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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 08日

日蓮大聖人自らが末法の本仏であることを明かした書【開目抄】 (上) その三

[開目抄(上) 本文] その
 日本・我朝には華厳等の六宗、天台・真言・已前にわたりけり。華厳・三論・法相、諍論(じょうろん)水火なりけり。伝教大師・此の国にいでて六宗の邪見をやぶるのみならず、真言宗が天台の法華経の理を盗み取りて自宗の極とする事あらはれ・をはんぬ。伝教大師・宗宗の人師の異執(いしゅう)をすてて・専ら経文を前(さき)として責めさせ給しかば、六宗の高徳・八人・十二人・十四人・三百余人・並に弘法大師等せめをとされて日本国・一人もなく天台宗に帰伏し、南都・東寺・日本一州の山寺、皆叡山(えいざん)の末寺となりぬ。又漢土の諸宗の元祖の天台に帰伏して謗法の失を・まぬかれたる事もあらはれぬ。
 又其の後やうやく世をとろへ・人の智あさく・なるほどに、天台の深義は習いうしないぬ。他宗の執心は強盛になるほどに、やうやく六宗・七宗に天台宗をとされて・よわ(弱)りゆくかの・ゆへに、結句は六宗・七宗等にもをよばず。いうにかいなき禅宗・浄土宗にをとされて、始めは檀那やうやく・かの邪宗にうつる。結句は天台宗の碩徳(せきとく)と仰がる人人、みな・をちゆきて彼の邪宗をたすく。さるほどに六宗・八宗の田畠・所領、みなたをされ正法失せはてぬ。天照太神・正八幡・山王等・諸の守護の諸大善神も法味を・なめざるか、国中を去り給うかの故に悪鬼・便(たより)を得て国すでに破れなんとす。

 此に予・愚見をもつて前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、其の相違多しといえども先ず世間の学者もゆるし・我が身にも・さもやと・うちをぼうる事は、二乗作仏(さぶつ)・久遠実成(くおん・じつじょう)なるべし。
 法華経の現文を拝見するに舎利弗(しゃりほつ)は華光(けこう)如来・迦葉(かしょう)は光明如来・須菩提(しゅぼだい)は名相如来・迦旃延(かせんねん)は閻浮那提(えんぶなだい)金光如来・目連(もくれん)は多摩羅跋栴檀香仏(たまらばつ・せんだんこうぶつ)・富楼那(ふるな)は法明如来・阿難は山海慧自在通王仏(さんかいえ・じざいつうおうぶつ)・羅睺羅(らごら)は蹈七宝華如来(とうしっぽうけにょらい)・五百七百は普明(ふみょう)如来・学無学二千人は宝相如来・摩訶波闍波提比丘尼(まかはじゃはだいびくに)・耶輸多羅比丘尼(やしゅたらびくに)等は一切衆生喜見如来・具足千万光相如来等なり。此等の人人は法華経を拝見したてまつるには尊きやうなれども、爾前(にぜん)の経経を披見の時は・けを(興)さむる事どもをほし。
 其の故は仏世尊は実語の人なり、故に聖人・大人と号す。外典・外道の中の賢人・聖人・天仙なんど申すは実語につけたる名なるべし。此等の人人に勝れて第一なる故に世尊をば大人とは・申すぞかし。此の大人「唯以一大事因縁故(ゆいいいちだいじ・いんねんこ)・出現於世(しゅつげんのせ)」となのらせ給いて「未だ真実を顕さず・世尊は法久しうして後・要(かなら)ず当(まさ)に真実を説くべし。正直に方便を捨て」等云云。多宝仏・証明を加え、分身・舌を出す等は舎利弗が未来の華光如来・迦葉が光明如来等の説をば誰の人か疑網(ぎもう)をなすべき。
 而れども爾前の諸経も又仏陀の実語なり。大方広仏華厳経に云く「如来の知慧・大薬王樹は唯二処に於て生長して利益を為作(な)すこと能わず。所謂二乗の無為広大の深坑(じんこう)に堕つると、及び善根を壊(やぶ)る非器の衆生は大邪見・貪愛の水に溺るるとなり」等云云。
 此の経文の心は雪山に大樹あり、無尽根となづく。此を大薬王樹と号す。閻浮提(えんぶだい)の諸木の中の大王なり。此の木の高さは十六万八千由旬なり。一閻浮提の一切の草木は此の木の根ざし、枝葉・華菓の次第に随つて華菓なるなるべし。此の木をば仏の仏性に譬へたり。一切衆生をば一切の草木にたとう。但し此の大樹は火坑と水輪の中に生長せず。二乗の心中をば火坑にたとえ、一闡提(せんだい)人の心中をば水輪にたとえたり。此の二類は永く仏になるべからずと申す経文なり。
 大集経に云く「二種の人有り、必ず死して活きず。畢竟(ひっきょう)して恩を知り・恩を報ずること能わず。一には声聞、二には縁覚なり。譬えば人有りて深坑(じんこう)に堕墜(だつい)し、是の人自ら利し・他を利すること能わざるが如く、声聞・縁覚も亦復是くの如し。解脱の坑(あな)に堕して自ら利し、及以(およ)び他を利すること能わず」等云云。
 外典・三千余巻の所詮に二つあり。所謂孝と忠となり。忠も又孝の家よりいでたり。孝と申すは高なり、天高けれども孝よりも高からず。又孝とは厚なり、地あつけれども孝よりは厚からず。聖賢の二類は孝の家よりいでたり、何に況んや仏法を学せん人、知恩・報恩なかるべしや。仏弟子は必ず四恩をしつて知恩報恩をいたすべし。
 其の上、舎利弗・迦葉等の二乗は二百五十戒・三千の威儀・持整(じせい)して味・浄・無漏(むろ)の三静慮(じょうりょ)・阿含経をきわめ・三界の見思を尽せり。知恩・報恩の人の手本なるべし。然るを不知恩の人なりと世尊定め給ひぬ。其の故は父母の家を出て出家の身となるは、必ず父母を・すくはんがためなり。二乗は自身は解脱(げだつ)と・をもえども・利他の行かけぬ。設(たと)い分分の利他ありといえども父母等を永不成仏の道に入るれば・かへりて不知恩の者となる。

