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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 11日

日蓮大聖人自らが末法の本仏であることを明かした書【開目抄】 (上) その五

[開目抄(上) 本文] その五 
 諸の声聞等は前四味の経経にいくそばくぞ(幾許)の呵嘖(かしゃく)を蒙り、人天・大会の中にして恥辱(ちじょく)がましき事・其の数をしらず。しかれば迦葉尊者の渧泣(ていきゅう)の音(こえ)は三千をひびかし、須菩提(しゅぼだい)尊者は亡然として手の一鉢をすつ、舎利弗は飯食(おんじき)をは(吐)き、富楼那(ふるな)は画瓶(がびょう)に糞を入ると嫌わる。世尊・鹿野苑(ろくやおん)にしては阿含経を讃歎し、二百五十戒を師とせよ・なんど慇懃(おんごん)にほめさせ給いて、今又いつのまに我が所説をば・かうはそしらせ給うと二言・相違の失(とが)とも申しぬべし。
 例せば世尊・提婆達多を汝愚人、人の唾(つばき)を食うと罵詈(めり)せさせ給しかば、毒箭(どくせん)の胸に入るがごとく・をもひて・うらみて云く「瞿曇(くどん)は仏陀にはあらず。我は斛飯(こくぼん)王の嫡子・阿難尊者が兄・瞿曇が一類なり。いかにあしき事ありとも内内・教訓すべし。此等程の人天・大会に・此(これ)程の大禍を現に向つて申すもの、大人・仏陀の中にあるべしや。されば先先(さきざき)は妻のかたき・今は一座のかたき。今日よりは生生・世世に大怨敵となるべし」と誓いしぞかし。
 此れをもつて思うに今・諸の大声聞は本(もと)外道・婆羅門の家より出でたり。又諸の外道の長者なりしかば、諸王に帰依せられ諸檀那にたつ(尊)とまる。或は種姓・高貴の人もあり、或は富福・充満のやからもあり。而るに彼彼の栄官等をうちすて慢心の幢(はたほこ)を倒して俗服を脱ぎ、壊色(えじき)の糞衣を身にまとひ、白払(びゃくほつ)・弓箭(きゅうせん)等をうちすてて一鉢を手ににぎり、貧人・乞丐(こつがい)なんどの・ごとくして世尊につき奉り、風雨を防ぐ宅もなく、身命をつぐ衣食乏少なりし・ありさまなるに、五天・四海・皆外道の弟子・檀那なれば仏すら九横の大難にあひ給ふ。所謂提婆が大石をとばせし、阿闍世王の酔象を放ちし、阿耆多(あきた)王の馬麦(めみゃく)、婆羅門城のこんづ(奬)、せんしや(旃遮)婆羅門女が鉢を腹にふせし。何に況んや所化の弟子の数難(すなん)申す計りなし。無量の釈子は波瑠璃(はるり)王に殺され、千万の眷属は酔象にふまれ、華色比丘尼(けしきびくに)は提婆にがいせられ、迦廬提(かるだい)尊者は馬糞にうづまれ、目犍(もっけん)尊者は竹杖にがいせらる。
 其の上六師同心して阿闍世・婆斯匿(はしのく)王等に讒奏(ざんそう)して云く「瞿曇(くどん)は閻浮(えんぶ)第一の大悪人なり、彼がいたる処は三災七難を前(さき)とす。大海の衆流(しゅうる)をあつめ、大山の衆木をあつめたるが・ごとし。瞿曇がところには衆悪をあつめたり、所謂迦葉(かしょう)・舎利弗(しゃりほつ)・目連・須菩提(しゅぼだい)等なり。人身を受けたる者は忠孝を先とすべし。彼等は瞿曇にすかされて父母の教訓をも用いず。家をいで王法の宣旨をも・そむいて山林にいたる。一国に跡をとどむべき者にはあらず。されば天には日月・衆星・変をなす、地には衆夭(ちよう)さかんなりなんど・うつたう。堪(たう)べしとも・おぼえざりしに又うちそ(添)うわざわいと・仏陀にも・うちそ(副)いがたくて・ありしなり。人天大会の衆会の砌(みぎり)にて時時呵嘖(よりより・かしゃく)の音をききしかば、いかにあるべしとも・おぼへず、只あわつる(狼狽)心のみなり。
 其の上、大の大難の第一なりしは浄名経の「其れ汝に施す者は福田と名けず。汝を供養する者は三悪道に堕す」等云云。文の心は仏・菴羅苑(あんらおん)と申すところに・をはせしに、梵天・帝釈・日月・四天・三界諸天・地神・竜神等・無数恒沙の大会の中にして云く、須菩提等の比丘等を供養せん天人は三悪道に堕つべし。此等をうちきく天人・此等の声聞を供養すべしや。詮ずるところは仏の御言を用(も)つて諸の二乗を殺害せさせ給うかと見ゆ。心あらん人人は仏をも・うとみぬべし。されば此等の人人は仏を供養したてまつりし・ついでにこそ、わづかの身命をも扶(たす)けさせ給いしか。されば事の心を案ずるに、四十余年の経経のみとかれて・法華八箇年の所説なくて御入滅ならせ給いたらましかば、誰の人か此等の尊者をば供養し奉るべき。現身に餓鬼道にこそ・をはすべけれ。

