国土の上の十如是の因果の二法は何れの文に出でたるや。
 答えて曰く止観第五に云く「国土世間亦十種の法を具す。所以(ゆえ)に悪国土・相・性・体・力等」と云云。
 釈籤(しゃくせん)第六に云く「相は唯色に在り、性は唯心に在り。体・力・作・縁は義・色心を兼ね、因果は唯心、報は唯色に在り」等云云。
 金錍論(こんぺいろん)に云く「乃ち是れ一草・一木・一礫(りゃく)・一塵(じん)、各(おのおの)一仏性・各一因果あり。縁了を具足す」等云云。
 問うて曰く、出処既に之を聞く、観心の心・如何。
 答えて曰く、観心とは我が己心を観じて十法界を見る、是を観心と云うなり。譬えば他人の六根を見ると雖も、未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず。明鏡に向うの時、始めて自具の六根を見るが如し。設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も、法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば、自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。
 問うて云く、法華経は何れの文ぞ、天台の釈は如何。
 答えて曰く、法華経第一方便品に云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云。是は九界所具の仏界なり。
 寿量品に云く「是くの如く我成仏してより已来(このかた)・甚(はなはだ)大に久遠なり。寿命・無量阿僧祇劫・常住にして滅せず。諸の善男子、我本(もと)菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命・今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり」等云云。此の経文は仏界所具の九界なり。
 経に云く「提婆達多乃至天王如来」等云云。地獄界所具の仏界なり。
 経に云く「一を藍婆と名け乃至汝等、但能く法華の名(みな)を持つ者を護るは福量るべからず」等云云。是れ餓鬼界所具の十界なり。
 経に云く「竜女乃至成等正覚」等云云。此れ畜生界所具の十界なり。
 経に云く「婆稚(ばち)阿修羅王乃至一偈一句を聞いて・阿耨多羅三藐三菩提(あのくたら・さんみゃくさんぼだい)を得べし」等云云。修羅界所具の十界なり。
 経に云く「若し人・仏の為の故に乃至皆已に仏道を成ず」等云云。此れ人界所具の十界なり。
 経に云く「大梵天王乃至我等も亦是くの如く、必ず当に作仏することを得べし」等云云。此れ天界所具の十界なり。
 経に云く「舎利弗乃至華光如来」等云云。此れ声聞界所具の十界なり。
 経に云く「其の縁覚を求むる者・比丘・比丘尼乃至合掌し敬心を以て具足の道を聞かんと欲す」等云云。此れ即ち縁覚界所具の十界なり。
 経に云く「地涌千界乃至真浄大法」等云云。此れ即ち菩薩所具の十界なり。
 経に云く「或説己身・或説他身」等云云。即ち仏界所具の十界なり。
 問うて曰く、自他面の六根共に之を見る。彼此(ひし)の十界に於ては未だ之を見ず。如何が之を信ぜん。
 答えて曰く、法華経法師品に云く「難信難解」宝塔品に云く「六難九易」等云云。
 天台大師云く「二門悉く昔と反すれば難信難解なり」
 章安大師云く「仏此れを将(もっ)て大事と為す。何ぞ解(げ)し易きことを得可けんや」等云云。
 伝教大師云く「此の法華経は最も為れ難信難解なり。随自意の故に」等云云。
 夫れ在世の正機は過去の宿習厚き上、教主釈尊・多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界・文殊・弥勒等之を扶けて諫暁せしむるに・猶信ぜざる者之れ有り。五千席を去り人天移さる。況んや正像をや、何に況んや末法の初めをや。汝・之を信ぜば正法に非じ。
 問うて曰く、経文並に天台章安等の解釈(げしゃく)は疑網無し。但し火を以て水と云い、墨を以て白しと云う。設い仏説為りと雖も信を取り難し。今数(しばし)ば他面を見るに、但人界に限つて余界を見ず。自面も亦復是くの如し、如何が信心を立てんや。
 答う、数(しばし)ば他面を見るに、或時は喜び・或時は瞋(いか)り・或時は平(たいら)に・或時は貪(むさぼ)り現じ・或時は癡(おろか)現じ・或時は諂曲(てんごく)なり。瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡は畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平かなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之れ有り。四聖は冥伏(みょうぶく)して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し。





by johsei1129 | 2014-03-05 22:08 | 観心本尊抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)


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