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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 10日

日蓮大聖人自らが末法の本仏であることを明かした書【開目抄】 (上) その四

[開目抄(上) 本文] その四
 日蓮案じて云く、二乗作仏すら猶爾前(なおにぜん)づよにをぼゆ。久遠実成は又にるべくも・なき爾前づりなり。其の故は爾前・法華相対するに、猶爾前こわ(強)き上、爾前のみならず迹門十四品も一向に爾前に同ず。本門十四品も涌出・寿量の二品を除いては皆始成(しじょう)を存せり。雙林(そうりん)最後の大般涅槃経(だいはつねはんきょう)・四十巻、其の外の法華・前後の諸大経に一字一句もなく法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず。いかんが広博の爾前・本迹・涅槃等の諸大乗経をばすてて但涌出・寿量の二品には付くべき。
 されば法相宗と申す宗は西天の仏滅後、九百年に無著菩薩と申す大論師有(ましま)しき。夜は都率(とそつ)の内院にのぼり、弥勒(みろく)菩薩に対面して一代聖教の不審をひらき、昼は阿輸舎(あしゅしゃ)国にして法相の法門を弘め給う。彼の御弟子は世親・護法・難陀(なんだ)・戒賢(かいげん)等の大論師なり。戒日大王・頭をかたぶけ五天・幢(はたほこ)を倒して此れに帰依す。尸那(しな)国の玄奘(げんじょう)三蔵、月氏にいたりて十七年、印度百三十余の国国を見ききて諸宗をばふりすて・此の宗を漢土にわたして太宗皇帝と申す賢王にさづけ給い、肪(ほう)・尚(しょう)・光(こう)・基(き)を弟子として大慈恩寺並びに三百六十余箇国に弘め給い、日本国には人王三十七代・孝徳天皇の御宇に道慈・道昭等なら(習)いわたして山階(やましな)寺にあがめ給へり。三国第一の宗なるべし。
 此の宗の云く、始め華厳経より終はり法華・涅槃経にいたるまで、無性有情と決定性の二乗は永く仏になるべからず。仏語に二言なし。一度・永不成仏と定め給いぬる上は、日月は地に落ち給うとも・大地は反覆(はんぷく)すとも永く変改有(へんかいある)べからず。されば法華経・涅槃経の中にも爾前の経経に嫌いし無性有情・決定性を正くついさして成仏すとは・とかれず。まづ眼を閉じて案ぜよ、法華経・涅槃経に決定性・無性有情・正く仏になるならば無著(むちゃく)・世親ほどの大論師・玄奘・慈恩ほどの三蔵・人師これをみざるべしや、此れをのせざるべしや、これを信じて伝えざるべしや、弥勒(みろく)菩薩に問いたてまつらざるべしや。汝は法華経の文に依るやうなれども、天台・妙楽(みょうらく)・伝教の僻見(びゃっけん)を信受して其の見をもつて経文をみるゆえに、爾前に法華経は水火なりと見るなり。
 華厳宗と真言宗は法相・三論には・にるべくもなき超過の宗なり。二乗作仏・久遠実成は法華経に限らず華厳経・大日経に分明(ふんみょう)なり。華厳宗の杜順(とじゅん)・智儼(ちごん)・法蔵・澄観・真言宗の善無畏(ぜんむい)・金剛智・不空等は天台・伝教には・にるべくもなき高位の人なり。其の上・善無畏等は大日如来より系みだれざる相承あり。此等の権化(ごんげ)の人・いかでか悞(あやま)りあるべき。
 随つて華厳経には「或は釈迦・仏道を成じ已(おわ)つて不可思議劫を経るを見る」等云云。大日経には「我れは一切の本初なり」等云云。何ぞ但(ただ)久遠実成・寿量品に限らん。譬へば井底(せいてい)の蝦(かわず)が大海を見ず、山左(やまかつ)が洛中を・しらざるがごとし。汝・但寿量の一品を見て華厳・大日経等の諸経をしらざるか。其の上月氏・尸那(しな)・新羅・百済等にも一同に二乗作仏・久遠実成は法華経に限るというか。されば八箇年の経は四十余年の経経には相違せりというとも、先判・後判の中には後判につくべしというとも、猶爾前づりにこそをぼうれ。又・但在世計(ばか)りならば・さもあるべきに、滅後に居せる論師・人師・多(おおく)は爾前づりにこそ候へ。
