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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 12日

日蓮大聖人自らが末法の本仏であることを明かした書【開目抄】(下) その二

[開目抄(下) 本文] その二

 法華経に云く「已今当(いこんとう)」等云云。妙楽云く「縦(たと)い経有つて諸経の王と云うとも、已今当説最為(さいい)第一と云わず」等云云。又云く「已今当の妙・茲(ここ)に於て固く迷う。謗法の罪苦・長劫に流る」等云云。此の経釈にをどろいて一切経・並びに人師の疏釈(じょしゃく)を見るに・狐疑(こぎ)の冰とけぬ。今真言の愚者等、印真言のあるを・たのみて真言宗は法華経にすぐれたりと・をもひ、慈覚大師等の真言勝れたりと・をほせられぬれば、なんど・をもえるは・いうにかい(甲斐)なき事なり。

 密厳(みつごん)経に云く「十地華厳等と大樹と神通勝鬘(しょうまん)及び余経と皆此の経従(よ)り出でたり。是くの如きの密厳経は一切経の中に勝れたり」等云云。
 大雲経に云く「是の経は即ち是諸経の転輪聖王(てんりんじょうおう)なり。何を以ての故に。是の経典の中に衆生の実性・仏性・常住の法蔵を宣説する故なり」等云云。
 六波羅蜜経に云く「所謂(いわゆる)過去無量の諸仏・所説の正法及び我・今説く所の所謂(いわゆる)八万四千の諸の妙法・蘊(おん)なり。摂(せっ)して五分と為す。一には索咀纜(そたらん)・二には毘奈耶(びなや)・三には阿毘達磨(あびだるま)・四には般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)・五には陀羅尼(だらに)門となり。此の五種の蔵をもつて有情を教化す。若し彼の有情、契経(かいきょう)・調伏・対法・般若を受持すること能わず。或は復有情・諸の悪業・四重・八重・五無間罪・方等経を謗ずる一闡提(いっせんだい)等の種種の重罪を造るに、銷滅(しょうめつ)して速疾に解脱(げだつ)し、頓(たちまち)に涅槃を悟ることを得せしむ。而も彼が為に諸の陀羅尼蔵(だらにぞう)を説く。此の五の法蔵、譬えば乳(にゅう)・酪(らく)・生蘇(しょうそ)・熟蘇(じゅくそ)及び妙なる醍醐(だいご)の如し。総持門とは譬えば醍醐の如し。醍醐の味は乳・酪・蘇の中に微妙第一にして能く諸の病を除き、諸の有情をして身心安楽ならしむ。総持門とは契経等の中に最も第一と為す。能く重罪を除く」等云云。

 解深密(げじんみつ)経に云く「爾(そ)の時に勝義生菩薩、復仏に白(もう)して云く、世尊・初め一時に於て波羅痆斯(はらなっし)仙人、堕処施鹿林(だしょせろくりん)の中に在(ましまし)て・唯声聞乗を発趣(ほっしゅ)する者の為に四諦の相を以て正法輪を転じ給いき。是甚だ奇にして・甚だ此(こ)れ希有(けう)なり。一切世間の諸の天人等、先より能く法の如く転ずる者有ること無しと雖も・而も彼の時に於て転じ給う所の法輪は有上なり・有容(うよう)なり・是れ未了義なり。是れ諸の諍論(じょうろん)安足の処所(ところ)なり。
 世尊・在昔(むかし)第二時の中に唯発趣して大乗を修する者の為にして一切の法は皆無自性なり・無性無滅なり・本来寂静なり・自性涅槃なるに依り、隠密の相を以て正法輪を転じ給いき。更に甚だ奇にして甚だ為(こ)れ希有なりと雖も・彼の時に於て転じ給う所の法輪亦是れ有上なり、容受(じゅよう)する所有り。猶未だ了義ならず。是れ諸の諍論安足の処所(ところ)なり。
 世尊・今第三時の中に於て普(あまね)く一切乗を発趣(ほっしゅ)する者の為に一切の法は皆無自性・無生無滅・本来寂静・自性涅槃にして無自性の性なるに依り顕了(けんりょう)の相を以て正法輪を転じ給う。第一甚だ奇にして最も為(こ)れ希有なり。今に世尊・転じ給う所の法輪・無上無容にして是れ真の了義なり。諸の諍論・安息の処所(ところ)に非ず」等云云。