 維摩(ゆいま)経に云く「維摩詰(ゆいまきつ)又文殊師利に問う。何等をか如来の種と為す。答えて曰く、一切塵労の疇(ともがら)は如来の種と為る。五無間を以て具すと雖も猶能く此の大道意を発す」等云云。又云く「譬(たと)えば族姓の子・高原陸土には青蓮芙蓉衡華(しょうれん・ふようこうけ)を生ぜず、卑湿汚田(ひしゅうおでん)乃ち此の華を生ずるが如し」等云云。又云く「已に阿羅漢(あらかん)を得て応真(おうじん)と為る者は、終に復道意を起して仏法を具(ぐ)すること能わざるなり。根敗の士(ひと)・其の五楽に於て復利すること能わざるが如し」等云云。
 文の心は貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)等の三毒は仏の種となるべし、殺父(しふ)等の五逆罪は仏種となるべし、高原の陸土には青蓮華生ずべし、二乗は仏になるべからず。いう心は二乗の諸善と凡夫の悪と相対するに、凡夫の悪は仏になるとも二乗の善は仏にならじとなり。諸の小乗経には悪をいましめ善をほむ。此の経には二乗の善をそしり、凡夫の悪をほめたり。かへつて仏経とも・をぼへず。外道の法門のやうなれども詮するところは二乗の永(よう)不成仏をつよく定めさせ給うにや。
 方等陀羅尼(だらに)経に云く「文殊・舎利弗に語らく、猶枯樹の如く更に華を生ずるや不(いな)や。亦山水の如く本処に還(かえ)るや不や。折石(しゃくせき)還つて合うや不や。焦種(しょうしゅ)芽を生ずるや不や。舎利弗の言く、不(いな)なり。文殊の言く、若し得べからずんば・云何(いかん)ぞ我に菩提(ぼだい)の記を得るを問うて心に歓喜を生ずるや」等云云。
 文の心は枯れたる木・華さかず、山水・山にかへらず、破れたる石あはず、いれる種をいず。二乗また・かくのごとし。仏種をいれり等となん。