 かう法華経は信じがたき上、世もやうやく末になれば聖賢はやうやく・かくれ、迷者はやうやく多し。世間の浅き事すら猶あやまりやすし、何に況んや出世の深法あやまりなかるべしや。犢子(とくし)・方広が聡敏(そうびん)なりし、猶を大小乗経にあやまてり。無垢(むく)・摩沓(まとう)が利根なりし、権実・二教を弁えず。正法一千年の内・在世も近く・月氏の内なりし。すでにかくのごとし。況(いわん)や尸那(しな)・日本等は国もへだて音もかはれり・人の根も鈍なり・寿命も日あさし・貪瞋癡(とんじんち)も倍増せり。仏・世を去つてとし久し、仏経みなあやまれり、誰れの智解か直かるべき。
 仏・涅槃経に記して云く「末法には正法の者は爪上の土、謗法の者は十方の土」とみへぬ。法滅尽経に云く「謗法の者は恒河沙(ごうがしゃ)、正法の者は一二の小石」と記しをき給う。千年・五百年に一人なんども正法の者ありがたからん。世間の罪に依つて悪道に堕る者は爪上の土、仏法によつて悪道に堕る者は十方の土、俗よりも僧、女より尼・多く悪道に堕つべし。
 此に日蓮案じて云く、世すでに末代に入つて二百余年、辺土に生をうけ、其の上・下賤(げせん)、其の上貧道(ひんどう)の身なり。輪回(りんね)六趣の間、人天の大王と生れて万民をなびかす事・大風の小木の枝を吹くがごとくせし時も仏にならず。大小乗経の外凡・内凡の大菩薩と修しあがり、一劫・二劫・無量劫を経て菩薩の行を立て、すでに不退に入りぬべかりし時も・強盛の悪縁におとされて仏にもならず。しらず、大通結縁の第三類の在世をもれたるか、久遠五百の退転して今に来たれるか。
 法華経を行ぜし程に・世間の悪縁・王難・外道の難・小乗経の難なんどは忍びし程に、権大乗・実大乗経を極めたるやうなる道綽(どうしゃく)・善導・法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者、法華経をつよくほめあげ・機をあなが(強)ちに下し・理深解微(りじんげみ)と立て・未有一人得者・千中無一等と・すかししものに無量生が間・恒河沙(ごうがしゃ)の度すかされて権経に堕ちぬ、権経より小乗経に堕ちぬ、外道・外典に堕ちぬ。結句は悪道に堕ちけりと深く此れをしれり。日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。
 これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに、法華経・涅槃(ねはん)経等に此の二辺を合せ見るに、いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕(おつ)べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ。二辺の中には・いうべし、王難等・出来の時は退転すべくは、一度に思ひ止むべしと且くやす(休)らいし程に、宝塔品の六難九易これなり。我等程の小力の者・須弥山(しゅみせん)はなぐとも、我等程の無通の者・乾草を負うて劫火(ごうか)には・やけずとも、我等程の無智の者・恒沙(ごうしゃ)の経経をば・よみをぼうとも、法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと・とかるるは・これなるべし。今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願じぬ。
 既に二十余年が間・此の法門を申すに日日・月月・年年に難かさなる。少少の難は・かずしらず、大事の難・四度なり。二度は・しばらく・をく、王難すでに二度にをよぶ、今度はすでに我が身命に及ぶ。其の上・弟子といひ檀那といひ、わづかの聴聞の俗人なんど来つて重科(じゅうか)に行わる、謀反(むほん)なんどの者のごとし。
 法華経の第四に云く「而も此経は如来の現在にすら猶怨嫉(おんしつ)多し。況(いわん)や滅度の後をや」等云云。