 大般若(はんにゃ)経に云く「聴聞する所の世・出世の法に随つて皆能く方便して般若甚深の理趣に会入し、諸の造作する所の世間の事業も亦般若を以て法性に会入し、一事として法性を出ずる者を見ず」等云云。
 大日経第一に云く「秘密主・大乗行あり、無縁乗(むえんじょう)の心を発す。法に我性無し。何を以ての故に。彼・往昔(むかし)是くの如く修行せし者の如く、蘊(おん)の阿頼耶(あらや)を観察して自性(じしょう)幻の如しと知る」等云云。又云く「秘密主・彼是くの如く無我を捨て、心主自在にして自心の本不生を覚す」等云云。又云く「所謂空性は根境を離れ・無相にして境界無く、諸の戯論(けろん)に越えて虚空に等同なり乃至極無自性」等云云。又云く「大日尊・秘密主に告げて言く、秘密主・云何(いか)なるか菩提。謂く実の如く自心を知る」等云云。

 華厳経に云く「一切世界の諸の群生、声聞乗を求めんと欲すること有ること尠(すくな)し、縁覚を求むる者転(うたた)復少なし。大乗を求むる者・甚だ希有なり。大乗を求むる者、猶為(こ)れ易く・能く是の法を信ずる、為れ甚だ難し。況んや能く受持し・正憶念(しょうおくねん)し・説の如く修行し・真実に解せんをや。
 若し三千大千界を以て頂戴(ちょうだい)すること一劫身動(み・どう)ぜざらんも、彼の所作未だ為(こ)れ難からず。是の法を信ずるは為(こ)れ甚だ難し。大千塵数(じんずう)の衆生の類に一劫諸の楽具(がくぐ)を供養するも、彼の功徳・未だ為れ勝れず、是の法を信ずるは為れ殊勝なり。若し掌(たなごころ)を以て十仏刹(ぶっせつ)を持し、虚空に中に於て住すること一劫なるも、彼の所作・未だ為(こ)れ難からず、是の法を信ずるは為(こ)れ甚だ難し。十仏刹塵(せつじん)の衆生の類に一劫諸の楽具を供養せんも・彼の功徳未だ勝れりと為さず、是の法を信ずるは為れ殊勝なり。十仏刹塵の諸の如来を一劫恭敬して供養せん。若し能く此の品を受持せん者の功徳・彼よりも最勝と為す」等云云。

 涅槃経に云く「是の諸の大乗方等経典、復無量の功徳を成就すと雖も・是の経に比せんと欲するに喩(たとえ)を為すを得ざること百倍・千倍・百千万倍・乃至算数譬喩(さんじゅひゆ)も及ぶこと能わざる所なり。善男子、譬えば牛従(よ)り乳を出だし、乳従(よ)り酪(らく)を出だし、酪従り生蘇(しょうそ)を出だし、生蘇従り熟蘇を出だし、熟蘇従り醍醐を出だす。醍醐は最上なり。若し服すること有る者は衆病皆除き、所有の諸薬も悉く其の中に入るが如し。善男子、仏も亦是くの如し。仏従り十二部経を出だし、十二部経従(よ)り修多羅(しゅたら)を出だし、修多羅従り方等経を出だし、方等経従り般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を出だし、般若波羅蜜従り大涅槃を出だす。猶醍醐の如し。醍醐と言うは仏性に喩(たと)う」等云云。

