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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 12日

日蓮大聖人自らが末法の本仏であることを明かした書【開目抄】(下) その四

[開目抄(下) 本文] その四              英語版

 文句に云く「問う、大経には国王に親付(しんぷ)し、弓を持ち・箭(や)を帯(たい)し、悪人を摧伏(ざいふく)せよと明す。此の経は豪勢(ごうぜい)を遠離(おんり)し謙下(けんげ)慈善せよと。剛柔碩(ごうにゅう・おお)いに乖(そむ)く、云何(いかん)ぞ異ならざらん。答う、大経には偏(ひとえ)に折伏を論ずれども一子地(いっしじ)に住す、何ぞ曾(かつ)て摂受(しょうじゅ)無からん。此の経には偏(ひとえ)に摂受を明せども、頭破七分と云う折伏(しゃくぶく)無きに非ず。各(おのおの)一端を挙げて時に適う而已(のみ)」等云云。
 涅槃経の疏(じょ)に云く「出家在家・法を護らんには其の元心の所為を取り、事を棄て理を存して匡(まさ)に大経を弘む、故に護持正法と言うは小節に拘わらず、故に不修威儀と言うなり。昔の時は平(たいら)にして法弘まる、応に戒を持つべし、杖を持つこと勿(なか)れ。今の時は嶮(けん)にして法翳(かく)る、応に杖を持つべし、戒を持つこと勿れ。今昔倶に嶮(けん)ならば倶に杖を持つべし、今昔倶に平らかならば応に倶に戒を持つべし。取捨宜(よろし)きを得て一向にす可からず」等云云。

 汝が不審をば世間の学者、多分・道理とをもう。いかに諌暁(かんぎょう)すれども日蓮が弟子等も此の・をもひをすてず、一闡提(せんだい)人の・ごとくなるゆへに。先づ天台・妙楽等の釈をいだして・かれが邪難をふせぐ。
 夫れ摂受(しょうじゅ)・折伏と申す法門は水火のごとし。火は水をいとう・水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう、折伏の者は摂受をかなしむ。無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前(さき)とす、安楽行品のごとし。邪智・謗法の者の多き時は折伏を前(さき)とす、常不軽品のごとし。譬へば熱き時に寒水を用い、寒き時に火をこのむがごとし。草木は日輪の眷属(けんぞく)、寒月に苦をう。諸水は月輪の所従、熱時に本性を失う。末法に摂受・折伏あるべし。所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国の当世は悪国か・破法の国かと・しるべし。

 問うて云く、摂受の時・折伏を行ずると、折伏の時・摂受を行ずると利益あるべしや。
 答えて云く、涅槃(ねはん)経に云く「迦葉菩薩・仏に白(もう)して言(もうさ)く、如来の法身は金剛不壊(ふえ)なり。未だ所因を知ること能わず云何。仏の言く、迦葉・能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身(こんごうしん)を成就することを得たり。迦葉、我・護持正法の因縁にて今是の金剛身・常住不壊(ふえ)を成就することを得たり。善男子、正法を護持する者は五戒を受けず、威儀を修せず、応(まさ)に刀剣弓箭(きゅうせん)を持つべし。是くの如く種種に法を説くも・然も故(なお)師子吼を作(な)すこと能(あた)わず、非法の悪人を降伏すること能わず。是くの如き比丘・自利し及び衆生を利すること能わず。当に知るべし是の輩は懈怠懶惰(けたい・らんだ)なり。能く戒を持ち浄行を守護すと雖も・当に知るべし、是の人は能く為す所無からん。乃至時に破戒の者有つて是の語を聞き已つて咸(みな)共に瞋恚(しんに)して是の法師を害せん。是の説法の者・設い復(また)命終すとも・故(なお)持戒・自利利他と名く」等云云。
 章安の云く「取捨宜きを得て一向にす可からず」等。天台云く「時に適(かな)う而已(のみ)」等云云。
 譬へば秋の終りに種子を下し、田畠をかえ(耕)さんに稲米(とうまい)をうることかたし。建仁年中に法然・大日の二人・出来して念仏宗・禅宗を興行す。法然云く「法華経は末法に入つては未有一人得者・千中無一」等云云。大日云く「教外別伝」等云云。此の両義・国土に充満せり。天台真言の学者等、念仏・禅の檀那を・へつらいを(怖)づる事・犬の主にを(尾)をふり、ねづみの猫を・をそるるがごとし。国王・将軍に・みやつかひ、破仏法の因縁・破国の因縁を能く説き・能くかたるなり。天台・真言の学者等、今生には餓鬼道に堕ち、後生には阿鼻(あび)を招くべし。設(たと)い山林にまじわつて一念三千の観をこらすとも、空閑(くうげん)にして三密の油をこぼさずとも、時機をしらず・摂折の二門を弁へずば、いかでか生死を離るべき。