 第二に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉(きょうせん・ぞうしつ)して結恨(けっこん)を懐かん」等云云。
 第五に云く「一切世間怨(あだ)多くして信じ難し」等云云。
 又云く「諸の無智の人の悪口罵詈(あっくめり)する有らん」等。
 又云く「国王・大臣・婆羅門(ばらもん)・居士(こじ)に向つて誹謗し我が悪を説いて、是れ邪見の人なりと謂わん」と。
 又云く「数数擯出見(しばしば・ひんずいせら)れん」等云云。
 又云く「杖木瓦石もて之を打擲(ちょうちゃく)せん」等云云。
 涅槃経に云く「爾の時に多く無量の外道有つて和合して共に摩訶陀(まかだ)の王・阿闍世(あじゃせ)の所(もと)に往く。今は唯一(ひとり)の大悪人有り、瞿曇(くどん)沙門なり。一切世間の悪人利養の為の故に・其の所に往集して眷属と為つて能く善を修せず。呪術(じゅじゅつ)の力の故に迦葉(かしょう)及び舎利弗・目犍連(もっけんれん)を調伏す」等云云。
 天台云く「何(いか)に況(いわん)や未来をや、理・化し難きに在るなり」等云云。
 妙楽云く「障り未だ除かざる者を怨と為し、聞くことを喜ばざる者を嫉と名く」等云云。
 南三・北七の十師・漢土無量の学者、天台を怨敵とす。得一云く「咄(つたない)かな智公・汝は是れ誰が弟子ぞ。三寸に足らざる舌根を以て覆面舌(ふめんぜつ)の所説を謗ずる」等云云。
 東春に云く「問う、在世の時・許多(そこばく)の怨嫉(おんしつ)あり。仏滅度の後・此経を説く時、何が故ぞ亦留難多きや。答えて云く、俗に良薬口に苦しと云うが如く、此経は五乗の異執(いしゅう)を廃して一極(ごく)の玄宗を立つ。故に凡を斥(しりぞ)け聖を呵(か)し、大を排い小を破り、天魔を銘じて毒虫と為し、外道を説いて悪鬼と為し、執小を貶(へん)して貧賤と為し、菩薩を挫(くじ)きて新学と為す。故に天魔は聞くを悪(にく)み、外道は耳に逆い、二乗は驚怪(きょうけ)し、菩薩は怯行(こうぎょう)す。此くの如きの徒・悉(ことごと)く留難を為す。多怨嫉の言・豈唐(あに・むな)しからんや」等云云。
 顕戒論に云く「僧統奏して曰く、西夏に鬼弁婆羅門有り、東土に巧言(ぎょうごん)を吐く禿頭(とくず)沙門あり。此れ乃ち物類冥召(もつるい・みょうしょう)して世間を誑惑(おうわく)す」等云云。
 論じて曰く「昔・斉朝(せいちょう)の光統(こうず)に聞き、今は本朝の六統に見る。実(まこと)なるかな法華に何況(がきょう)するをや」等云云。
 秀句に云く「代を語れば則ち像の終り・末の始め、地を尋(たず)ぬれば則ち唐の東・羯(かつ)の西、人を原(たず)ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり。経に云く猶多怨嫉(ゆたおんしつ)・況滅度後(きょうめつどご)、此の言良(ことば・まこと)に以(ゆえ)有るなり」等云云。
 夫れ小児に灸治(やいと)を加れば必ず母をあだむ、重病の者に良薬をあたうれば定んで口に苦(にが)しと・うれう。在世猶を・しかり、乃至像末辺土をや。山に山をかさね・波に波をたたみ・難に難を加へ・非に非をますべし。像法の中には天台一人法華経・一切経をよめり。南北これをあだみしかども陳隋(ちんずい)・二代の聖主、眼前に是非を明らめしかば敵ついに尽きぬ。像の末に伝教一人・法華経一切経を仏説のごとく読み給へり。南都・七大寺蜂起(ほうき)せしかども桓武(かんむ)・乃至嵯峨(さが)等の賢主、我と明らめ給いしかば又事なし。
 今末法の始め・二百余年なり。況滅度後のしるし(兆)に闘諍(とうじょう)の序(ついで)となるべきゆへに、非理を前(さき)として濁世のしるし(験)に・召し合せられずして流罪乃至寿(いのち)にも・をよばんと・するなり。
 されば日蓮が法華経の智解(ちげ)は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び・慈悲のすぐれたる事は、をそれをも・いだきぬべし。定んで天の御計いにもあづかるべしと存ずれども一分のしるしもなし、いよいよ重科に沈む。還つて此の事を計りみれば・我が身の法華経の行者にあらざるか、又諸天・善神等の此の国をすてて去り給えるか・かたがた疑はし。