 此等の経文を法華経の已今当・六難・九易に相対すれば、月に星をならべ、九山に須弥(しゅみ)を合せたるににたり。しかれども華厳宗の澄観・法相・三論・真言等の慈恩・嘉祥(かじょう)・弘法等の仏眼のごとくなる人、猶此の文にまどへり。何に況んや盲眼のごとくなる当世の学者等、勝劣を弁うべしや。黒白のごとく・あきらかに、須弥・芥子(けし)のごとくなる勝劣、なを・まどへり。いはんや虚空のごとくなる理に迷わざるべしや。教の浅深をしらざれば理の浅深を弁うものなし。巻をへだて文・前後すれば教門の色弁えがたければ、文を出だして愚者を扶けんとをもう。
 王に小王・大王、一切に少分・全分、五乳に全喩(ぜんゆ)・分喩を弁うべし。六波羅蜜経は有情の成仏あつて無性の成仏なし、何に況んや久遠実成をあかさず、猶涅槃経の五味にをよばず、何に況んや法華経の迹門・本門にたいすべしや。而るに日本の弘法大師・此の経文にまどひ給いて法華経を第四の熟蘇味に入れ給えり。第五の総持門の醍醐味すら涅槃経に及ばず、いかにし給いけるやらん。而るを「震旦(しんたん)の人師争つて醍醐を盗む」と天台等を盗人とかき給へり。「惜しい哉・古賢醍醐を嘗(な)めず」等と自歎せられたり。

 此等はさてをく、我が一門の者のためにしるす。他人は信ぜざれば逆縁なるべし。一渧(たい)をなめて大海のしを(潮)をしり、一華を見て春を推せよ。万里をわた(渡)て宋に入らずとも、三箇年を経て霊山にいたらずとも、竜樹のごとく竜宮に入らずとも、無著菩薩のごとく弥勒(みろく)菩薩にあはずとも、二所三会(さんね)に値わずとも、一代の勝劣はこれをしれるなるべし。
 蛇は七日が内の洪水(こうずい)をしる、竜の眷属なるゆへ。烏は年中の吉凶をしれり、過去に陰陽師(おんようし)なりしゆへ。
 鳥はとぶ徳・人にすぐれたり。日蓮は諸経の勝劣をしること華厳の澄観・三論の嘉祥(かじょう)・法相の慈恩・真言の弘法にすぐれたり、天台・伝教の跡をしのぶゆへなり。彼の人人は天台・伝教に帰せさせ給はずば謗法の失(とが)脱れさせ給うべしや。
 当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし。命は法華経にたてまつり、名をば後代に留(とどむ)べし。大海の主となれば諸の河神・皆したがう。須弥山(しゅみせん)の王に諸の山神・したがはざるべしや。法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし。

 宝塔品の三箇の勅宣の上に・提婆品に二箇の諌暁(かんぎょう)あり。提婆達多(だいばだった)は一闡提(せんだい)なり、天王如来と記せらる。涅槃(ねはん)経四十巻の現証は此の品にあり。善星(ぜんしょう)・阿闍世(あじゃせ)等の無量の五逆・謗法の者の一をあげ・頭をあげ、万ををさめ・枝をしたがふ。一切の五逆・七逆・謗法・闡提、天王如来にあらはれ了んぬ。毒薬変じて甘露(かんろ)となる、衆味にすぐれたり。
 竜女が成仏・此れ一人にはあらず、一切の女人の成仏をあらはす。法華已前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には成仏往生をゆるすやうなれども、或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり。挙一例諸(こいちれいしょ)と申して、竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし。
 儒家の孝養は今生にかぎる。未来の父母を扶(たす)けざれば外家の聖賢は有名無実なり。外道は過未をしれども父母を扶くる道なし。仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ。しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は自身の得道・猶かなひがたし、何に況んや父母をや。但文のみあつて義なし。今法華経の時こそ女人成仏の時・悲母の成仏も顕われ、達多の悪人成仏の時・慈父の成仏も顕わるれ。此の経は内典の孝経なり。二箇のいさ(諫)め了んぬ。

 已上五箇の鳳詔(ほうしょう)にをどろきて勧持品(かんじぼん)の弘経あり。明鏡の経文を出して当世の禅・律・念仏者・並びに諸檀那の謗法をしらしめん。

 日蓮といゐし者は去年(こぞ)九月十二日、子丑(ねうし)の時に頚(くび)はねられぬ。此れは魂魄(こんぱく)・佐土の国にいたりて・返年(かえるとし)の二月、雪中にしるして有縁の弟子へをく(贈)れば・をそろ(畏)しくて・をそ(怕)ろしからず、み(見)ん人いかに・をぢぬらむ。
此れ(本抄)は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なり。かたみともみるべし

