日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 02月 25日

日蓮大聖人自らが末法の本仏であることを明かした書【開目抄】 (上) その一

【開目抄(かいもくしょう】
■出筆時期:文応9年2月 (西暦1272年)、日蓮大聖人51歳の時、門下一同に与えるため出筆。ご真筆は当時鎌倉に在住していた豪信者で、武家の『四条中務三郎左衛門尉頼基(以下四条金吾)』に送られている。これは大聖人が流罪されていた佐渡では、いつ何時、幕府の意向で出筆した御書を廃棄されかねないことを恐れ、武家で地位のある四条金吾の手元で保管することが、後世のために安全であると判断したものと思われる。
■出筆場所:佐渡ヶ島 塚原三昧堂。
■出筆の経緯:
文永8年9月12日(西暦1272年)、 平頼綱(鎌倉幕府9代執権北条貞時の執事)は、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で鎌倉の松葉谷草庵にいた日蓮大聖人を捕縛、翌日9月12日子丑の刻(午前2時前後)、大聖人をはだか馬に乗せ、江ノ島片瀬の龍の口の刑場で斬首しようとしたが、途中、鶴ヶ岡八幡宮にさしかかったとき、大聖人は大声で『八幡大菩薩はまことの神か・・・略・・・いま日蓮は日本第一の法華経の行者なり、其の上、身に一分のあやまちなし・・・略・・・日蓮今夜頸切られて霊山浄土へまいりあらん時は、まず天照大神・正八幡こそ起請をもちいぬ神と候いけれとさしきりて、教主釈尊に申し上げ候はん・・・・(種々御振舞御書より)』と一喝し、法華経の行者を守るとした起請を果たすよう叱りつけた。
いよいよ首を斬ろうと、役人が刀をかまえたとたん、江ノ島の方角から大きな光の玉(恐らく隕石が落ちたのではと思われる)が飛んできて、役人は驚愕し逃げ去り、その後鎌倉幕府から「日蓮の首斬るな」との連絡がはいり結局佐渡流罪となる。この龍ノ口の法難を契機に大聖人は、法華経に予知されている末法の本仏は自分であると開覚、自ら末法の人本尊であることを門下一同に示すため、佐渡の地で【開目抄】の出筆に着手する。さらに翌年(文応10年)には法本尊を示した『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』を出筆している。
■ご真筆:身延山久遠寺 曽存(明治8年の大火で消失)。古写本:日乾筆(京都本満寺 所蔵)

[開目抄(上) 本文] その一

夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり。
儒家には三皇・五帝・三王・此等を天尊と号す諸臣の頭目・万民の橋梁なり、三皇已前は父をしらず人皆禽獣に同ず五帝已後は父母を弁て孝をいたす、所謂重華はかたくなはしき父をうやまひ沛公は帝となつて大公を拝す、武王は西伯を木像に造り丁蘭は母の形をきざめり、此等は孝の手本なり、比干は殷の世の・ほろぶべきを見て・しゐて帝をいさめ頭をはねらる、公胤といゐし者は懿公の肝をとつて我が腹をさき肝を入て死しぬ此等は忠の手本なり、尹寿は尭王の師・務成は舜王の師・大公望は文王の師・老子は孔子の師なり此等を四聖とがうす、天尊・頭をかたぶけ万民・掌をあわす、此等の聖人に三墳・五典・三史等の三千余巻の書あり、其の所詮は三玄をいでず三玄とは一には有の玄・周公等此れを立つ、二には無の玄・老子等・三には亦有亦無等・荘子が玄これなり、玄とは黒なり父母・未生・已前をたづぬれば或は元気よりして生じ或は貴賤・苦楽・是非・得失等は皆自然等云云。

[開目抄(上) 本文]  その二に続く


by johsei1129 | 2014-02-25 00:39 | 開目抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)
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