 大品般若経に云く「諸の天子・今未だ三菩提心を発(おこ)さずんば応に発すべし。若し声聞の正位に入れば・是の人能く三菩提心を発さざるなり。何を以ての故に。生死の為に障隔(しょうきゃく)を作す故」等云云。
 文の心は二乗は菩提心を・をこさざれば我随喜せじ、諸天は菩提心を・をこせば我随喜せん。
 首楞厳(しゅりょうごん)経に云く「五逆罪の人・是の首楞厳三昧(しゅりょうごん・ざんまい)を聞いて阿耨(あのく)菩提心を発せば還つて仏と作るを得。世尊・漏尽(ろじん)の阿羅漢は猶破器の如く永く是の三昧を受くるに堪忍(かんにん)せず」等云云。浄名経に云く「其れ汝に施す者は福田と名けず。汝を供養する者は三悪道に堕す」等云云。
 文の心は迦葉(かしょう)・舎利弗等の聖僧を供養せん人天等は必ず三悪道に堕つべしとなり。
 此等の聖僧は仏陀を除きたてまつりては人天の眼目・一切衆生の導師とこそ・をもひしに、幾許(いくばく)の人天・大会の中にして・かう度度・仰せられしは本意なかりし事なり。只詮ずるところは我が御弟子を責めころさんとにや。此の外・牛驢(ごろ)の二乳・瓦器金器・螢火日光等の無量の譬へをとつて二乗を呵嘖(かしゃく)せさせ給き。一言二言ならず・一日二日ならず・一月二月ならず・一年二年ならず・一経二経ならず・四十余年が間、無量無辺の経経に無量の大会の諸人に対して一言もゆるし給う事もなく・そしり給いしかば世尊の不妄語なりと我もしる・人もしる・天もしる・地もしる。一人二人ならず百千万人・三界の諸天・竜神・阿修羅(あしゅら)・五天・四洲・六欲・色・無色・十方世界より雲集せる人天・二乗・大菩薩等皆これをしる又皆これをきく。各各国国へ還(かえ)りて娑婆(しゃば)世界の釈尊の説法を彼れ彼れの国国にして一一にかたるに、十方無辺の世界の一切衆生・一人もなく迦葉・舎利弗等は永不成仏の者、供養しては・あしかりぬべしと・しりぬ。
 而るを後八年の法華経に忽(たちまち)に悔還(くいかえ)して二乗作仏すべしと仏陀とかせ給はんに、人天大会・信仰をなすべしや。用ゆべからざる上、先後の経経に疑網(ぎもう)をなし、五十余年の説教・皆虚妄(こもう)の説となりなん。されば四十余年・未顕真実等の経文はあらませしが、天魔の仏陀と現じて後八年の経をばとかせ給うかと疑網するところに、げ(実)にげに・しげに・劫国(こうこく)・名号と申して二乗成仏の国をさだめ・劫をしるし、所化の弟子なんどを定めさせ給へば教主釈尊の御語すでに二言になりぬ。自語相違と申すはこれなり。外道が仏陀を大妄語の者と咲(わら)いしこと・これなり。
 人天大会・けを(興)さめて・ありし程に爾(そ)の時に東方・宝浄世界の多宝如来・高さ五百由旬・広さ二百五十由旬(ゆじゅん)の大七宝塔に乗じて教主釈尊の人天・大会に自語相違をせめられて・とのべ(左宣)・かうのべ(右宣)さまざまに宣べさせ給いしかども・不審猶をは(晴)るべしとも・みへず・もてあつか(持扱)いて・をはせし時、仏前に大地より涌現して虚空にのぼり給う。例せば暗夜に満月の東山より出づるがごとし。七宝の塔・大虚(おおぞら)にかからせ給いて大地にも・つかず大虚にも付かせ給はず、天中に懸りて宝塔の中より梵音声を出して証明して云く「爾の時に宝塔の中より大音声を出して歎(ほ)めて云く、善哉(よきかな)善哉・釈迦牟尼世尊、能く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て大衆の為に説きたもう。是くの如し・是くの如し。釈迦牟尼世尊の所説の如きは皆是れ真実なり」等云云。
 又云く「爾の時に世尊・文殊師利等の無量百千万億・旧住娑婆(くじゅう・しゃば)世界の菩薩・乃至人・非人等一切の衆の前に於て大神力を現じたもう。広長舌を出して上(か)み梵世に至らしめ、一切の毛孔より・乃至十方世界・衆(もろもろ)の宝樹の下の師子の座の上の諸仏も亦復是くの如く、広長舌を出し無量の光を放ちたもう」等云云、
 又云く「十方より来りたまえる諸の分身の仏をして各本土に還らしめ、乃至多宝仏の塔も還つて故(もと)の如くし給うべし」等云云。
 大覚世尊・初成道の時、諸仏・十方に現じて釈尊を慰諭(いゆ)し給う上・諸の大菩薩を遣しき。般若経の御時は釈尊・長舌を三千にをほひ千仏・十方に現じ給い、金光明経には四方の四仏現せり。阿弥陀経には六方の諸仏・舌を三千にををう。大集経には十方の諸仏・菩薩、大宝坊にあつまれり。此等を法華経に引き合はせて・かんがうるに黄石(おうしゃく)と黄金(おうごん)と白雲と白山と白冰(はくひょう)と銀鏡と黒色と青色とをば翳眼(えいがん)の者・眇目(みょうもく)の者・一眼の者・邪眼の者は・みたがへつべし。華厳経には先後の経なければ仏語相違なし。なにに・つけてか大疑いで来(く)べき。大集経・大品経・金光明経・阿弥陀経等は諸小乗経の二乗を弾呵(だんか)せんがために十方に浄土をとき、凡夫・菩薩を欣慕(ごんぼ)せしめ、二乗を・わずら(煩)はす。小乗経と諸大乗経と一分の相違あるゆへに或は十方に仏現じ給ひ・或は十方より大菩薩をつかはし・或は十方世界にも此の経をとくよし(由)をしめし・或は十方より諸仏あつまり給う・或は釈尊・舌を三千に・をほ(蔽)ひ・或は諸仏の舌をいだす・よしをとかせ給う。此(これ)ひとえに諸小乗経の十方世界・唯有一仏と・とかせ給いし・をもひを・やぶるなるべし。法華経のごとくに先後の諸大乗経と相違・出来して舎利弗(しゃりほつ)等の諸の声聞・大菩薩・人天等に「将に魔の仏と作(な)る」と・をもはれさせ給う大事にはあらず。而るを華厳・法相・三論・真言・念仏等の翳眼(えいがん)の輩、彼彼の経経と法華経とは同じと・うちをもへるは・つたなき眼なるべし。