 而るに法華経の第五の巻・勧持品(かんじぼん)の二十行の偈は、日蓮だにも此の国に生れずば・ほとを(殆)ど世尊は大妄語の人、八十万億那由佗(なゆた)の菩薩は提婆が虚誑罪(こおうざい)にも堕ちぬべし。
 経に云く「諸の無智の人あつて・悪口罵詈(あっく・めり)等し・刀杖瓦石を加う」等云云。
 今の世を見るに日蓮より外(ほか)の諸僧、たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈(あっくめり)せられ・刀杖等を加えらるる者ある。日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ。
 「悪世の中の比丘は邪智にして・心諂曲(てんごく)」又云く「白衣の与(ため)に法を説いて世に恭敬(くぎょう)せらるること・六通の羅漢の如し」
 此等の経文は今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば、世尊は又大妄語の人。
 「常在大衆中・乃至向国王・大臣・婆羅門居士」等、今の世の僧等・日蓮を讒奏(ざんそう)して流罪せずば此の経文むなし。
 又云く「数数見擯出(さくさく・けんひんずい)」等云云。
 日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば・数数の二字いかんがせん。此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず、況んや余人をや。末法の始めのしるし・恐怖(くふ)悪世中の金言の・あふゆへに但(ただ)日蓮一人これをよめり。例せば世尊が付法蔵経に記して云く「我が滅後・一百年に阿育(あそか)大王という王あるべし」摩耶(まや)経に云く「我が滅後・六百年に竜樹菩薩という人、南天竺に出ずべし」大悲経に云く「我が滅後・六十年に末田地(までんたい)という者、地を竜宮につ(築)くべし」此れ等皆仏記のごとくなりき。しからずば誰か仏教を信受すべき。
 而るに仏、恐怖悪世・然後末世・末法滅時・後五百歳なんど・正妙の二本に正しく時を定め給う。当世・法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん。日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん。南三・北七・七大寺等・猶像法の法華経の敵の内、何に況んや当世の禅・律・念仏者等は脱(のが)るべしや。
 経文に我が身・普合せり、御勘気をかほ(蒙)れば・いよいよ悦びをますべし。例せば小乗の菩薩の未断惑(みだんなく)なるが・願兼於業(がんけんおごう)と申して・つくりたくなき罪なれども、父母等の地獄に堕ちて大苦をうくるを見て、かた(形)のごとく其の業を造りて・願つて地獄に堕ちて苦(くるしむ)に同じ。苦に代れるを悦びとするがごとし。此れも又かくのごとし。当時の責めは・た(堪)うべくも・なけれども、未来の悪道を脱すらんと・をもえば悦びなり。
 但し世間の疑ひといゐ、自心の疑ひと申し、いかでか天・扶(たす)け給わざるらん。諸天等の守護神は仏前の御誓言あり。法華経の行者には・さる(猿)になりとも、法華経の行者とがうして・早早に仏前の御誓言を・とげんとこそ・をぼすべきに、其の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか。此の疑(うたがい)は此の書の肝心、一期(いちご)の大事なれば処処にこれをかく上、疑ひを強くして答へをかまうべし。