 勧持品に云く「唯願くは慮(うらおもい)したもうべからず。仏滅度の後、恐怖(くふ)悪世の中に於て我等当に広く説くべし。
 諸の無智の人の悪口罵詈(あっくめり)等し及び刀杖を加うる者有らん。我等皆当(まさ)に忍ぶべし。
 悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲(てんごく)に未だ得ざるを為(こ)れ得たりと謂(おも)い・我慢の心充満せん。
 或は阿練若(あれんにゃ)に納衣(のうい)にして・空閑(くうげん)に在つて自ら真の道を行ずと謂つて・人間を軽賤(きょうせん)する者有らん。利養に貪著(とんじゃく)するが故に・白衣(びゃくえ)の与(ため)に法を説いて世に恭敬せらるることを為(う)ること・六通の羅漢の如くならん。是の人悪心を懐(いだ)き・常に世俗の事を念い、名を阿練若に仮(かっ)て好んで我等が過(とが)を出さん。常に大衆の中に在つて我等を毀(そし)らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門(ばらもん)・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて・是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂(い)わん。
 濁劫悪世の中には多く諸の恐怖(くふ)有らん。悪鬼其の身に入つて我を罵詈毀辱(めりきにく)せん。濁世の悪比丘は仏の方便随宜(ずいぎ)の所説の法を知らず、悪口し・顰蹙(ひんじゅく)し数数擯出(しばしば・ひんずい)せられん」等云云。
 記の八に云く「文に三。初に一行は通じて邪人を明す即ち俗衆なり。次に一行は道門増上慢の者を明す。三に七行は僣聖(せんしょう)増上慢の者を明す。此の三の中に初めは忍ぶ可し、次の者は前に過ぎたり、第三最も甚だし。後後の者は転(うたた)識り難きを以ての故に」等云云。

 東春に智度法師云く「初めに・有諸より下の五行は第一に一偈(げ)は三業の悪を忍ぶ、是れ外悪(げあく)の人なり。次に悪世の下の一偈は是・上慢出家の人なり。第三に或有阿練若(わくう・あれんにゃ)より下の三偈は即ち是出家の処に一切の悪人を摂(せっ)す」等云云。又云く「常在大衆より下の両行は公処に向つて法を毀(そし)り・人を謗ず」等云云。
 涅槃経の九に云く「善男子、一闡提(いっせんだい)有り。羅漢の像(かたち)を作して空処(くうしょ)に住し、方等大乗経典を誹謗せん。諸の凡夫人、見已つて皆真の阿羅漢(あらかん)・是大菩薩なりと謂わん」等云云。
 又云く「爾(そ)の時に是の経・閻浮提に於て当に広く流布すべし。是の時に当に諸の悪比丘有つて是の経を抄略し・分ちて多分と作(な)し・能く正法の色香美味を滅すべし。是の諸の悪人、復是くの如き経典を読誦すと雖も・如来の深密の要義を滅除して世間の荘厳の文飾(もんしき)・無義の語を安置す。前を抄して後に著け、後を抄して前に著け、前後を中に著け、中を前後に著く。当に知るべし、是くの如きの諸の悪比丘は是れ魔の伴侶なり」等云云。

 六巻の般泥洹(はつないおん)経に云く「阿羅漢に似たる一闡提有つて悪業を行ず、一闡提に似たる阿羅漢あつて慈心を作さん。羅漢に似たる一闡提有りとは是の諸の衆生・方等を誹謗するなり。一闡提に似たる阿羅漢とは声聞を毀呰(きし)し・広く方等を説くなり。衆生に語つて言く、我れ・汝等と倶に是れ菩薩なり。所以は何(いか)ん。一切皆如来の性有る故に。然も彼の衆生一闡提なりと謂わん」等云云。
 涅槃経に云く「我涅槃の後乃至正法滅して後、像法の中に於て当に比丘有るべし。持律に似像(じぞう)して少(わず)かに経を読誦し、飲食(おんじき)を貪嗜(とんし)し、其の身を長養す。袈裟(けさ)を服(き)ると雖も猶猟師の細視徐行するが如く、猫の鼠を伺うが如し。常に是の言(ことば)を唱えん、我羅漢を得たりと。外には賢善を現わし、内には貪嫉(とんしつ)を懐かん。唖法(あほう)を受けたる婆羅門等の如し。実に沙門に非ずして沙門の像(かたち)を現じ、邪見熾盛(しじょう)にして正法を誹謗せん」等云云。