 但在世は四十余年をすてて法華経につき候ものもや・ありけん。仏滅後に此の経文を開見して信受せんこと・かたかるべし。先ず一つには爾前の経経は多言なり、法華経は一言なり。爾前の経経は多経なり、此の経は一経なり。彼彼の経経は多年なり、此の経は八年なり。仏は大妄語の人・永く信ずべからず、不信の上に信を立てば爾前の経経は信ずる事もありなん、法華経は永く信ずべからず。
 当世も法華経をば皆信じたるやうなれども法華経にては・なきなり。其の故は法華経と大日経と、法華経と華厳経と、法華経と阿弥陀経と一なるやうを・とく人をば悦んで帰依し、別別なるなんど申す人をば用いず。たとい用ゆれども本意なき事とをもへり。
 日蓮云く、日本に仏法わたりて・すでに七百余年、但(ただ)伝教大師・一人計(ばか)り法華経をよめりと申すをば諸人これを用いず。但し法華経に云く「若し須弥(しゅみ)を接(と)つて他方の無数の仏土に擲置(なげお)かんも、亦未だ為(これ)難しとせず、乃至若し仏滅後に悪世中に於て能く此の経を説かん、是れ則ち為(これ)難し」等云云。
 日蓮が強義・経文に普合(ふごう)せり。法華経の流通たる涅槃経に末代濁世に謗法の者は十方の地のごとし、正法の者は爪上(そうじょう)の土のごとしと・とかれて候は・いかんがし候べき。日本の諸人は爪上の土か、日蓮は十方の土か・よくよく思惟あるべし。
 賢王の世には道理かつべし、愚主の世に非道・先をすべし、聖人の世に法華経の実義顕はるべし等と心うべし。此の法門は迹門と爾前と相対して爾前の強きやうに・をぼゆ。もし爾前つよるならば舎利弗等の諸の二乗は永不成仏の者なるべし。いかんが・なげかせ給うらん。