 而るに四十余年の経経をば東春の大日輪・寒冰を消滅するがごとく、無量の草露を大風の零落するがごとく、一言一時に未顕真実と打ちけし、大風の黒雲をまき、大虚(おおぞら)に満月の処するがごとく、青天に日輪の懸り給うがごとく、世尊法久後・要当説真実と照させ給いて華光(けこう)如来・光明如来等と舎利弗・迦葉等を赫赫(かくかく)たる日輪・明明たる月輪のごとく鳳文(ほうもん)にしるし、亀鏡に浮べられて候へばこそ、如来滅後の人天の諸檀那等には仏陀のごとくは仰がれ給しか。
 水すまば月、影を・をしむべからず、風ふかば草木なびかざるべしや。法華経の行者あるならば此等の聖者は大火の中をすぎても、大石の中を・とをりても、とぶ(訪)らはせ給うべし。迦葉の入定もことにこそ・よれ、いかにと・なりぬるぞ。いぶかし(不審)とも申すばかりなし。

 後五百歳のあたらざるか、広宣流布の妄語となるべきか、日蓮が法華経の行者ならざるか。法華経を教内と下して別伝と称する大妄語(もうご)の者をまほり給うべきか。捨閉閣抛(しゃへいかくほう)と定めて法華経の門をとぢよ・巻をなげすてよと・ゑりつけ(彫付)て法華堂を失える者を守護し給うべきか。仏前の誓いはありしかども、濁世の大難のはげしさをみて諸天下り給わざるか。日月・天にまします、須弥山いまも・くづれず。海潮も増減す、四季もかたのごとく・たがはず。いかに・なりぬるやらんと大疑いよいよ・つもり候。

 又諸大菩薩・天人等のごときは爾前の経経にして記別を・うるやうなれども、水中の月を取らんと・するがごとく、影を体とおもうがごとく、いろかたち・のみあつて実義もなし。又仏の御恩も深くて深からず。世尊・初成道の時はいまだ説教もなかりしに、法慧(ほうえ)菩薩・功徳林菩薩・金剛幢(こんごうどう)菩薩・金剛蔵菩薩等なんど申せし六十余の大菩薩、十方の諸仏の国土より教主釈尊の御前に来り給いて、賢首菩薩・解脱月等の菩薩の請にをもむいて十住・十行・十回向・十地等の法門を説き給いき。
 此等の大菩薩の所説の法門は釈尊に習いたてまつるにあらず。十方世界の諸の梵天等も来たって法をとく。又釈尊に・ならいたてまつらず。総じて華厳会座の大菩薩・天竜等は釈尊以前に不思議解脱に住せる大菩薩なり。釈尊の過去・因位の御弟子にや有るらん、十方世界の先仏の御弟子にや有るらん。一代教主・始成の正覚の仏の弟子にはあらず。阿含・方等・般若の時、四教を仏の説き給いし時こそ・やうやく御弟子は出来して候へ。此も又・仏の自説なれども正説にはあらず。ゆへ・いかんとなれば方等・般若の別円二教は華厳経の別円二教の義趣をいでず。彼の別円二教は教主釈尊の別円二教にはあらず、法慧等の別円二教なり。此等の大菩薩は人目には仏の御弟子かとは見ゆれども・仏の御師とも・いゐぬべし。世尊・彼の菩薩の所説を聴聞して智発して後、重ねて方等・般若の別円をと(説)けり。色もかわらぬ華厳経の別円二教なり。
 されば此等の大菩薩は釈尊の師なり。華厳経に此等の菩薩をかず(数)へて善知識ととかれしはこれなり。善知識と申すは一向・師にもあらず、一向・弟子にもあらずある事なり。蔵通二教は又別円の枝流なり。別円二教をしる人・必ず蔵通二教をしるべし。人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり。例せば仏より前の一切の人天・外道は二天・三仙の弟子なり。九十五種まで流派したりしかども三仙の見を出でず。教主釈尊もかれに習い伝えて外道の弟子にて・ましませしが、苦行・楽行・十二年の時、苦・空・無常・無我の理をさとり出してこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて無師智とはなのらせ給いしか。又人天も大師とは仰ぎまいらせしか。されば前四味の間は教主釈尊・法慧菩薩等の御弟子なり。例せば文殊は釈尊九代の御師と申すがごとし。つねは諸経に不説一字と・とかせ給うも・これなり。

