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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 08月 28日

小説「日蓮の生涯」下48  つたなき者たち

日蓮の弟子はすべて従順だったわけではない。彼らはそれぞれ目的をもっていた。その目的とは必ずしも日蓮その人であったわけではない。

立身を夢み、名声を得ようとした者も少なくない。このような弟子たちはなんらかの形で日蓮にあやかり、自分を輝かせるよう努めた。良い意味でも悪い意味でも。

 三位房はその代表だった。

 日蓮は彼の才能を認めていた。京都に派遣して教線を拡大しようとしたほどだった。三位房は竜の口の法難では日蓮とともに殉死しようとしたといわれる。それほど強信だったが、同じくらい功名心が異常に強かった。三位房は大都会の京都で慢心し、公家を折伏して面目をほどこしたと自慢して姓名をかえることまで考えた。

日蓮は手紙でその浮かれた心中をきびしく叱責している。

  総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば、始めはわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるう、せう(少輔)房がごとし。()御房もそれて()()になりて天のにくまれ()ほるな。『法門申さるべき様の事』

 少輔房と言う弟子がいたが、退転して日蓮に背いている。三位房もその轍を踏むなという。

安房の信徒、光日房にあてた手紙には、ふがいない弟子の姿がありありと伝えられている。


なにとなく我が智慧は()らぬ者が、或はこづき、或は此の文をさい()かく()としてそし()り候なり。或はよも此の御房は弘法大師にはまさらじ、よも慈覚大師には()へじなんど、人()らべをし候ぞ。かく申す人をばものしらぬ者とを()すべし。『光日房御書』

 三位房たちは、かげで日蓮の才能を批評しあっていた。

「日蓮の師匠は弘法大師には劣るだろう。慈覚大師には勝ることはあるまい」などと、なかばからかうように自分の師をもてあそんでいたのである。

慈覚大師は、今ではあまり知られていないが、当時は伝教大師最澄よりも重んじられていた人である。日蓮は弘法・慈覚をものともせず諸宗の破折にいどんだが、智慧のたらぬ弟子が足をひいていた。日蓮はこのような弟子たちを「ものしらぬ者」と断言した。

 日蓮を理解できない者は、仏法を理解できない。日蓮の心中にわずかでも迫ることができれば、仏法を体現できるのだが、つたない弟子は仏法が日蓮と別な存在であると思っていた。

 日蓮は竜の口の法難で自身が主師親の三徳をあらわしたと宣言したが、これを疑う弟子もいた。

 艱難をともにして佐渡までつき従った弟子の中にも、疑う者がいたのである。まして安穏としている弟子にとっては、日蓮は一介の僧にすぎない。比叡山で徳を積んだ者としか見れなかった。

 このような者たちは折伏ができない。

疑って云はく、念仏者と禅宗等を無間と申すは(あらそ)ふ心あり。修羅(しゅら)(どう)にや堕つべかるらむ。

(中略) 汝が不審をば、世間の学者、多分道理とをもう。いかに諫暁(かんぎょう)すれども、日蓮が弟子等も此のをもひすてず。『開目抄 下』

 

 世間の人々は、日蓮が念仏や禅宗を無間地獄であると破折するのは、もめごとばかりおこす修羅心のあらわれであるという。日蓮の弟子にもこの思いを捨てきれない者がいたのである。

弟子のふがいなさをなげく文は多い。


我が弟子等が愚案にをも()わく、我が師は法華経を弘通し給ふとてひろまらざる上、大難の来たれるは、真言は国をほろぼす、念仏は無間地獄、禅は天魔の所為(しょい)、律僧は国賊との給ふゆへなり。例せば道理有る問注に悪口のまじわれるがごとしと云々。『諫暁八幡抄』


弟子たちは過激に諸宗を攻撃することについていけない。弟子になかには日蓮のせいで法華経がひろまらないと思う者もいた。たとえば整然とした討論で中傷がまじるようなものだと。