 二には教主釈尊は住劫・第九の減・人寿百歳の時・師子頬王(ししきょうおう)には孫・浄飯王(じょうぼんのう)には嫡子・童子悉達(しった)太子・一切義成就菩薩これなり。御年十九の御出家・三十成道の世尊、始め寂滅道場にして実報華王の儀式を示現して十玄・六相・法界円融・頓極微妙(とんごくみみょう)の大法を説き給い、十方の諸仏も顕現し一切の菩薩も雲集せり。土といひ・機といひ・諸仏といひ・始めといひ・何事につけてか大法を秘し給うべき。されば経文には「顕現自在力・演説円満経等」云云。一部六十巻は一字一点もなく円満経なり。譬へば如意宝珠は一珠も無量珠も共に同じ。一珠も万宝を尽して雨(ふら)し、万珠も万宝を尽すがごとし。華厳経は一字も万字も但同事なるべし。「心仏及衆生」の文は華厳宗の肝心なるのみならず、法相・三論・真言・天台の肝要とこそ申し候へ。
 此等程いみじき御経に何事をか隠すべき。なれども二乗闡提(せんだい)・不成仏と・とかれしは珠のきずと・みゆる上、三処まで始成正覚と・なのらせ給いて久遠実成(くおん・じつじょう)の寿量品を説きかくさせ給いき。珠の破(われ)たると・月に雲のかかれると・日の蝕したるがごとし、不思議なりしことなり。阿含・方等・般若・大日経等は仏説なれば・いみじき事なれども、華厳経にたい(対)すれば・いうにかいなし。彼の経に秘せんこと・此等の経経にとかるべからず。されば雑阿含経に云く「初め成道」等云云。大集経に云く「如来成道始め十六年」等云云。浄名経に云く「始め仏樹に坐して力(つと)めて魔を降す」等云云。大日経に云く「我昔道場に坐して」等云云。仁王般若経に云く「二十九年」等云云。
 此等は言うにたらず只耳目を・をどろかす事は無量義経に華厳経の唯心法界・方等・般若経の海印三昧(かいいんざんまい)・混同無二等の大法をかきあげて、或は未顕真実・或は歴劫修行等・下す程の御経に、我先きに道場菩提樹の下に端坐すること六年、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたら・さんみゃくさん・ぼだい)を成ずることを得たりと初成道の華厳経の始成の文に同ぜられし。不思議と打ち思うところに此は法華経の序分なれば正宗の事をいはずもあるべし。法華経の正宗・略開三・広開三の御時「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)・及能究尽(ないのうくじん)・諸法実相」等「世尊法久後等・正直捨方便」等。多宝仏・迹門八品を指して皆是真実と証明せられしに、何事をか隠すべきなれども、久遠寿量をば秘せさせ給いて我始め道場に坐し・樹を観じて亦経行す等云云。最第一の大不思議なり。
 されば弥勒菩薩・涌出品に四十余年の未見今見の大菩薩を仏「爾(しか)して乃(すなわ)ち之を教化して初めて道心を発(おこ)さしむ」等と・とかせ給いしを疑つて云く「如来太子為りし時、釈の宮を出でて伽耶城(がやじょう)を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たまえり。是より已来(このかた)始めて四十余年を過ぎたり。世尊・云何(いかん)ぞ此の少時に於て・大いに仏事を作したまえる」等云云。
 教主釈尊・此等の疑ひを晴らさんがために寿量品を・とかんとして爾前迹門のきき(所聞)を挙げて云く「一切世間の天人及び阿修羅(あしゅら)は皆今の釈迦牟尼仏、釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり」等と云云。正しく此の疑ひを答えて云く「然るに善男子、我実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺・百千万億・那由佗劫(なゆたこう)なり」等云云。
 華厳(けごん)・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成(くおんじつじょう)を説きかくさせ給へり。此等の経経に二つの失(とが)あり。一には行布を存するが故に仍(な)お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり。二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり。此等の二つの大法は一代の綱骨(こうこつ)・一切経の心髄なり。
 迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり。しかりと・いえども・いまだ発迹顕本(ほっしゃく・けんぽん)せざれば・まこと(実)の一念三千もあらはれず・二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮べるにに(似)たり。
 本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕はす。此(これ)即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わりて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。
 かうて・かへりみれば華厳経の台上十方・阿含経の小釈迦・方等般若の金光明経の阿弥陀経の大日経等の権仏等は、此の寿量の仏の天月・しばらく影を大小の器にして浮べ給うを・諸宗の学者等・近くは自宗に迷い、遠くは法華経の寿量品をしらず。水中の月に実の月の想いをなし、或は入つて取らんと・をもひ、或は縄を・つけて・つなぎとどめんとす。天台云く「天月を識(し)らず・但池月(ちげつ)を観ず」等云云。

[開目抄(上) 本文] その四に続く




by johsei1129 | 2019-10-08 21:16 | 開目抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)


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