 仏・御年・七十二の年、摩竭提国(まかだこく)・霊鷲山(りょうじゅせん)と申す山にして無量義経を・とかせ給いしに、四十余年の経経をあげて枝葉をば其の中におさめて四十余年・未顕真実と打ち消し給うは此なり。此の時こそ諸大菩薩・諸天人等はあはてて実義を請せんとは申せしか。無量義経にて実義とをぼしき事・一言ありしかども・いまだまこと(実)なし。譬へば月の出でんとして其の体・東山にかくれて光り、西山に及べども諸人・月体(つきしろ)を見ざるがごとし。
 法華経・方便品の略開三顕一の時、仏略して一念三千・心中の本懐を宣べ給う。始めの事なれば・ほととぎすの初音を・ねをび(寝惚)れたる者の一音(こえ)ききたるが・やうに、月の山の半(は)を出でたれども薄雲の・をほへるが・ごとく・かそ(幽)かなりしを、舎利弗等・驚いて諸天・竜神・大菩薩等をもよをして「諸天・竜神等・其の数恒沙の如し。仏を求むる諸の菩薩・大数八万有り。又諸の万億国の転輪聖王の至れる、合掌して敬心を以て具足の道を聞かんと欲す」等とは請ぜしなり。文の心は四味・三教・四十余年の間、いまだ・きかざる法門うけ給はらんと請ぜしなり。
 此の文に具足の道を聞かんと欲すと申すは大経に云く「薩(さ)とは具足の義に名く」等云云。無依無得大乗四論玄義記に云く「沙とは訳して六と云う。胡法に六を以て具足の義と為すなり」等云云。吉蔵の疏に云く「沙とは翻(ほん)じて具足と為す」等云云。天台の玄義の八に云く「薩とは梵語、此(ここ)に妙と翻ずるなり」等云云。付法蔵の第十三真言・華厳・諸宗の元祖・本地は法雲自在王如来・迹に竜猛菩薩・初地の大聖の大智度論千巻の肝心に云く「薩とは六なり」等云云。

 妙法蓮華経と申すは漢語なり。月支には薩達磨(さだるま)・分陀利伽(ふんだりきや)・蘇多攬(そたらん)と申す。善無畏三蔵の法華経の肝心真言に云く「曩謨三曼陀没駄南(のうまくさんぼだなん) 帰命普仏陀 唵(おん) 三身如来 阿阿暗悪(あああんなく) 開示悟入 薩縛勃陀羅(さるぼだら) 一切仏 枳攘(きのう) 娑乞蒭毘耶(さきしゅびや) 誐誐曩三娑縛(ぎゃぎゃのうさんそば) 如虚空性 羅乞叉儞(あらきしゃに) 離塵相也 薩哩達磨(さつりだるま) 正法 浮陀哩迦(ふんだりきや) 白蓮華 蘇駄覧(そたらん) 惹(じゃ)吽(うん) 鑁(ぱん) 発(こく) 歓喜 縛曰羅(ばざら) 堅固 羅乞叉(あらきしゃ)まん 擁護 吽(うん) 空無相無願 娑婆訶(そはか) 決定成就」此の真言は南天竺の鉄塔の中の法華経の肝心の真言なり。
 此の真言の中に薩哩達磨(さつりだるま)と申すは正法なり、薩と申すは正なり、正は妙なり・妙は正なり、正法華・妙法華是なり。又妙法蓮華経の上に南無の二字ををけり、南無妙法蓮華経これなり。妙とは具足、六とは六度万行、諸の菩薩の六度万行を具足するやうを・きかんとをもう。具とは十界互具、足と申すは一界に十界あれば当位に余界あり、満足の義なり。此の経一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四字・一一に皆妙の一字を備えて三十二相・八十種好の仏陀なり。十界に皆・己界(こかい)の仏界を顕す。妙楽云く「尚仏果を具す、余果も亦然り」等云云、仏・此れを答えて云く「衆生をして仏知見を開らか令めんと欲す」等云云。衆生と申すは舎利弗、衆生と申すは一闡提(いっせんだい)、衆生と申すは九法界、衆生無辺誓願度・此(ここ)に満足す。「我本(もと)誓願を立つ。一切の衆をして我が如く等しくして異なること無からしめんと欲す。我が昔の願せし所の如き、今は已に満足しぬ」等云云。

 諸大菩薩・諸天等、此の法門をきひて領解(りょうげ)して云く「我等昔より来数(このかた・しばしば)世尊の説を聞きたてまつれども、未だ曾て是くの如き深妙の上法を聞かず」等云云。伝教大師云く「我等昔より来数・世尊の説を聞くと謂うは昔法華経の前、華厳(けごん)等の大法を説くを聞けども・となり。未だ曾て是くの如き深妙の上法を聞かずと謂うは、未だ法華経の唯一仏乗の教を聞かざるなり」等云云。華厳・方等・般若・深密・大日等の恒河沙の諸大乗経は、いまだ一代の肝心たる一念三千の大綱、骨髄たる二乗作仏・久遠実成等をいまだきかずと領解せり。

[開目抄(下) 本文] その一に続く




by johsei1129 | 2019-10-11 22:31 | 開目抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)


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