日蓮はいきどおる。


日蓮我が弟子に反詰(はんきつ)して云はく、汝若し(しか)らば我が問を答へよ。一切の真言師・一切の念仏者・一切の禅宗等に向って南無妙法蓮華経と唱へ給へと勧進(かんじん)せば、彼等が云はく、我が弘法大師は法華経と釈迦仏とをば()(ろん)()(みょう)の辺域・力者・はき物とりに及ばずとかゝせ給ひて候。物の用にあわぬ法華経を読誦せんよりも、其の口に我が小呪(しょうじゅ)一反(いっぺん)も見つべし。一切の在家の者の云はく、善導和尚は法華経をば千中無一、(ほう)(ねん)上人(しょうにん)捨閉(しゃへい)閣抛(かくほう)(どう)(しゃく)禅師は未有一人得者と定めさせ給ヘり。汝がすゝむる南無妙法蓮華経は我が念仏の(さわ)りなり。我等(たと)ひ悪をつくるともよも唱へじ。一切の禅宗の云はく、我が宗は教外別伝と申して一切経の(ほか)に伝へたる最上の法門なり。一切経は指のごとし、禅は月のごとし、天台等の愚人は指をまぼ()て月を(うしな)ひたり。法華経は指なり禅は月なり。月を見て後は指は何のせん()かあるべきなんど申す。かくのごとく申さん時は、いかにとしてか南無妙法蓮華経の良薬(ろうやく)をば彼等が口には入るべき。   
          

 念仏・禅・真言・律の迷妄は深い。

彼らの邪心をひるがえすことは、一筋縄ではいかない。千引きの石をかえすよりも困難である。かれらは自分の師を信じ、師の教義をかたくなに守っているからである。これを打ちくずすには(こうべ)を割る折伏以外に方法はない。

 折伏すれば、彼らは必ず誹謗する。その誹謗をもって妙法に縁させることができる。これを下種という。「信謗(しんぼう)彼此(ひし)決定(けつじょう)菩提(ぼだい42)」はこの意味である。

 この日蓮の苦心を弟子たちはわからない。弟子たちは、身は日蓮についていたが、心中はちがっていた。

日蓮は竜の口の法難で退転した弟子檀那の言いわけをしるしている。

日蓮御房は師匠にてはおわせども余りに()はし、我等はやわ()らかに法華経を弘むべし 佐渡御書』

 彼らは師匠のきびしさについていけない。

彼らは成仏の道が、日蓮の教えとはちがう世界にあるのではないかと考え、意見を異にした。彼らは日蓮が難にあうとまっさきに退転し、のこりの人々は時がたつにつれ、日蓮とはなれていった。

 此の法門につきし人あまた候ひしかども、を()やけわ()くしの大難度々(たびたび)(かさ)なり候ひしかば、一年二年こそつき候ひしが、後々には皆(あるい)はをち、或はかへり矢をいる。或は身は()ちねども心をち、或は心はをちねども身はをちぬ。  『四条金吾殿御返事』

身延の地頭、波木井(はきり)(さね)(なが)が信心に目ざめたのは日興の折伏による。日蓮が身延に居を移したのは日興の力があった。これはすでに述べた。このことはだれも口をはさむことはできない。

伯耆房日興が日蓮に出会ったのは、十二歳の時だった。いらい日蓮を親とも主とも師とも慕って今日まできた。

日興は師亡きあと、教団の統率者として師の教えを忠実に守り、後世に伝えようとした。弟子の育成にも必死だった。

だが時の経過とともに日興からはなれていく者がでてきた。師の日蓮は「身はをちねども心をち(あるい)は心は・おちねども身はおちぬ」の言葉をのこし、信念を続けることがいかに困難かを説いていた。このことは日蓮の死後にも現実化した。

六老僧は日蓮から前もって月単位で墓番を命じられていた。しかし日興以外の五人は三年とたたずに身延を去った。

日昭は相模浜土へ、日朗は鎌倉へ、日頂は下総へ下っていった。五人は墓守で一生を終わりたくはなかったのだろうか。彼らは若僧をつれて去ってしまった。

予想していたとおりだった。わずか三年で日蓮の墓は荒れはてる。

何事よりも身延沢の御墓の荒れはて候て鹿かせきの(ひづめ)(まのあ)たり(かか)らせ給ひ候事目も当てられぬ事に候 『美作公御房御返事』

日蓮の墓はすでに鹿のひづめで荒廃していたのである。信じられない話だが、だれも手をつける者がいない。



       下49 地頭の謗法 につづく

   




42 信謗彼此、決定菩提

「信謗彼此、決定して菩提を成ぜん」と読む。日蓮が伝教の依慿集にある「信謗彼此・決定成仏」という文を引用し、述べた文。信ずる者は順縁によて、誹謗する者は毒鼓の縁によって、両者ともに必ず菩提を成ずる、すなわち成仏することができるとの意。



by johsei1129 | 2014-08-28 10:31 | Trackback | Comments(0)


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