 問うて云く、念仏者・禅宗等を責めて彼等に・あだまれたる、いかなる利益かあるや。
 答えて云く、涅槃経に云く「若し善比丘、法を壊(やぶ)る者を見て・置いて、呵責(かしゃく)し・駈遣(くけん)し・挙処(こしょ)せずんば当に知るべし、是の人は仏法の中の怨(あだ)なり。若し能く駈遣し・呵責し・挙処せば、是れ我が弟子・真の声聞なり」等云云。
 「仏法を壊乱(えらん)するは仏法中の怨なり。慈無くして詐(いつわ)り親しむは是れ彼が怨なり。能く糾治(きゅうじ)せんは是れ護法の声聞、真の我が弟子なり。彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり。能く呵責する者は是れ我が弟子、駈遣せざらん者は仏法中の怨なり」等云云。

 夫れ法華経の宝塔品を拝見するに、釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ。「令法久住・故来至此(りょうぼうくじゅう・こらいしし)」等云云。三仏の未来に法華経を弘めて・未来の一切の仏子にあたえんと・おぼしめす御心の中をすいするに、父母の一子の大苦に値(あ)うを見るよりも強盛にこそ・みへたるを、法然いたはしとも・おもはで、末法には法華経の門を堅く閉じて人を入れじとせき、狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに、法華経を抛(なげす)てさせける心こそ無慚(むざん)に見へ候へ。
 我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂(すいきょう)して父母を殺すをせい(制)せざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙(やいと)せざるべしや。日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし。「慈無くして詐(いつわ)り親しむは・即ち是れ彼が怨なり」等云云。
 日蓮は日本国の諸人にしうし父母(主師親)なり。一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり。「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親」等云云。無道心の者・生死をはなるる事はなきなり。
 教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈(めり)せられさせ給い、天台大師の南北・並びに得一に三寸の舌もつて五尺の身をた(断)つと、伝教大師の南京の諸人に「最澄未(いま)だ唐都を見ず」等といはれさせ給いし、皆法華経のゆへなればはぢならず、愚人にほめられたるは第一のはぢなり。日蓮が御勘気を・かほれば、天台・真言の法師等・悦ばしくや・をもうらん。かつはむざん(無慚)なり、かつはきくわい(奇怪)なり。
 夫れ釈尊は娑婆に入り、羅什(らじゅう)は秦(しん)に入り、伝教は尸那(しな)に入り、提婆師子は身をすつ、薬王は臂(ひじ)をやく、上宮(じょうぐう)は手の皮をはぐ、釈迦菩薩は肉をうる、楽法(ぎょうぼう)は骨を筆とす。天台の云く「適時而已(ちゃくじ・にい)」等云云。
 仏法は時によるべし。日蓮が流罪(るざい)は今生の小苦なれば・なげかしからず。後生には大楽を・うくべければ、大いに悦ばし。


[開目抄(下) 本文] 完




by johsei1129 | 2019-10-12 15:19 | 開目抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)


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