 季札(きさつ)といひし者は心のやくそくを・たがへじと、王の重宝たる剣を徐君が墓にかく。王寿と云いし人は河の水を飲んで金の鵞目(ぜに)を水に入れ、公胤(こういん)といひし人は腹をさいて主君の肝を入る。此等は賢人なり、恩をほうずるなるべし。況んや舎利弗・迦葉等の大聖は・二百五十戒・三千の威儀・一つもかけず見思(けんじ)を断じ三界を離れたる聖人なり。梵帝・諸天の導師・一切衆生の眼目なり。而るに四十余年が間、永(よう)不成仏と嫌いすてはてられて・ありしが、法華経の不死の良薬をなめて燋種(いれるたね)の生い・破石(はしゃく)の合い・枯木の華菓なんどならんとせるがごとく仏になるべしと許されて、いまだ八相をとな(唱)えず。いかでか此の経の重恩をば・ほうぜざらん。若しほうぜずば彼彼の賢人にも・をとりて不知恩の畜生なるべし。
 毛宝が亀は・あを(襖)の恩をわすれず、昆明池(こんめいち)の大魚は命の恩をほうぜんと明珠を夜中にささげたり。畜生すら猶恩をほうず、何(いか)に況(いわん)や大聖をや。
 阿難尊者は斛飯王(こくぼんのう)の次男、羅睺羅(らごら)尊者は浄飯(じょうぼん)王の孫なり。人中に家高き上、証果の身となつて成仏を・をさへられたりしに、八年の霊山(りょうぜん)の席にて山海慧・蹋七宝華(とうしっぽうけ)なんど如来の号をさづけられ給う。若し法華経ましまさずば・いかに・いえ(家)たかく大聖なりとも、誰か恭敬したてまつるべき。
 夏(か)の桀(けつ)・殷(いん)の紂(ちゅう)と申すは万乗の主・土民の帰依なり。しかれども政(まつりごと)あしくして世をほろぼせしかば、今に・わるきものの手本には桀紂(けっちゅう)・桀紂とこそ申せ、下賤(げせん)の者・癩(らい)病の者も桀紂のごとしと・いはれぬれば・の(罵)られたりと腹たつなり。千二百・無量の声聞は法華経ましまさずば誰か名をも・きくべき、其の音(こえ)をも習うべき。一千の声聞・一切経を結集せりとも・見る人よもあらじ。まして此等の人人を絵像・木像にあらはして本尊と仰ぐべしや。此偏(これひとえ)に法華経の御力によつて一切の羅漢・帰依せられさせ給うなるべし。
 諸の声聞・法華を・はなれさせ給いなば、魚の水をはなれ・猿の木をはなれ・小児の乳をはなれ・民の王を・はなれたるが・ごとし。いかでか法華経の行者をすて給うべき。諸(もろもろ)の声聞(しょうもん)は爾前(にぜん)の経経にては肉眼の上に天眼・慧眼をう(得)、法華経にして法眼・仏眼備われり。十方世界すら猶照見し給うらん。何に況や此の娑婆(しゃば)世界の中・法華経の行者を知見せられざるべしや。
 設(たと)い日蓮・悪人にて・一言・二言・一年・二年・一劫・二劫・乃至百千万億劫・此等の声聞を悪口(あっく)・罵詈(めり)し奉り、刀杖を加えまいらする色なりとも、法華経をだにも信仰したる行者ならばすて給うべからず。譬へば幼稚(おさなきもの)の父母をのる、父母これを・すつるや。梟鳥(きょうちょう)が母を食う・母これをすてず。破鏡(はけい)父をがいす、父これにしたがふ。畜生すら猶かくのごとし。大聖・法華経の行者を捨つべしや。
 されば四大声聞の領解の文に云く「我等今は真に是れ声聞なり、仏道の声を以て一切をして聞かしむ。我等今は真に阿羅漢なり、諸の世間天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし。世尊は大恩まします。希有(けう)の事を以て憐愍(れんびん)教化して我等を利益し給う。無量億劫にも誰か能く報ずる者あらん。手足をもつて供給し、頭頂をもつて礼敬(らいきょう)し、一切をもつて供養すとも皆報ずること能わじ。若しは以て頂戴し、両肩に荷負して恒沙劫(ごうしゃこう)に於て心を尽して恭敬し、又美膳(みぜん)・無量の宝衣及び諸の臥具・種種の湯薬を以てし、牛頭栴檀(ごずせんだん)及び諸の珍宝を以て塔廟(とうみょう)を起て宝衣を地に布き、斯くの如き等の事を以用(もっ)て供養すること・恒沙劫に於てすとも亦報ずること能わじ」等云云。

[開目抄(上) 本文] その五に続く




by johsei1129 | 2019-10-10 22:03 | 開目抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)


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