 夫れ鷲峯(じゅほう)・雙林(そうりん)の日月、毘湛(びたん)・東春の明鏡に、当世の諸宗・並びに国中の禅律・念仏者が醜面を浮べたるに一分もくもりなし。妙法華経に云く「於仏滅度後・恐怖(くふ)悪世中」安楽行品に云く「於後(おご)悪世」又云く「於末世中」又云く「於後末世・法欲滅時」分別功徳品に云く「悪世末法時」薬王品に云く「後五百歳」等云云。正法華経の勧説品(かんぜつほん)に云く「然後末世」又云く「然後来末世」等云云。添品(てんぽん)法華経に云く等。
 天台の云く「像法の中の南三北七は法華経の怨敵なり」伝教の云く「像法の末、南都・六宗の学者は法華の怨敵なり」等云云。彼等の時はいまだ分明(ふんみょう)ならず。此は教主釈尊・多宝仏・宝塔の中に日月の並ぶがごとく、十方・分身の諸仏・樹下に星を列ねたりし中にして、正法一千年・像法一千年・二千年すぎて末法の始めに法華経の怨敵・三類あるべしと、八十万億那由佗(なゆた)の諸菩薩の定め給いし・虚妄となるべしや。

 当世は如来滅後・二千二百余年なり。大地は指(ささ)ば・はづるとも、春は花はさかずとも、三類の敵人・必ず日本国にあるべし。さるにては・たれたれの人人か三類の内なるらん。又誰人か法華経の行者なりと・さされたるらん・をぼつかなし。彼の三類の怨敵に我等入りてやあるらん、又法華経の行者の内にてやあるらん・をぼつかなし。

 周の第四昭王の御宇(ぎょ・う)二十四年、甲寅(きのえとら)・四月八日の夜中に、天(そら)に五色の光気・南北に亘りて昼のごとし。大地・六種に震動し雨ふらずして江河・井池(せいち)の水まさり、一切の草木に花さき・菓(このみ)なりたりけり。不思議なりし事なり。昭王・大いに驚き、大史(たいし)・蘇由(そゆう)・占つて云く「西方に聖人生れたり」昭王問て云く「此の国いかん」答えて云く「事なし。一千年の後に彼の聖言、此の国にわたつて衆生を利すべし」彼のわづかの外典の一毫未断(いちごうみだん)・見思の者、しかれども一千年のことをしる。はたして仏教・一千一十五年と申せし後漢の第二・明帝の永平十年・丁卯(ひのとう)の年、仏法・漢土にわたる。

 此は似るべくもなき釈迦・多宝・十方分身の仏の御前の諸菩薩の未来記なり。当世・日本国に三類の法華経の敵人なかるべしや。されば仏・付法蔵経等に記して云く「我が滅後に正法一千年が間、我が正法を弘むべき人・二十四人、次第に相続すべし」迦葉(かしょう)・阿難等はさてをきぬ、一百年の脇比丘(きょうびく)・六百年の馬鳴(めみょう)・七百年の竜樹(りゅうじゅ)菩薩等・一分もたがはず・すでに出で給いぬ。此の事いかんが・むなしかるべき。此の事相違せば一経・皆相違すべし。所謂舎利弗が未来の華光(けこう)如来・迦葉の光明如来も皆妄語となるべし。爾前(にぜん)返つて一定(いちじょう)となつて永(よう)不成仏の諸声聞なり。犬野干(いぬやかん)をば供養すとも阿難等をば供養すべからずとなん。いかんがせん・いかんがせん。

[開目抄(下) 本文] その三に続く




by johsei1129 | 2019-10-12 13:02 | 開目抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)


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